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曹参伝

記念すべき第一回目は曹参!

有名なのかどうか落差の激しい人物です。

ウィキペディアが全然役に立たず・・。

おすすめの本・・世界史劇場「項羽と劉邦」、岩波文庫 史記列伝「2と3」、岩波文庫 史記世家「下」、文春文庫 楚漢名臣列伝

 曹参そうさん(もしくは曹参そうしん)は泗水郡沛しすいぐんはい県の人である。その字は前漢ぜんかん司馬遷しばせんが記した史記しきには見えず西晋せいしん張華ちょうかの記した博物志はくぶつし劉宋りゅうそう裴駰はいいんの作成した史記集解しきしっかいにのみ見られ敬伯けいはくという。生年は不明。


 西晋の王沈おうしん魏書ぎしょ東晋とうしん干宝かんぽう捜神記そうじんきによれば曹参のそう氏は春秋戦国しゅんじゅうせんごく時代の小国であるちゅう(もしくはちゅしゅすう)の公族の末裔でそのまた先祖は三皇五帝さんこうごてい黄帝こうてい(西晋の皇甫謐こうほひつ帝王世紀ていおうせいきによる)である。曹魏そうぎの皇族である曹氏は曹参の末裔であるという(ただし曹魏の太皇帝たいこうてい夏侯かこう氏からの養子であるので傍流の曹仁そうじん曹休そうきゅうがこれに当てはまる)。また、捜神記には年数などの異同はあるもののそう子臣ししんが曹魏が成立するという予言をする描写がある。

 

 秦の始皇帝しこうていの治世から二世皇帝にせいこうてい初期の治世にかけては沛県の刑務所の属吏ぞくり(下級役人)だった。蕭何しょうかはその時の上司にあたり、共に能吏(役人の中の中心人物)として顔を利かせていた。二人の仲は良好だったという。

 

 二世皇帝元年(紀元前209年)前漢の高祖こうそが兵を挙げた時、中涓ちゅうけん(本来は禁中の掃除役で天子の左右に親近するものだが侍従の意だろう)として従軍した。

 

 年代は分からないが戦果を挙げていく。


胡陵こりょう方与ほうよの地にて秦の泗水郡のかん(郡の監査官)名は【史記】夏侯嬰かこうえい伝にへいとあるが姓は不明)の軍を破った。

へ叛いた方与とほうを制圧した。

とう県の東方で秦将の司馬夷(しばい、原文では司馬(尸に二)となっているが夷と(尸に二)は同じ音と意味)とその軍を撃破する。

 

 方与と豊の制圧後曹参は七大夫しちたいふ五大夫ごたいふ?)の爵位を授けられている。この後、曹参は別働隊を率いて西進する高祖を助けるため転戦した。その際の功績も列挙する。


・碭と狐父こほ、および県の善置ぜんちを占領し下邑かゆう以南のの地まで進出した。

・秦将の章邯しょうかん趙正書ちょうせいしょでは張邯ちょうかん)の騎兵隊を大破したのち爰戚えんせき亢父こうふを制圧する。

・章邯とその軍を大破したのち東阿とうあ濮陽ぼくよう定陶ていとうへ進撃し臨済りんさいを占領する。

・南下して雍丘ようきゅうを救援したのち秦の三川さんせん郡守(三川郡の長官)の李由りゆうを討滅し軍侯ぐんこう(軍の高級将校)を捕虜とした。


 このうち雍丘についての功績があることから雍丘が反秦の拠点となっていたと分かる。

 

 高祖は曹参を執帛しつぱく独自の爵位)に封じ、建成君けんせいくんと号させせき県の県令として碭郡に属させた。


 この後の功績を挙げる。

・高祖と共に秦のとう郡の(郡の治安維持官で姓名は不明)を成武せいぶ県南部で破った。

・高祖と共に秦将の王離おうりとその軍を成陽せいよう県南部で破り、また杠里こうりで破った。

・進出した開封かいほうで秦将の趙賁ちょうほん(もしくは趙賁ちょうひ)を、曲遇きょうぐうで秦将の楊熊ようゆうを攻撃し司馬(しば(千人隊長)と御史ぎょし(軍監察官)をそれぞれ捕虜にした。

