第七十九話 目覚めのキスは虫の味
翌朝。
フィリス魔導学院の会議室にて。
「ゴキブリンというモンスターは洞窟などではなく森の地下に巣を作り、繁殖方法は不明ですが、通常数十匹から数百匹という集団を最も力の強い長を中心として――」
席について学者の説明を聞いているのは、学院長、ニケ、フィノ一家、警備隊隊長とその部下、教員たち十数名、女医のメリル、何故かリンネに連れてこられたスズという顔ぶれである。
「なぁ! もういいだろ? あたしらが倒したそいつは普通のやつじゃないって見りゃ分かるはずだ。今は勉強じゃなくてこれからどうするかをだなぁ」
「これセス! 落ち着かんか。だからこうして今専門家の話を――」
「モンスターに関しちゃあたしだって専門家だ。しかも現場の方のな。結論はもう出てるんだよ。こいつは普通のゴキブリンじゃない。分からないことだらけなんだから最悪を考えて動くべきなんだ。そんな調子じゃ何も進まず明日になっちまうぞ」
にらみ合うセスとニケ。
「その最悪の状況と言うのを……説明して頂いてもよろしいですか?……セスさん……」
リンネの問いに少し考えてから答えるセス。
「そうだな、すでに町のどこかには巣を作られていて、昨夜のと同等以上の強さを持つ大型ゴキブリンが何百匹も集まってる。おまけに群れのボスは下っ端の何倍も強い。そんなのが今日にも町への侵攻を始めようと蠢いてる……とかかな?」
リンネの隣にいたスズの顔からさーっと血の気が引いた。虫は苦手なようだ。
「問題はその強さですな。いったいどの程度のものなのでしょうか。一人の兵が同時に相手に出来る数が少なければ、その分犠牲者が増えます」
ハキハキとした口調で発言したのは警備隊の隊長だ。
セスはそれに答えようとするが、何かに気が付き、テーブルに置いてあったペンを握って立ち上がった。
指先でペンをクルクルまわして……、ビッ! とかなりの勢いで壁に投げつけた。
「あたしが食らった突進がだいたいこれくらいの速度と威力だ」
投げられたペンは壁に張り付いていたゴキブリを見事に突き刺していた。
「今のが見えなかった奴は正直厳しい。兵隊だろうが先生だろうが一人で戦わせるわけにはいかねーな」
その言葉に、会議室にいたほとんどの者が驚愕の表情を浮かべた。
「フフフ……それでは……フィリスメイジも大半が失格ですね……」
教員たちの中で平然としていたのは、リンネ、ジズ、ユミル、エリザのわずか四人だった。
◇
会議室があーだこーだと騒がしくなっていた頃、学生寮のとある部屋では、
「う~んむにゃむにゃ、もう食えない……」
とても分かりやすい寝言を言いながら、ヨダレを垂らして眠っている美少女がいた。
キレイな女の子なのだからさぞかしキレイなお部屋で眠りについているのだろうと思ってしまうが全然そんなことはない。
着替え、ゴミ、食べかす、ヘアブラシ、マンガ、拾って来た家具、タダ同然で買った謎の魔道具、学生手帳、そして外出時にはいつもかぶっているとんがり帽子などで床のほとんどが見えていない。
きったねー部屋!
そんな汚部屋をだらしない主人に代わって掃除している使い魔がいた。
スライムのスラ吉である。
体の一部分をぐにっと伸ばして子供用のホウキを掴み、うんしょうんしょと一生懸命食べかすなどを集めている。
「ピキッ!?」
掃除の途中、ぷるぷるのボディが固まった。
小さくて黒いゴキちゃんを見つけてしまったからだ。
「プウー!」
けれど、いくらスライムとは言えただのゴキブリに負けるほど弱くはない。
ぷくっと体をふくらませて威嚇した。
すると……。
シャカシャカシャカっと寝ている主人の方に逃げたゴキブリ。
「ピキー!?」
これはマズイ。
非常にマズい。
スラ吉がどうしよどうしよと慌てている間にもゴキブリはベッドに上がり、まるで人質を取るかのように寝ている主人にとりついた。
「スラ吉ぃ、変なトコさわんなよなぁ」
主人は目をつむったままだ、まるで気が付いていない。
というか起きているのかどうかも怪しかった。
スラ吉は困った。
主人ごとゴキブリを攻撃するわけにはいかないし、かといってこのまま何もしないわけにもいかない。
しかしどうすればいいのか分からないのだ。
そんな風にスラ吉が動けずにいると……。
なんとゴキブリは主人の顔まで移動し、口から垂れたヨダレをちゅうちゅうと吸い始めたのである。
まるで見せつけるかのように主人の唇を奪うゴキにあわわわ……と恐怖に震えるしか出来ないスラ吉。
