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李信伝

第二回です!

第二回はキングダムで一躍有名となった李信です。

ためになったら高評価をお願いします!

おすすめの本・・世界史劇場「春秋戦国と始皇帝の誕生」、岩波文庫 史記列伝「1」、岩波文庫 史記世家「上・下」、文春文庫 戦国名臣列伝、新書漢文大系 史記【本紀】

 李信りしんは本貫地、生年ともに不明の戦国せんごく時代のしんの将軍である。前漢ぜんかん司馬遷しばせん史記しきにはその字は見られない。ただ北宋ほくそう欧陽脩おうようしゅう欧陽修おうようしゅうとも)や宋祁そうきたちの新唐書しんとうしょによればその字は有成うせいだという。


 新唐書では秦の大将軍だいしょうぐん(将軍最高位)で隴西ろうせい侯に封ぜられたという。


 新唐書宗室世系表上しんとうしょそうしつけいせいひょうじょうによれば、李信は顓頊高陽せんぎょくこうよう氏の子孫である嬴姓隴西李えいせいろうせいり氏の出自であるという。これが事実だとすれば李信は三皇五帝さんこうごてい黄帝こうてい西晋せいしん皇甫謐こうほひつ帝王世紀ていおうせいきによる)の子孫だということになる(顓頊せんぎょくが黄帝の孫であるため)。また老子ろうしもその先祖にいるという。


 新唐書宗室世系表上によれば祖父は秦の隴西ろうせい郡守(隴西ろうせい郡の長官)で南鄭なんてい公の李崇りすうといい、父はなん郡守(南郡の長官)で狄道てきどう侯の李瑤りようだという。


 李信が文献に初めて見られる最古のものは戦国策せんごくさく巻三十一かんんさんじゅういち燕策三えんさくさんである。


王翦おうせんを総大将とする秦軍がちょうへと侵攻すると同時に出陣して太原だいげん雲中うんちゅうに進撃した。


 史記趙世家しきちょうせいかによればこの遠征は始皇しこう18年(紀元前229年)から始皇19年(紀元前228年)の10月(当時は10月が年の最初だった)にかけて趙の首都であった邯鄲かんたんを陥落させるまで続いたという。


 始皇21年(紀元前226年)に、前年である始皇20年(紀元前227年)(史記燕召公世家しきえんしょうこうせいかでは始皇19年(紀元前228年)だが誤り)にえんの太子である姫丹きたん(もしくは姞丹きつたん)主導で起きた始皇帝しこうてい暗殺未遂事件の報復として王翦と王賁おうほんとう司馬偵しばていがつくった史記索引しきさくいんに「ふんほんと同じ音である」とある)が率いた秦軍に李信は従軍した。


・燕の督亢とくごうを陥落させ、続けて燕の首都であったけいを十ヶ月かけて陥落させたのち王翦に数千の兵を与えられ遼東りょうとう半島へ逃亡する燕王喜えんおうき姫喜きき(もしくは姞喜きつき)のこと)と姫丹を追撃し衍水えんすいにて姫丹を捕えた。


 これは史記白起しきはくき・王翦列伝に拠った記述である。同じ史記でも燕召公世家では遼東の地にて父の燕王喜が子の姫丹の首を刺客に命じて落とし、献上したとしており、刺客しかく列伝(曹沬そうかい(もしくは曹沬そうまつ曹劌そうけい曹翽そうかい)、専諸せんしょ(もしくは鱄設諸せんせつしょ)、豫譲よじょう聶政じょうせい荊軻けいかの勇者の列伝)には刺客が衍水にて殺したと記されている。また秦始皇本紀しんしこうほんぎでは薊陥落と同時に姫丹は斬られたとされているが、暗殺されかけた怒りにかられ遼東まで追いつめたにも関わらず戦線を二年間停滞させたことからも何かしらの理由があったと考えられることからこの記述は誤りであろう。


 始皇22年(紀元前225年)に始皇帝は(史記では秦の荘襄王そうじょうおうの諱(嬴楚えいそ(旧名は嬴異人えいいじん、男性への尊称のをつけて子楚しそ子異人しいじんが有名、戦国策では子異しいが本名とされているが人(じんが抜けたものである)を避けてけいとする)侵攻の軍議を行った。



始皇帝問う。


「李将軍(李信のこと)は荊を攻めるために幾らの兵力が必要か。」


李信答えて曰く。


「20万もあれば十分かと。」


始皇帝これを聴いて喜色を浮かべて曰く。


「可し。」


始皇帝再び問う。


「王将軍(王翦のこと)は荊を攻めるために幾らの兵力が必要か。」


王翦答えて曰く。


「60万ほどあれば十分かと。」


始皇帝嗤いて曰く。


「王将軍の耄碌、いよいよ極まりけり。」



 60万といえば当時、王賁に率いられていた遠征軍30万と合わせて秦軍全軍の数となる。

 