・高祖と共に陽武ようぶを攻めて轘轅かんえん緱氏こうしを制圧したのち黄河こうがの渡り場を封鎖して趙賁を尸郷しきょう北部で討ち取った。

・高祖と共に秦の南陽なんよう郡守の呂齮(りょぎ(史記にはただとあるのみだが後漢ごかん荀悦じゅんえつ漢紀かんきに姓としてりょが見える)を陽城ようじょうの城の東壁にて大破し、えんまで追撃して捕え、しゅうを攻略した。ここに南陽郡は完全に支配下に収まった。

・高祖と共に武関ぶかん嶢関ぎょうかんを陥れ、その先へ進み藍田らんでん北部、東部に夜襲をかけ秦軍を破った。

 

 曹参は楊熊を破った功績で爵位が執珪しつけい(珪とは玉の意だが圭が土地を表すため土地を持つ諸侯になったという意味もある)となっている。藍田での戦いののち高祖に従って咸陽かんようへ入城し秦王子嬰しんおうしえいの降伏を見届けた。この時から史記では高祖元年(紀元前206年)とする。

 

 漢中かんちゅうおう王となった高祖によって建成けんせい侯に封ぜられる。

これに伴い将軍に任命される。


 高祖元年楚漢戦争が始まる。ここからは対西楚せいそ戦での功績を挙げていく。


下弁かべん故道こどうようたいたいに同じ)を攻略し、章平しょうへい(ただし史記高祖本紀のみ章邯としている)の軍を好畤こうじに包囲したのち(その後章平(史記高祖本紀では章邯)は逃亡している)壌郷じょうきょうを占領しその東と櫟陽れきようにて三秦さんしん(雍、さいてきの旧秦の三封国)の軍を破った。

・趙賁の配下であった内史ないし(首都近辺の長官)の(姓は不詳、内史の官は趙賁の戦死後に得たか)を討って咸陽を制圧する。


 趙賁についてだが実は戦死しておらず、そのまま三川郡の守備を行っており秦滅亡の際に章邯の下で側近を務めていたとされる説もある。しかしそれならばなぜ趙賁が無位無官で姓も分からぬ保が内史という高位にいるのか疑問が残る。


 こののち20日ほど景陵けいりょうでの警護の任に就いていた。


・三秦の差し向けた章平の軍を撃破した。

・章邯を廃丘はいきゅうに包囲した。

 

 廃丘での戦いの功により寧秦ねいしんに封ぜられた。中尉ちゅうい(軍の指揮官、監察官であり中は最も大きい、つまり最も重要という意味がある)として高祖の軍に従軍し臨晋関りんしんかんを出た。


河内かだいに至り、修武しゅうぶを陥落させた。

囲津いしんから黄河を渡り、東へ行軍して定陶にて楚将の龍且りゅうしょ項他こうたと交戦してこれに打ち勝ちその勢いのまま碭、しょう彭城ほうじょうを奪った。


 項他は【史記】魏豹ぎひょう(もしくは魏豹ぎほう)・彭越ほうえつ列伝に登場する項它こうたと同一人物という説もある。秦末期に項梁こうりょうより魏の救援を命じられ秦時代の章邯に打ち破られたこの人物は章邯に攻撃され戦死したという印象を受ける描写で記されているが、もしも同一人物であるとすれば身内に甘いというこう一族の性質を象徴する者だという捉え方もできる。


 高祖2年(紀元前205年)こののち曹参が関中かんちゅうへ帰還して韓信かんしんと共に廃丘を失った章邯を追撃したところ(高祖と共に行動していたという説もある)に高祖の軍は彭城にて項籍こうせきによって大破させられたという情報が届いた(前述の説だと敗走中に高祖とはぐれたという)。