ただひたすらに無力だった。
「だぁもぉなんだよぉ……」
主人は顔にくっついていたゴキをがっと掴んで体を起こした。
「……あれ? スラ吉じゃないのか」
まず床で固まっている使い魔の姿が目に入って、
「じゃあ、アタシが今持ってんのは……?」
自分が掴んでいる存在を――見てしまった。
「うっっげええええええええええええ!!!!!!!!!」
ぐしゃっと何かが潰れる音が、ヴァリンの部屋に響いた。
◇
「最悪だ。人生最悪の日だ」
イライラしながら学院の敷地内を歩くヴァリン。
さっきまでやりすぎなくらい手と顔を洗っていたのでちょっと赤くなっている。
たぶん今朝のことは生涯忘れられないだろう。
現在はスラ吉を部屋に残し、害虫駆除アイテムを買いに出かけているところだった。
「やっぱ町まで出なきゃ売ってないよなぁ」
学院内にも雑貨屋はあるのだが、やはり町にある大きな店と比べると品揃えが悪い。
季節外れということもあって最初から町を目指していた。
そして正門の近くまでやってくると、
「た、大変だー! 巨大ゴキブリだー! たいちょー!」
門から入って来た警備隊の隊員とすれ違った。
隊員は血相を変えて校舎の方に走っていってしまった。
「巨大……ゴキブリだぁ?」
寝起きのことを抜きにしてもあまり聞きたくない言葉だった。
足を止め、町へ出るのはやめておこうかと考えていると――。
パァン!
と学院内で炸裂音。
「なんだぁ!? 魔法か?」
音のした方は建物に隠れて見えないが、空に向かって煙が上がっている。
おそらく炎の魔法だろう。
少しして誰かの悲鳴も聞こえてきた。
「……まぁいいや。フィノか先生が対応すんだろ」
賢いヴァリンは面倒事をさけ、寮へと引き返していった。
◇
「いやぁあああ!」
その生徒にとって、今日は何の変哲もない普通の日だった。
けれど、日課のランニングを終え寮の部屋に戻ろうとしていたその時、いきなり目の前の地面に大穴が開いた。
突然のことに立ち尽くしていると、その大穴からは一メートル以上もある巨大なゴキブリ型モンスターが現れたのだ。
とっさに炎の魔法で攻撃してみたが、ゴキブリは彼女の魔法の数倍のスピードで、いとも簡単にそれをかわした。
「いやぁ! 誰か助けて!」
そんなゴキブリが今、彼女に狙いを定めていた。
さっき見た速度で攻撃を食らえば命はない。逃げることも出来ないだろう。
生徒に残された最後の選択肢は、泣いて助けを呼ぶことだった。
「誰か! 先生! フィノちゃん!」
地を駆けることに特化された体から生み出される最強の瞬発力。
それが彼女に襲い掛かった、その瞬間――。
「ソニックブーム!」
風圧の壁が横合いからゴキブリをぶっ飛ばした。
「グズグズしてないでとっとと逃げろ!」
現れたのはとんがり帽子をかぶった先輩魔導士、ヴァリンだった。
「なんで先生たちもアイツもこういう時に近くにいねーんだよぉ。仕方ないなぁ……」
逃げる生徒の背を守るように立ち、袖をまくってとんがり帽子を目深にかぶり直す。
嫌々だがこの状況では面倒くさいとは言っていられない。
この天才はやる時はやる。
「害虫ヤローが、もっかい潰してやるよ」
触覚を動かしこちらの出方をうかがっているゴキブリに、手の平を向ける。
「しねっ! ソニックブーム!」
強力な風の魔法。
しかしあっさりとかわされ、猛スピードでこちらに突っ込んできた。
「やべやべ!」
風の魔力を利用し大ジャンプで離脱する。
十分に距離を取って着地した。
「ふぅー、アタシの魔法より速いか」
でも焦りはしない。
普段はろくなことに使われないその頭脳はすでに次の手を考えていた。
「やったことはないけど、試してみるかぁ」
風の魔力をその身にまとい、ゴキブリの追撃を真上に飛ぶことでかわした。
空中で右の人差し指を立て、左手は開く。
「ウインドカッター! と」
立てた指を払って風の刃を下のゴキブリに放った。
それと同時に開いたもう片方も向け、
「ソニックブーム!」
空中で二種の魔法を同時発動。
風の刃をかわしたゴキブリの初動を、風圧の壁が空中から覆い被さるようにとらえ圧し潰した。点ではなく面での広範囲攻撃。
「昔どっかで聞いたんだよなぁ。ゴキブリは後ろに走れないから、急に動く時は必ず前方だって。先読み大成功!」
潰れたゴキブリの前に着地して、ヴァリンは満足そうに笑う。
「さて、後はフィノたちが何とかするだろ」
