西周幽紀
今回は初の君主回です。
大人になってもオオカミ少年、西周の幽王についてです。
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姫宮涅(前漢の司馬遷の史記では姫宮湦とする、もしくは姫涅)は宣王33年(紀元前795年)(紀元前794年説あり)に姫静(もしくは姫靖)の長男として産まれた。本貫地、字は不明。
東晋の干宝の捜神記によればこの年、馬が狐へと姿を変える異変があったという。
宣王46年(紀元前782年)に姫静が崩じた。諡号は宣王である(宣は美諡であり広く行きわたり明らかの意)。姫静の死因について宋の墨翟(子翟とも)の墨子は奇妙な記述を残している(同じ話が左丘明(孔子の諱(孔丘)を避けて左邱明とも)の国語、竹書記年(戦国時代中期の史書)、唐の道世の法苑珠林(仏教典籍)、捜神記に記されている)。
宣王46年(紀元前782年)に姫静は戦車数百乗と歩兵数千を率いて諸侯と共に狩りを行った(狩りは軍事訓練の意)。正午頃に白馬に牽引される素車(白色の馬車)が現れた。それに乗っている人物は赤い冠と赤い服を身に着けていた。その人物の顔を見た姫静は恐れおののき馬車を走らせた。しかし、素車に追いつかれて射殺された。その人物とはこの3年前、宣王43年(紀元前785年)に姫静が処刑した祁平濃(杜平濃とも、名は不明だが字は平濃だという、杜伯とも、杜の諸侯)であった。杜伯は死ぬ直前に恨みのこもった声で言い遺した。
「私は君(姫静のこと)に殺される。しかし、私に罪はない。死者に知覚がないならそれまでだが、知覚があるなら3年以内に君は後悔することになるであろう。」
この言葉が現実のものとなったのである。
この記述から分かることは姫静の頃より既に王と諸侯の間には不穏な空気がただよっていたということである。宣王中興と呼ばれるような太平の世を築きあげたとされる姫静だが、その治世後半には魯の後継者問題への介入や千畝の役(異民族の姜戎との戦い)での大敗、先述のように理由もよく分からないままに諸侯を処刑するなど大きな影を落とした。
このような状況下で姫宮涅は即位した。史書ではこの時から幽王元年(紀元前781年)とする。
幽王2年(紀元前780年)に首都の鎬京周辺をはじめとする関中一帯で大地震が起こった。太史(王朝の史家)の伯陽甫(もしくは伯陽)はこのことを記録し、王朝の衰えの兆候と評している。
幽王3年(紀元前779年)に褒より後宮へ入った褒姒を見初めた。彼女の出自を史記周本紀は記している。
夏后氏(夏王朝のこと)が衰えた頃に2匹の龍が夏の宮廷に留まった。夏の王(誰かは不明)が殺すべきか去らせるべきか留めるべきかを占わせた。しかしいずれも吉とは出なかった。そこで龍の漦(口から出る泡)を給わるのはどうかと占わせた。すると結果は吉。このことを2匹の龍に伝えると二匹は言葉を発した。
「我らは褒の君主の先祖なり。」
そう言うと二匹は漦を残して消えた。漦は箱にしまわれ、夏、殷、西周、と引き継がれた。しかし、西周の第十代の王であった姫胡(もしくは姫㝬、諡は厲王)の御世にその箱が開けられると泡が宮廷の中をみるみるうちに覆っていった。それにはしゃいだ女官たちは裸になった。漦はトカゲとなり、年端も行かぬ少女に
会った。少女が簪をさせる年頃になった時、子を孕んだ。人々は父のいない子に恐れを抱いて道端に捨てた。その頃(姫静の御世)国中でこんな唄が流行った。
「山桑の弓に萁の矢筒、周が亡びよう」