 次の功績はいずれも韓信と合同で挙げたものである。


桃林とうりんにて章邯を自殺させ(史記高祖功臣侯者年表では朱軫しゅしんが章邯を斬ったとある)、章平を捕えた。

・彭城での敗戦後、高祖に叛いた王武おうぶ程処ていしょ柱天侯ちゅうてんこう(姓名は不詳)、羽嬰うえいをそれぞれの本拠地であるこうえん衍氏えんし昆陽こんようで討伐する(ただし羽嬰のみはさらにようまで追撃されたとあるのみで明確な死亡描写がない)。

武彊ぶきょうを制圧する。


 武彊での戦いののち、曹参は敗戦後の一時的な高祖の本拠地である縈陽えいようへ帰還した。


 仮左丞相かさじょうしょう(既に蕭何が丞相なので便宜上のものである)に任じられた。


 その後関中に駐屯して1ヶ月、魏王豹ぎおうひょう(もしくは魏王豹ぎおうほう、魏豹のこと)が叛いた。


 仮左丞相として韓信と共に東へ向かった際の功績を挙げる。


・魏の将軍である孫遬そんそく東陽とうようにて大いに破った。

安邑あんゆうにて魏の将軍である王襄おうじょうを捕縛した。

曲陽きょくようにて魏王豹を破り追撃先の武垣ぶえんにて捕縛した。

平陽へいようを陥落させそこにいた魏王豹の母、妻、子を捕らえた。


 魏の地には五十の城があり曹参はそのうちの平陽を領邑に得た。


 そのまま韓信に従って(韓信に従っていたことからも左丞相の地位が名目上のものだとわかる)ちょうだいの討伐に向かった。


 この時の功を挙げる。


・代王でありまた趙王歇ちょうおうあつ(もしくは趙王歇ちょうおうけつ趙歇ちょうあつ、もしくは趙歇ちょうけつのこと)の下で相国しょうこく(人臣の最高位)を務める陳余ちんよの腹心であり代の支配を代行する夏説かえつ(もしくは夏説かせつ)を東部でその軍と共に破り斬った。

・韓信と共に趙王歇と陳余を追撃している際に鄔で籠城していた趙の将軍のせき将軍(名は不明)を斬った。


 敖倉ごうそうへ帰還した。曹参と韓信は趙での功績によりそれぞれ右丞相うじょうしょう(同じ丞相ではあるが左丞相よりも位は上)と相国となった(いずれも便宜上のもの)。


 高祖3年(紀元前203年)せい討伐の際、曹参は韓信に右丞相として同行した。


 この時の功を挙げる。


歴下れきかで斉軍を破った。

臨淄りんしを陥落させた。

済北さいほく郡を制圧した。

ちょ漯陰とういん平原へいげんかくの諸県を攻めた(史記傅しきふきん蒯成かいせい列伝によれば傅寛ふかんを配下としてはくを攻撃した)。

・韓信に従い龍且が総大将、周蘭しゅうらんが副将の合わせて20万の西楚軍を上仮密じょうかみつで潰滅させ、龍且を斬り周蘭を捕縛した。

・斉の七十余県を制圧し、高密こうみつから逃げようとした斉王の田広でんこうと、しょう(諸侯の補佐官)の田光でんこう、守相(しゅしょう(相の留守居役)の許章きょしょう膠東将軍こうとうしょうぐん膠東こうとうは地名だが根拠地の名をあてた自称の雑号将軍ざつごうしょうぐん(便宜の将軍位)であろう)の田既でんきを捕えた。


 高祖4年(紀元前202年)斉王に封ぜられた韓信はちん県に至ったのち垓下がいかにおいての項籍包囲戦およびその追撃に参加したが曹参は斉の地に残り慰撫を行った。


 項籍が烏江うこうの地のおいて四肢を切り刻まれ胴体のみが野ざらしにされたのち、高祖は諸将ならびに百官ひゃっかん(文官大勢の意)と共に論功行封について論じた。




高祖は諸将百官に問うた。


「此度の勲功第一位は誰か。」


諸将百官口をそろえて答える。


「身体に数十の傷をつけた右丞相(曹参のこと)が第一位でありましょう。」


高祖笑って言うに


「蕭丞相(蕭何のこと)が勲功第一位なり。」


これに諸将は顔の色を変えて憤った。


「我らは堅甲(鎧)を身にまとい鋭刃(剣)を手に取って大小の差はありながらも数十の城や地を平定しました。それなのにどうして汗馬の労(戦場での苦しみの事)を知らず、ただ筆と墨をもってただいたずらに論議を重ねた者に我らが劣るのでしょうか。」