魔法の同時発動という技術も、並大抵の努力で身につくものではない。
それを簡単にやってのける才能を持っているのに、彼女はあまり表に出ようとしない。
血を吐くような鍛錬を重ねても、その域に至れぬ者がいることを知っているからだ。
その能力も、美しい顔も、いつものとんがり帽子で隠して、
「騒ぎが収まるまで部屋で寝てるかぁ」
めんど~くさそ~に、ヴァリンは帰っていくのだった。
「うげっ! 飛び散った汁ふんじゃった……」
◇
「巣を見つけて乗り込む!? 正気か! 相手の戦力も分からんうえに巣がある地下は暗闇じゃぞ!」
「巨大ゴキブリンの群れを地上で迎え撃つ方が現実的じゃねーって。どっから何匹飛び出してくるか分からないし、一般人が狙われれば間違いなく死ぬぞ。ニケたちは全員で町を守っててくれ。あたしは群れのボスを倒しに行く」
「一人で行かせられるか! 大体セス! お主は昔から――」
「だって暗いとこで十分に戦えんのあたししかいねーじゃん!」
会議室でぎゃーすかぎゃーすかとやり合っている二人。
「あは♡ 仲が良いのか悪いのか分かんないわね~」
フィノの隣に座っていたユミルがこそっと耳打ちした。
「お母さんとニケは昔からあんな感じだったらしいです。ミランジェとレンみたいな関係かな」
いつになっても激しく言い争っているセスとニケ。
それを止めたのは、困ったように笑っているフィノでも目をつむって話を聞いていた学院長でもなく、勢いよく開かれた扉の音だった。
「隊長! 町に大きなゴッ、ゴキブリが……!」
「なんだと!?」
やって来たのは警備隊の隊員だ。
必死で何かを伝えようするが息があがってしまっていて上手く話せていない。
腕と背中には傷もあった。
「はい、診せてくださいね~」
すくっと立ち上がった女医のメリルが優しい声を出しながら近付いた。
気の力を手に集中させ、隊員の胸に当てる。
すると隊員の息が整い、ケガも徐々に回復を始めた。
「もう話しても大丈夫ですよ。傷の方はもう少し待ってくださいね」
「はっ、はい! ありがとうございます。それより隊長! フィノさんの家の隣にある空き地です! いきなり大きな穴が開いて……ゴキブリのモンスターが何匹も!」
「やっぱりすぐ近くだったか!」
話の途中でセスは飛び出していってしまった。
「モンスターは凄い速さと強さで、我々だけではとても抑えきれません! 今は通りかかった魔導士が応戦してくれていますが、それもいつまでもつか……。隊長! すぐに援軍を!」
そこまで聞いて、閉じていた目を開く学院長。
隣に座るエリザに声をかけた。
「エリザ、貴女も向かいなさい。セスよりも早く動けるのは貴女しかいません。一人でも多くの命を守りなさい」
「はい!」
学院最速の魔導士は大きな声で返事をして、その身に風をまとって出て行った。
「あの、すみません。今戦ってる魔導士ってどんな人ですか?」
立ち上がって聞いたのはフィノ。
「背の大きな、東国の剣を持った女の子です。炎を操っていました」
「ミランジェだ! 学院長先生! あたしも行きます!」
「分かりました。セスとエリザに、敵を倒した後は指示があるまでその場で待機するようにと」
返事をして会議室を出るフィノ。
それと入れ替わるようにやって来た少女がいた。
学生寮の管理人、ラミィだ。
「大変ですー! 学院の中にモンスターが!」
こんな事態であっても、学院長は眉一つ動かさず、ラミィの話を聞いてから教員たちに指示を出していった。
「状況はセスが考えていたものより悪いのかもね……」
教員たちが出て行った後で、その老婆が、表情にほんの少しだけ疲れを見せた時、
「学院長よ。我と取引しないか?」
ずっと黙って話を聞いていた魔族が、
「取引?」
「うむ。セスの案を採用して奴をモンスターの巣に向かわせるつもりだろう? 町を戦場には出来んはずだ」
人がほとんどいなくなった会議室で行われる、闇の取引。
「我の術なら地下の巣であろうと明るく照らすことが出来るぞ。戦闘は大分こちらに有利になるはずだ。セスを一人で行かせる必要もなくなる」
学院長の判断は早かった。
「何が望みですか?」
ほんのわずかに、魔族の口角が上がった。
「教員たちの魔力が欲しい。お前のものも含めてな。それくらいでなければ地下深くまで照らすことは出来んだろう。さぁ! 我と口付けをしろ!」
伸ばした舌をいやらしく動かすリリムを見て、学院長の眉は動揺でピクっと動いた。




