~殺人罪が廃止された!~
うららかな春の昼下がり、首相官邸では官房長官による定例記者会見が行われていた。
これといった話題のない中で抑揚に乏しい口調で原稿を淡々と読み上げている官房長官の言葉は記者達の眠りを誘っていた。
発表が終わり、何人かの記者がおざなりな質問をして記者会見が終わろうとしたとき、官房長官がふと思い出したかのように発言した。
「あ、言い忘れてましたが、本日刑法改正について閣議決定がなされました。内容は刑法第199条の廃止とそれに伴う関連条文の変更です。」
弛緩していた会場が一瞬引き締まり、次に記者たちの質問の嵐に包まれた。
「長官!それは殺人罪を廃止するということですか!?」
「殺人罪を廃止する理由はなんですか!?」
記者たちの質問攻めを手で制しながら長官が答える。
「殺人罪は廃止します。理由は殺人をしてはいけない理由が法律上の規制ではなく道徳上の問題であるからです。」
「長官!長官!」
言い終えると再質問の声が渦巻く記者会見場を背にして退場していった。
「そんな馬鹿な・・・こんな話をデスクにしたら怒鳴られるぞ・・・」
記者達は困惑しながらも第一報を入れるしかなかった。
記者会見から30分後、各放送局はニュース速報を流した。
「政府、殺人罪の廃止を閣議決定」
直後にネットは大荒れになった。
「殺人罪廃止とか意味がわからない」
「それって殺し放題ってこと?」
「殺人天国じゃんwww」
ニュースは世界中を駆け巡った。
「日本に行けば殺人が合法になるのか?」
「なんという国だ。怖くて行けない。」
「人を殺したければ傭兵で紛争地に行かなくても日本に行けばいいのかwww」
株式市場では防弾ガラスや防弾チョッキを扱う企業の株が大量に買われ、大荒れで終わった。
翌日、首相の記者会見が行われた。
「殺人罪を廃止する理由はなんですか?」
「人の死は平等に扱われなくてはならないと考えてます」
首相は記者達を眺め回した。
「人を殺してはいけない、その価値観を放棄することはありません。人を殺してしまうのはいけないこと。ではなぜいけないのか?」
しん、とした会見場に首相の言葉が響いた。
「いろいろとあるでしょうが、一番の理由は自分が殺されないため、だと言えます。」
「それはわざわざ殺人罪を廃止しなくても同じではないですか?」
「殺人罪があると、人を殺してはいけない理由がおまわりさんに捕まるから、になってしまっています。それは違いますよね?」
会場に失笑が起きる。
「しかし、それが現実です。笑われたみなさんがたはそう感じるからでしょう。」
むっとした記者が言う。
「そんな子供みたいな話がありますか!」
首相が静かに答える。
「では、あなたはお子さんに質問されたらどう答えますか?」
しんとした会見場を見渡すと首相は静かに退場した。
数日後、臨時国会が開催された。
国会が開催されるまでの間、国内はもとより世界中で論議がされていた。
また、不思議なことに野党はこの件について与党を追及しようという姿勢にないこともわかってきた。
なんでも反対するので有名な党ですら、基本的には賛成する姿勢であることに世論は驚いていた。
最大野党の党首が代表質問に立った。
「首相は今回殺人罪の廃止をしようとしてますが、殺人罪を廃止して得られるメリットはなんですか?」
日本中はもとより世界中が注目する国会中継は視聴率80%を超え、ネット配信は5000万人を超えていた。
「殺人罪を廃止することにより、人を殺してはいけない理由がおまわりさんに捕まるといった他律的な理由ではなく、自分が殺されないためという自立的な理由に立ち返ることができるためです。」
「逆に言うと自分が殺されてもいいから殺す、ということが認められるということですか?」
「道徳の枠外の行動であれば、それは道徳が裁くことになると思います。」
「自力救済を認める、ということになりますね?」
「基本的にそうなります」
「殺人罪を廃止するデメリットとして、そうした自力救済による殺人の連鎖、いわゆる敵討ちが延々と続いてしまうと思いますがそこは認めるということですか?」
「殺人罪廃止とともに、傷害致死や業務上過失致死については大幅な量刑の拡大をします。単に人を殺しただけでは殺人と認められることがないようにします。」
世界がざわついた。
「殺意の認定については司法の判断となりますが、かなり厳しい判断になると思っております」
1時間程度の質疑応答で代表質問は終了した。
野党からの質問は、いつものような攻撃的な感じはなかった。
むしろ国民に対して殺人罪を廃止するメリットの説明を引き出すような感じであった。
法案作成の時間を一ヶ月ほどとり、刑法改正の決議をとることになった。
内容は殺人罪の廃止とそれに関連して傷害致死や業務上過失致死、殺人未遂の量刑拡大、最大死刑又は無期懲役とするものであった。
代表質問の感じから、殺人罪廃止が可決されることは明白であった。
実際に施行されるまでは数ヶ月以上かかるが、代表質問直後からいろいろなことが起こり始めた。
まず、外国人マフィアたちが逃げ出した。
「同業者との抗争だけでも大変なのに、一般人からも襲われることを考えたらやってられない。日本人は頭がおかしいのか!」
