第四十三話 鮮血に染まるトイレ
「ぬああああ……くっ……ぐっ……おおおお……!」
男は戦っていた。
「ふ~ん! ふ~~~ん! ……はぁはぁ……」
と言っても力を込めているのは腕ではなく、お尻だ。
「……ふっ! ぬぅん! くお~~~……」
全身から涙を流すように大粒の汗をかいている。
顔がゆがみ、両足はガクガク震えていた。
「ぬおおおおおお……だぁっ!!!」
ぼとりっ。
永遠にも思える長き戦いの末、気合いの声と共に決着がついた!
「はぁー……はぁー……」
大きなため息をつくように呼吸を整える。
よくもここまで手こずらせてくれたな……と、戦果を確認するために振り返った。
直後、男の顔から血の気が引いた。
「う……あ……ああ……あああ!」
戦場は……自らの鮮血により赤く染まっていた……。
「うわあああああああああ!」
絶望と同時に、激しい痛みが男の尻を襲った。
◇
神様というものがいるのなら、きっと自分は嫌われているのだろう。
男はいつの頃からかそう考えるようになっていた――。
「俺、学校に通って魔導士になりたい!」
幼き日、父にそう伝えたら無言で殴られた。
男は代々続く武道家の家系であり、技術と小さな道場を継ぐためだけに育てられた。
夢を持つことなど許されるわけもなく、修行の邪魔になるという理由で友人からも遠ざけられた。
それでも男は耐えた。
いつかきっとこの辛い日々が報われると信じて耐え続けた。
そして、男が成人し立派な武道家に成長を遂げたころ、父親が病に倒れた。
「道場を頼む……」
それが父の最期の言葉。
言われた通り男は道場を継いだ。
しかし、元々少ない弟子たちは一人、また一人と去っていき、いつしか男の周りには誰もいなくなってしまった。
「ちくしょう……俺の何が気に入らないってんだ」
理由は簡単。
男の指導があまりにも厳しかったのである。
べつに弟子が憎くてそうしていたわけではない。
自分がそのように育てられたので、他の教え方を知らないのだ。
まともに他人と付き合った経験のない男は、厳しい叱責の後にフォローを入れることすらしてはいなかった。
「ちくしょう……ちくしょう……」
弟子たちがいなくなり、収入が途絶えてもいまさら普通に働く気にはなれず、親の遺産で食い繋ぐみじめな日々。
家族も友人も恋人もいない男は、いつしか酒に逃げるようになっていた。
ろくな食事も摂らずに毎日ゴロゴロとして酒ばかり飲む。
乱れ切った食生活はやがて強烈な便秘を引き起こし、長時間トイレでいきむことによって切れ痔まで患ってしまった。
「うっ!?」
来た。便意という名の恐怖の大王。
「ううう……ちくしょう……」
涙を流しながら男はトイレに向かう。
今日もまた、辛く苦しい戦いが始まるのだ――。
◇
「うう……ううう……」
とうとう痛みに耐えきれなくなり、恥を忍んで行った病院からの帰り道、また涙があふれてきた。
医者に職業を聞かれ、まともに答えることが出来なかったのだ。
(ちくしょう……ちくしょう……)
内心馬鹿にされたに決まっている。
直腸検査を受けた時、どこかから笑い声が聞こえたような気もした。
(どうしてだ……どうしてこんなことに……)
さっき寄った店では若者たちが、「お前は何の役にも立たないウンコ製造機だ!」などとふざけて騒いでいた。
俺はウンコすらまともに出来ない。
誰も彼もが自分より輝いているように見えた。
あぁ、あいつらはこの尻の痛みも、排便の苦しみも知らずに年を取って幸せに死んでいくのだろうな……。
などと考えてしまう。
他者を羨む気持ちは次第に嫉妬へ変わっていく。
どうして俺だけがこんな辛い目にあわなければならないのか。
すれ違う町の人々全員が幸せそうに見える。
憎い、憎い、あいつらが憎い……。
『みぃ~~んな自分と同じように苦しめばいいのに~、にゃあ?』
心をくすぐられたような、いたずらっぽい少女の声。
「え?」
思考を読まれたような言葉に足が止まった。
偶然だろうか。
「ねぇねぇおにーさん、霊視占いやってかないかにゃ? 一回五千ディーナでいいよん♪」
木箱に座っていた少女はもう一つの箱を指差した。
不自然な虹色の髪に縫い目だらけの腕。
誘惑するようなとろけた笑顔。
「……い、いや、俺急いでるから」
武道家としての感が告げていた。
こいつは危険だ。戦えばきっと痔よりも恐ろしい目にあう。
逃げろ。逃げろ。
「お尻いたいんでしょ~? 慌てて動いたらもっかい切れちゃわにゃいかな? かな?」
再び男の足は止まった。