姫静が調べさせると、山桑の弓と萁の矢筒を売る夫婦がいた。姫静は夫婦を殺そうとしたが夫婦は褒へ亡命を図り、その道中で捨てられていた少女の子を拾った。その後(姫宮涅の御世)褒の人が西周王朝に行った非礼を詫びるために褒姒は献上された。
史記燕召公世家などには姫宮涅が女に溺れたとあるので、その女のことを指しているのだろう。
また、姒は出身一族を指しており褒姒とは「褒よりやってきた姒姓の女性」ということを指している言葉であって名前でないとも考えられる。
褒姒は笑わなかった。芸人を招いて芸を見せても笑わなかった。ただ絹を裂く音を聞かせると口を緩めたので国中の絹を破かせたが笑わせるまでには至らなかった。褒姒を笑わせたかった姫宮涅は方策を臣下へ求めた。すると諸侯で側近の一人である虢鼓(虢石父とも呼ばれるが石父は字であり、虢公鼓や姫鼓とも呼ばれる、西虢の諸侯)が異民族の侵攻を伝える狼煙を上げることを勧めた。試してみると息を絶え絶えにして急いで駆けつける諸侯たちが狼煙は間違いだったと知り骨折り損をがっかりする様子を見て見事に褒姒は笑った。その笑顔を見た姫宮涅は喜び、繰り返した。
幽王4年(紀元前778年)に褒姒は姫宮涅の次男である姫伯服(姫伯盤とも)を産んだ(年代は不明だが既に申后が長男の姫宜臼を産んでいた)。
幽王11年(紀元前771年)に姫宮涅は正室の申后とその息子で王太子の姫宜臼を廃して、正室に褒姒を、王太子に褒姒との子である姫伯服を、それぞれつけた。
これに憤慨した申侯(姓名は不明)(申の諸侯にして申后の父であり、姫宜臼の祖父)は犬戎(殷や周、秦と抗争を繰り返した異民族)や繒と結び鎬京へ進撃した(申侯の乱)。狼煙は戯れとして扱われていたため諸侯は参陣せず、ただ鄭の姫友(諡は桓公)のみが参陣した。
結局、驪山の麓にて姫宮涅、姫伯服、姫友は殺され、褒姒は犬戎の捕虜となった。
諡は幽王である(幽は深く、見えないの意の悪諡)。
恐らく褒姒は実在しなかったであろう。
「男が創った王朝を悪女が崩壊させる」
一種の定番である。褒姒という架空の人物をでっちあげることで諸侯たちの不忠(姫宮涅を見殺しにしたこと)を正当化したのだろう。
とにかく、西周の王と諸侯たちの信頼関係はここまで堕ちていたのである。
跡に関しては3つの説がある。
・一つ目は史記周本紀に記された姫宜臼が申、許、秦、晋などに推戴されて洛邑(王城、成周とも呼ばれる)にて王に即位し、東周王朝を開いたという説(諡は平王、平はおだやかや普通の意の美諡)。
・二つ目は竹書記年に記された姫宜臼と同時に姫宮涅の弟である姫余臣(諡は携王、携はそむくの意の悪諡)を虢鼓が擁立して20年間、二人の王が立ったのち姫余臣を姫宜臼が攻め滅ぼしたという説。
・三つ目は清華簡(戦国時代に楚で記された雑多な竹簡)に記された姫余臣が20年間即位したのち、9年間の空白期間を経て姫宜臼が即位したという説。
史記は実在しないと考えられる人物を記しているのでその信頼性に疑問が残る。そのため竹書記年か清華簡の二択となるわけだが、清華簡の方がより史実に近いと思われる。いきなり年少の姫宜臼を王として擁立するよりも年長である姫余臣を擁立した方が専制と批判される可能性も低く、また虢鼓は驪山において殺されたという記述が史記にあり、それ以後どの文献にも登場せず息子の虢翰(姫翰、虢公翰とも)が登場するため竹書記年の記述に整合性がないためである。
東周王朝勃興以後、春秋時代へ突入し骨肉の争いが繰り返されることになるが東周王朝はなおも515年間続くことになる。
すでに西周は崩壊状態。
西周の幽王は西周を崖から落とす最後の一押しだったのです。
次回に乞うご期待!