故郷に向かう飛行機の中で、ボスは手下にそう愚痴っていた。
それから問題となっていたパワハラやセクハラ、DVやいじめなどが激減した。
「下手にパワハラなんかして恨まれて殺されたらたまらないからね」
社員に対する対応が厳しいと言われている会社の中間管理職の男がSNSに呟いた。
ネット上では最初
「殺人合法化!殺し屋になろうかなwww」
などと軽口を叩くものが多かったが、だんだんと「殺す側」から「殺される側」の発想が多くなってきた。
「人に恨まれて殺意が認定されないようにしなくちゃ」
そういう論調になっていった。
詐欺も激減した。
「バレて恨まれたら殺される。割のいい商売じゃなくなったな」
オレオレ詐欺の元締めは事務所をかたつけながら仲間につぶやいた。
そして国会で法案が可決され、ついに殺人罪が廃止された。
思えばはるか昔、世界最初のハンムラビ法典以来どの時代のどの国の法律でも必ず書かれていた殺人罪がなくなるという歴史的な出来事である。
世界中がことのなりゆきを見守っていた。
最初の適用事件が発生した。
土木工事の飯場で酔っ払った男が同僚と喧嘩になって包丁で刺し殺した事件だった。
被告は「どうしても我慢ならない相手だった、いつか殺してやろうと思っていた」と殺意を表明した。
検察側は「目撃証言や被害者の傷から、激高して包丁を振り回した結果、偶然にも急所にあたり死亡にいたっている。殺意があるなら最初から急所を狙うはずなので殺人にはあたらない」とした。
判決は「殺意を認めず。傷害致死で懲役15年」というものだった。
この裁判により、十分な殺意を認めるにはかなりハードルが高いという判例となり、世界中は「事実上殺人罪があるのと変わらない」という認識になった。
死亡交通事故があった。
飲酒運転で暴走した結果、登校中の小学生の列に突っ込み5人を死亡させたものだ。
被告は「酒を飲んで運転して誰でもいいから殺したかった」と殺意を表明した。
検察は「朝まで飲食店で飲酒していたのはいつものことであり、店でも上機嫌で明日以降の遊びを楽しみだと語っていたところから殺意を認められない」とした。
判決は「殺意を認めず。業務上過失致死で無期懲役」というものだった。
以前であればこのような痛ましい事故に対する量刑はあまり高いものではなかった。
しかし自然死や災害死などふせぎようのない死因以外の外的要因による死亡について人の死は平等に扱われなくてはならない。
殺人罪があった頃は2人以上の殺人は死刑又は無期懲役が相場だった。5人の死亡はそれに照らし合わせても十分な量刑であると言える。
傷害致死事件があった。
小さな本屋の主人が万引き犯人を刺し殺した事件だった。
主人は「何十年もの間、万引きのために年間数百万円の被害にあっていた。それでとうとう店を畳むことになったので憎くて殺した」と殺意を表明した。
警察も「長年の恨みの末の犯行であり、急所をひとつきしているため強い殺意があったと思われる」とし不起訴になった。
この事件に関しては、遺族が「たかが万引きで殺されるなんて・・・」と発言し、「窃盗は十分犯罪です」「盗人たけだけしいwww」などと逆に遺族が叩かれる結果となった。
その後、万引きなどの窃盗事件は激減した。
暴力団の抗争事件があった。
抗争中の相手組長をヒットマンが拳銃で殺した。
被告は「殺すつもりはなかった。脅かそうと思って発砲したら頭に当たってしまった」と殺意を否定した。
検察は「被告は外国で拳銃射撃の練習を繰り返しており威嚇のために発砲して外すことをできる技量を持っていた。急所を一撃しているため殺意はあったと思われる」とした。
判決は「殺意はあった。無罪」である。
判決の瞬間、被告は「あああ!拘置所を出た瞬間に相手側から報復で殺される!一生刑務所で守ってください!」と言って泣き崩れた。
被告が言ったとおり、釈放されて拘置所を出て数歩のところで射殺された。
犯人と思われる人物は、傷害致死の容疑で全国に指名手配された。
これ以上事件を列挙しても仕方ないが、傾向として自分に非がある場合は殺意を否定し、非がない場合は殺意を肯定する。
つまり個人的社会的報復を恐れる場合は刑務所で守って貰うという発想になっていった。
1年たち、各種犯罪統計が出された。
全体的に犯罪数は激減していた。
かつての殺人に該当する重大事件は横ばいから微減であるが、そもそも諸外国に比べて少ないほうであったため、実際には更に減ったということである。
それ以外の微罪、詐欺や恐喝、傷害や窃盗などが激減したため、相対的に治安は向上したと言える。
殺人天国どころか、犯罪が激減した治安大国である。
人々は「人に恨まれて殺されないように生きる」ことが共通の価値観となり、日常生活においても人には柔らかく接するようになった。
幼稚園からの帰り道、母親に手を引かれた子供が言った。
「お母さん、どうして人を殺しちゃだめなの?」
唐突な質問だったが、幼稚園で何かあったのだろう。母親はほほえみながら答えた。
「それはね、自分が殺されないためなのよ。人を殺して良ければ自分が殺されても文句は言えないわよね?」
「ふーん・・・」
子供はわかったようなわからいような顔をした。
「晩ご飯はハンバーグよ」
母親の声に、夕焼けに伸びた子供の影が踊っていた。