高祖ただ笑って諸将に問うた。


「汝らは猟犬を知るか。」


諸将は困惑した。


「はぁ・・。」


高祖続けて言う。


「獲物を仕留めること、これは猟犬の功なのか。いいや違う、これは猟犬に指示を出した人の功である。蕭何は関中において物資や人が絶えぬように指示を出し、また一人ではなく宗族が総出で勝利に貢献した。これを功と言わずして何と言おう。」


謁者えっしゃ(皇帝への取次を行う官)の鄂君がくくんも続けて


「蕭何の功は万世に及ぶものでございます。曹参を百人失おうが何が欠けることでしょう。蕭何が第一、曹参がその次でございます。」


これに高祖は大いに喜んだという。



 漢民族の「文」を尊ぶ民族姿勢が伺える。

 

 高祖6年(紀元前201年)このような経緯から曹参は勲功第二位となり便宜上の役職であった右丞相の印綬を返上したのち高祖の庶長子である劉肥りゅうひ(旧の正妻で側室の曹氏そうし(名は不明)の息子)が王を務めるせい国の相国となった。また列侯てつこう(爵位のうち最高位)として平陽の1万630戸(1戸が5人一世帯)封ぜられ、平陽へいよう侯を号す。なおそれまでの所領は召し上げられた。また徹侯は前漢の武帝ぶていの諱(劉徹りゅうてつ)を避けて史記、班固はんこ漢書かんじょでは列侯れつこうとなっている。


 私見ながら韓信の下につけられたこと、勲功第一位から外されたばかりか軽い罵りを受けたことと外に出たということは「曹参が韓信の監視役だった」ということを指していると思う。


 その根拠としては第一に韓信が上将軍じょうしょうぐん(軍の最高司令官)だったとしても古参の曹参をその下におく意味が分からない。高祖、韓信、曹参で軍を分割すればいい話である(戦略的な愚賢は別として)。第二に戦後の論功についてである。散々罵られた挙句、地方のしかも後継者争いから外れた側室が産んだ長男の下につけた。おそらくこれは監視役時代の失敗に対する懲罰なのではないだろうか。実は韓信と共に斉を攻めた際、既に斉は漢側に降伏していた。つまり韓信が味方に対して独断専行の奇襲を行ったことを止めることのできなかったことが戦後の昇進の低さに繋がっているのではないかということである。

 

  高祖11年(紀元前196年)この年の戦果を挙げる。


・反乱を起こした鉅鹿きょろく郡守の陳豨ちんきの部将であった張春ちょうしゅんとその軍を討った。

淮南わいなん王の英布えいふ(もしくは顔にいれずみがあることから黥布げいふともいう)が反乱を起こした際に劉肥に従って歩兵隊・戦車隊・騎兵隊、合わせて12万の兵を率いて高祖の軍に合流して英布を破り殺したのち南へ向かってへ向かい竹邑ちくゆうしょう、蕭、りゅうを平定した。


 ここまでの曹参の戦績を総ずると、国2つ、県122つを陥落させ、王2人、相3人、将軍6人、大莫敖だいばくごう(楚の将帥の号)・郡守・司馬・侯(原文だと司馬侯しばこうだが恐らく別々に読むのが正しいだろう)・御史をそれぞれ一人ずつ捕えた(【史記】曹相国世家より)。


 恵帝けいてい元年(紀元前194年)に法改正により諸侯の国に相国を置く制度が廃され改めて曹参は斉の丞相となった。


 斉の相国、丞相時代、曹参は斉の長老や学者を全員集め民を按ずる方法を問うた。斉には古来から多くの儒学者がいたらしいが曹参は自らの師に黄老思想家こうろうしそうか(黄老思想は無為自然を尊ぶ老子ろうしの流れを汲む思想)の葢公がいこうを選んだ。



