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祖母の一生  作者: 7
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へそに力いれろ

明治41年、日本最大のエネルギー庫としての地位が確立された筑豊の地に、産声をあげた。


父は、炭鉱の役職付きで家は裕福だった。母は、後妻として嫁いできた。前妻は、子どもが出来ないとの理由で離縁となったらしい。


家族は、父、母、姉、自分の4人。自分の下に、男の子が数人産まれたが、皆幼くして亡くなった。


弟の火葬の帰りに、父が自分をおぶって泣きながら「お前が男やったらよかったのにのう」

と言われてから、好んで男の子の着物を身につけ、

もともと活発な性格ということもあったのだろうが、

男勝りに過ごしていたという。

父の願いを叶えてあげたいという、子ども心からだったのだろう。


裕福な子ども時代を過ごしていたが、女学校に通っている頃父が他界した。


大黒柱を失った母は、長女だけを手元に残して次女である祖母を東京の叔母に託すことにした。


叔母の家は、仕出し屋を営んでいた。叔母夫婦は子どもに恵まれなかった為、祖母を引き取ることにしたようだ。


まだ、交通の便も整っているとは言えない時代に13歳の子どもが一人で九州から電車に乗って、東京の知らない家に行く心情はとても心細いものだっただろう。


東京での暮らしは、丁稚奉公のような形で引き取られたのだから一生懸命、店の手伝いをしたという。

物事をよく観察して、言われる前に動き皆に気に入られるように頑張った。


叔母夫婦は、とても可愛がってくれたという。髪を結う為のお金をくれて身なりもきちんと整えさせてくれたという。


一緒に働いていた、少し歳下のキヨという丁稚の子と一緒に、仕事が終わったら日本酒を一杯ひっかけて銭湯に行くことや、気前の良いお客さんがくれるチップで甘味屋さんに行くのが楽しみだったそうだ。


板前さんの仕事も良く観察して、店で出している料理のほとんどは目で見て作り方を覚えたと言っていた。


年頃になった頃、実家から呼び戻される事になる。

親族に縁談を勧められたという事だった。 

昔は、自分の意思とは関係ない所で縁組が行われて

拒否という選択肢はないようだった。


嫁ぎ先は、農家の長男。本人は、八幡製鉄所に勤務していた。兄弟は8人。嫁いだ時、義母は妊娠中だったという。


嫁いだ時から、家族全員の給仕、洗濯、農家の仕事が全て任される事になる。水を井戸から汲んで来ても、わざとぶつかってこぼされたり、どれだけ働いても「アブラムシ!」と罵られたり。

小姑の嫌がらせは当たり前だったらしい。


しかし、夫の仕事の都合で満洲へ渡る事になる。

満洲での暮らしは、危険とは隣り合わせとはいえ不自由のない暮らしだったようだ。

初めは、夫と長女と長男の4人で暮らしていたが、

長男がわずか3歳で肺炎を患い他界してしまう。

その後、女の子2人と一番末に男の子を授かる。


満洲では、匪賊が出るから気をつけて過ごさなければならなかったが、その中でも子ども達と護身の男性を連れて山菜取りやピクニックなど色々と楽しむ事も忘れなかったという。


満洲から引き揚げの時、一番末の子は産まれてまだ100日だった。4人の子どもを連れて、大きな荷物も抱えて、いつ襲撃されるかも分からない船に乗っての引き揚げは、命がけだった。非難時の訓練には参加せずに、命を落とす時は家族みんな一緒。

子どもを攫われそうになったら、その場で皆で命を絶つ覚悟でいたそうだ。捕まって、男性の慰みものにされるくらいなら、この手で命を終わらせた方が良いという考えであったという。


なんとか、無事に博多港に着いた時は安堵の為、全身の力が抜けたという。

しかし、これからまだ北九州まで戻らなければならないので力を振り絞って歩いた。


しかし、家は無事に戻って来た一家を迎えてはくれなかったという。仕方なく、間借りさせて頂ける所を探して小さな部屋に祖母と子ども4人で暮らすことになる。祖父は、また満洲へ戻らなくてはならず

祖母ひとりで子どもを養うこと数年。


末の子は幼稚園になっていたある日、祖父は無事に帰還出来たという。満洲では、生死ギリギリの生活を生き抜いて戻って来た。末の子は、父親を覚えていなかった為、あのおじさんは誰だろうと思っていたという。


戻って来た父親は、自身で会社を起こし事業を始める。製鉄業が盛んな時期だったこともあり、会社は

大きな仕事もこなしていく。祖母は、自慢の料理と場を盛り上げる芸を披露して職人さん達を労うことにも

尽力した。


屋敷を構えて、一文無しの時期からは見違えるような暮らしを手に入れた。

一代で築き上げた会社だったので、末の息子に継がせたかったかもしれないが、当の息子は職人気質やどんちゃん騒ぎというものに嫌悪感を抱く性格だった為

公務員となり、会社は祖父だけで終わらせたという。


その後、息子と普通の一軒家に同居し一緒に暮らし始める。祖母は良いか悪いか別にして、自分の信念を貫き通すので、小さい頃は祖母が全て正しいのだと信じていた。火傷をしたら、真っ黒いベタベタした薬を塗って。帯状発疹が出来た時は、「たづ」という葉っぱを塩揉みして発疹の所にしばらく乗せた後、お風呂で洗い流すという事をしばらく続けたり。卵の黄身をじっくり炒って出来た油を飲ませられたり。喉が痛い時は大根を蜂蜜に漬けた汁を飲ませられたり。

喘息持ちだった私は、発作が出たら

加湿式の吸入器で顔をびしょ濡れになりながら

深呼吸だった。どれも、絶対的に効くんだと思っていた。


祖母には、自分が信じている信仰宗教があり、私達もよくそこに泊まりに行っていた。朝のお勤めや、お手伝い。色々な神様の所へお参りに行ったりしていた。

そこでは、祖母も先生と呼ばれていた。




















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