 この問答ののち李信は楚討伐軍の総大将となり蒙恬もうてんと共に20万の兵を率いて楚へ侵攻した。王翦は隠居した。


・李信は蒙恬と20万の兵力を二分した。李信は平輿へいよを、蒙恬はしん劉宋りゅうそう裴駰はいいん史記集解しきしっかいでは寝丘しんきゅう)をそれぞれ陥落させた。楚の首都であったえい周辺で蒙恬と共に楚軍を破ったが蒙恬と軍を合流させた城父じょうほにて三日三晩かけて猛追してきた楚の将軍である項燕こうえんに急襲されて二つの土塁どるい(迎撃用の簡単な土壁)と7人の都尉とい(将校)を失い敗走した。


 この記述は史記白起・王翦列伝によるものだが史記秦始皇本紀では昌平君しょうへいくん(史記にその姓名は記されていないが中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく李開元りかいげん末代楚王史跡鉤沈まつだいそおうしせきこうちん秦謎しんめいによれば羋啓びけい(もしくは熊啓ゆうけい)であるというが駐屯していた(流刑になっていたとも)郢陳えいちんにて占領民の反乱が起こり李信が鎮圧しようと西へ軍を向けたところ、項燕の軍に背を向けるかたちとなり急襲され大破されてしまったと記されている。


 通常なら敗戦した李信と蒙恬は自らも含めて三族さんぞく(血族一同の意)皆殺しの憂き目に遭うはずだったがこの戦いのあとにも記述がある。そのため敗戦後に何かしら敗戦の挽回になるような功績を挙げたと思われるが史書には記載されていない。


 始皇25年(紀元前222年)に王賁の副将としてだい・燕討伐軍に参加した。


・遼東半島を陥落させ燕王喜を捕えて燕を滅亡させたのち、引き返して代王嘉だいおうか嬴嘉えいか(もしくは趙嘉ちょうかのこと)を捕え代を滅ぼした。


 始皇26年(紀元前221年)に王賁を総大将とする軍に蒙恬とともに従軍してせいへ攻め込んだ。


・旧燕領から斉北部へ侵攻し、斉王建せいおうけん田建でんけんのこと)は戦わずに降伏した。


 没年は不明。


 新唐書宗室世系表上によれば跡は子の李超りちょう李伉りこうとも)が継いだ。


 

 ここまでが通説である。しかしこの李信の経歴には多くの疑問が残る。


 

 第一に、なぜ楚での大敗があったにも関わらずすぐに一軍を率いる将軍として復帰しているのかということである。同時代の秦の将軍である樊於期はんおき桓齮かんきが敗戦後に処罰を恐れて燕へ逃亡して三族が殺されている(ただし樊於期は始皇帝の政策に反対して逃亡したとも、戦国策趙策四せんごくさくちょうさくしでは桓齮は戦死したとも、そして中華民国ちゅうかみんこく楊寛ようかん戦国史せんごくしでは二人は同一人物とされている)ところから見ても不自然である。蒙恬はまだしも大口を叩いて始皇帝に恥をかかせた李信ならなおさらである。しかも、代・燕、斉攻めに参加したという記述は李信の時代から130年後に記された史記にしか見られず、その前に記されたと思われる世本せほん(戦国時代中期から前漢初期に成立した)といった一次史料、二次史料には登場しないためやはり賜死したと見るのが妥当だろう。


 第二に、李信の血胤に関してである。新唐書には官職についていたり、著名な先祖がいる、というようなあたかも名家の出身のように記されているが実際のところ、これらの記述はとうの皇族であった氏の血統に箔をつけたかった人々に捏造されたものである。史記李将軍しきりしょうぐん列伝に李信の子孫とされる李広りこうやその孫の李陵りりょうについての記述があるがこれは確かなものと見てもいいだろう。また、李陵の処罰後隴西の人々が李氏の姓を避けたともあるので隴西ゆかりの一族であることは間違いないだろう。またその子孫を五胡十六国時代ごこじゅうろくこくじだい北涼ほくりょうの皇帝である李暠りこうや唐の詩人である李白りはくは称している(どちらも隴西出身)。李超とその子供たちである李元曠りげんこう李仲翔りちゅうしょうも大将軍、侍中じちゅう(皇帝の側近)、征西将軍せいせいしょうぐん(西の反乱鎮圧を行う将軍)という高位に上っているにもかかわらず新唐書にしか記述がないので架空の人物だろう。


 とにかく、将軍として留任できたかは分からないが三族に至るまでは殺されていないところからも始皇帝の信任は厚かったのではないかと推測できる人物である。



系図をボロクソに叩きましたがそれでも敗戦した将軍がその子孫を根絶やしにされていないことは凄いことです。

次回に乞うご期待!

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