葢公曰く


「政治は清静を尊ぶ。」




 これに賛同した曹参は正堂せいどう(丞相の政堂)を葢公のために開放し住まわせたという。またこの時期に蒯徹かいてつ(史記や漢書では前漢の武帝の諱を避けて蒯通かいとう(もしくは蒯通かいつう)となっている)を召し抱えて政治を大いに安定させた。その年月、9年間に及んだ。他にも魏勃ぎぼつといった多くの人材を抜擢した。


 恵帝2年(紀元前193年)に相国の蕭何が亡くなった。



曹参はそれを聞いて舎人に命じた。



「出立の準備をせよ。私は相国になるであろう。」



果たしてその通りとなった。

 

出立の際に後任の丞相(傅寛)に忠告を与えた。


「監獄と市場に介入せぬこと以上に政治において重要なことはなし。それらは人の善悪を受け入れるところであって政が介入しては人の善悪は一体どうしていけばいいのか。」




 この忠告からも曹参が黄老思想に凝っていたと分かる。「大国を治むるは小鮮を烹るが如し」という老子の言葉があるように黄老思想では極力介入を防ぐなど、何もしないをすることで国を治めようという「無為自然」の考えが根底にある。


 蕭何は死ぬ直前に曹参を後任に指名していた。互いに高位を得てから疎遠となっていた二人だったがその親睦は死ぬまで続られていたのである。


 相国となってからは蕭何の路線を守株して変えることがなかった。役人も、才能がなくても温厚な者を抜擢し、逆に才があっても野心を抱く者は罷免した。朝昼晩常に酒を飲み、諫言しようものなら酒に酔わせ意見を言わせぬさまであった。


 ある時役人が官舎で宴を開き、近くに屋敷を構える丞相(王陵おうりょうか?)の従者たちは騒音に悩まされていた。そこで従者たちは曹参を屋敷へ招き、騒音を聞かせ役人たちを処罰させようと考えた。しかし曹参は騒音を聞くやいなや処罰するどころか宴に参加してしまった。


 曹参は小さな過失を咎めなかったため役所では罪を得る者がいなかった。


 

 ある時、恵帝は曹参の堕落具合を見て中大夫ちゅうたいふ(朝議を司る官)で曹参の息子である曹窋そうちゅつに命を出した。


「曹相国(曹参のこと)にその職務について詰問せよ。ただし朕の名は出さぬようにせよ。」


曹参の屋敷にて曹窋が諫言すると曹参は大いに怒って曹窋を200回鞭打って、そして怒鳴った。


「すぐに参内して帝(恵帝のこと)の側へ仕えよ。天下のことをお前(曹窋のこと)が語る資格はない。」


これを聞いた恵帝は曹参を叱責した。


「曹窋のことは朕が命じたのにどうして鞭打ったのか。」


これに恐縮して曹参は冠を脱いで謝罪し、そして恵帝に質問した。


「時に、私は故蕭相国に及ぶでしょうか。」


恵帝答えて曰く。


「及ばぬ。」


曹参続けて問う。


「今上皇帝(恵帝のこと)は亡き高祖に及ぶでしょうか。」


恵帝再び答えて曰く。


「及ばぬ。」


曹参口を開く。


「私も今上皇帝も先人に及びません。ならば我らの成すべきことは先人の功績を保ち後世に伝え切ることではないでしょうか。」


恵帝はそれを聞き恥じてもうそれ以上何も言わなかった。



 恵帝5年(紀元前190年)に曹参は没した。諡は侯である(は美諡であり美徳、道理にかなった行動の意味)。


 

 民衆は前漢で唯二人、相国となった蕭何と曹参を讃えて歌を詠った。


「蕭何、法をつく

 あきらかなること一を画するがごとし

 曹参、これに代わり

 守りて失うなし

 その清浄をおこな

 民もって寧一なり」

(蕭何は明白なる法を創り、曹参はそれを堅守した。)


 史記曹相国世家において司馬遷は「軍功はひとえに韓信のおかげなり、内功はひとえにその才ゆえなり」という評価を贈った。


 跡は曹窋が継いだ。


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