「どうしてそれを……?」
「にゃふ♪ 霊視占い♡ おにーさんはお腹とお尻のエネルギーがよどんでるんだぁにゃあ~ん。どぉ? 信じる気になった?」
男は黙ってうなづいた。
というか痔と分かってて座らせようとしたのかこの女。とんでもない悪党である。
「心霊治療受けてみる? エネルギーの巡りを良くして痛みを抑えるくらいならすぐ出来るにゃ。基本料金に追加で五万もらうけどー!」
「高いな……」
しかも基本料金はすでに発生しているようだった。
このテの霊感商法は基本的に詐欺なので注意が必要である。
「どうせ医者に診せたって、ケツの穴ほじくられて痛い思いするのがオチだと思うけどにゃあ?」
少女は笑いながら立てた中指をくにくにと動かす。
先ほどの直腸検査がフラッシュバックした。
「わ、分かった。頼もうか」
一応金はあった。
医者にかかった経験がほとんどなく、相場が分からないのでかなりの額を持ってきていたからだ。
「まいどあり~♪」
揉み手をしながらすすっと背後に周ってきた少女は、なんと男のズボンに手を突っ込んだ。
「うおおっ!?」
「うりうりうりうり♡」
「おっ! おおっ! おっおっおっ……」
背中から尻にかけてをシュシュシュっとこする。結構な速度なので熱い。
「うりゃうりゃうりゃうりゃ♪」
「んおお! おお! おほぉ~~~」
周囲からの視線がちょっとイタイ。
「はぁいしゅ~りょ~だにゃ~ん♪」
ぺろりと手を舐めてから木箱に戻った少女。
「お……うおお!? き、消えてる! 本当に痛みが消えてるぞ!」
「ま、これは一時的な誤魔化しで、治ったわけじゃないんだけどにゃあ」
「いや、十分だ。これだけ楽になるのならまた頼みたい」
久しぶりに心と体が軽くなった。
警戒する必要なんて無かったかもしれない、男はそう考えてしまった。
「さぁて、ここからが本番だにゃん。おにーさん、これ買わない?」
少女が取り出したのは、小さなドクロがついた趣味の悪い首飾り。
「……これ、その辺の店で売ってるやつだよな?」
「うん、でもでも~、ミーがたぁっぷりエネルギーを込めた立派な呪物だよん♪」
普通に考えれば怪しい、話を聞く価値すらないだろう。
しかし少女に不思議な能力があることは身をもって知っていた。
ゴクリと唾を飲み込んでから男は口を開く。
「ど、どんな力があるんだ?」
「悪意の伝播……今おにーさんが一番望んでいたこと……」
少女は甘く、ささやく。
「俺の……望み……?」
「気に入らなかったんでしょ? 楽しそうに生きてる奴等が」
芽生えてしまった黒い感情を、少女は刺激する。
「同じ痛みを味あわせてやりたかったんでしょ? この町の奴等に」
「俺は……」
「この首飾りはそれを叶えてくれる。持ってるだけで大勢の人間を呪える。ステキだと思わにゃい?」
少女は返事を聞かずに、首飾りを男にかけた。
「……これ、いくらだ?」
「にゃふっ♪ 二十万ディーナになりまぁす!」
「やはり高いな……」
「いきなりこれを売ろうとしてもぜぇったい買わないでしょ? だから格安で能力を見せたんだぁにゃあ~ん」
首飾りを掴んで男はニヤリとした。
「でもいいのか? 俺にこんなモン売ったらあんたにも悪い影響が出るんじゃないのか?」
「あぁ、いいのいいの。どうせミーはしばらくこの町……ってかこの国から離れる予定だしぃ。そもそも財布持った奴に逃げられちゃったからこんなことやってたワケだしぃ」
「ははは、それじゃあ遠慮はいらないってことか」
「そゆこと~♪ むふっ、旅費稼ぐついでにヤドリギさんと先生に嫌がらせまでしちゃうなんて……ミーってやっぱ天才!? リベンジの前の置き土産、気に入ってくれるかにゃあ?」
「なんだ、倒したい奴でもいるのか? だったら俺が手伝ってやってもいいぞ」
「うむぅ、申し出はありがたいけど、ヤドリギさんにはミーのとっておきでも通用しなかったからにゃあ。おにーさんにはこの首飾りを買うことで役に立ってほしー」
「よく分からんが相当の使い手らしいな。いち武道家としては会ってみたいところだが……」
「んまぁ、戻ってきた時に使わせてもらうかもしれないから、それまで五体は大切にしておいてほしいんだにゃ。死んでも火葬とかされちゃやーよ?」
男には発言の意味が分からなかったが、少女はお構いなしに話し続ける。
「相手は神話のような存在だからね~。こっちもおとぎ話のような……伝説的な力を手に入れる必要があるんだぁにゃ~~ん。キャハ! キャハハハハ!」
自分の世界に入り、少女は独りで笑い始めた。




