第百二話 リンネという先生
町の上空に浮かんでいるマイラ。
その手には弱い風の魔力が。
「このマイラ様にくだらないことをさせやがって……」
簡単に殺すなという命令を守り、あまり人のいないところに竜巻を発生させる。
近くの物をある程度巻き上げ破壊したら竜巻を消し、再び人の少ない場所を探す。
「どうせなら一発で消し飛ばしてしまえばいい。ウジ虫どもの町など」
逃げ惑う人々の姿と悲鳴がとにかく不快だった。
自分がかつて戦った魔族と同じことをしているのも不快。
ハイズの言いなりになっているこの状況も不快。
「いつだって、マイラ様をイラ立たせることだけは上手いウジ虫どもだ」
ハイズに反抗することは常に考えていたがどうしても言い手が浮かばない。
殺したところで意味がないし、呪術のせいで逃げることも出来ない。
うかつに機嫌を損ね、また何百年も魂を縛られてしまうことは一番避けたい。
今のマイラには大人しく従う以外に選択肢がなく、そんなみじめな自分がなによりも不快だった。
「……ああ?」
このイラ立ちをどうしたものかと考えていたら、地上から矢が飛んで来た。
魔力で落とす必要すらなく、少し体を動かしてかわす。
「アイツか」
矢の飛んで来た方をこれでもかとにらみつける。
そこには、民家の屋根で手を振っている女がいた。
長い黒髪で顔を隠した怪しい女。
見えている口元だけでニタニタと笑みを作っていた。
「間抜けなウジ虫だ。せめて隠れていれば次のチャンスもあっただろうにな」
マイラはそちらの方へゆっくりと下りていった。
◇
(フフフ、こっちに来るな。とりあえずこれで一手目はクリア。まずはこちらの攻撃が届くところに来てもらわないといけないからね。最悪爆薬でも使ってアピールしようかと思ってたけど)
リンネは持っていた弓を投げ捨てた。
「今の矢、お前だな? マイラ様の命を狙うとはいい度胸だ」
腕を組んだ姿勢でスーッと降りて来たマイラの言葉を聞いて、リンネは内心、
(助かった。いきなり良い言葉を出してくれた)
喜んだ。
「命を狙ったって……今言いましたよね?……あなたもう死んでるんでしょう?……その表現おかしくないですか?……やっぱりゾンビになると脳が腐るから言葉を正しく選択出来なくなるんですかね?……生前から頭が悪い可能性もありますが……」
リンネはわざとらしいくらいに煽る。
「もういい、死ね! ウジ虫!」
マイラは手に風の魔力をまとわせて飛んだ。
(多少効いてはいるな、挑発は有効か。けどまだ足りない。あと一押し)
襲い掛かって来たマイラを手刀で迎え撃つリンネ。
一瞬ですれ違うように動く二人。
「思っていたよりはやるな」
マイラの頬に切り傷がついていた。
一方リンネは、
「ぐっ……あああ……」
風の刃で全身を刻まれ、五体がバラバラになっていた。
しかし――。
「なんてね……この私は偽物です……フフフ……」
頭部だけになっても笑っていた。
土の魔力で自分そっくりに作ったゴーレムである。
「小賢しい奴だ。本体はどこにいる?」
「はぁ……やっぱり頭が悪いな……答えるわけないだろ……しかも頭が悪いだけじゃなく弱い……もしかして勝てる気でいるの?……私のツメにはたっぷり毒が仕込んであるから……ゾンビ化してなかったらその傷でもう終わってたぞお前……ゾンビとしては下っ端の方か……なら殺さないように捕まえて私の研究に――」
話している途中で、転がったリンネの頭部は風の刃に刻まれてしまった。
(完全に食いついた。これでしばらく私以外が狙われることはないはず。二手目もクリア)
足元の民家からわざと大きな音を出して飛び出す本物のリンネ。
「キサマァアアアアアアアア!!!」
激怒し空中から風の刃をいくつも放ってくるマイラ。
リンネはなるべく人の少ない場所を目指し全力で走って逃げる。
マイラは低空を高速で飛びながら風の刃を放つがリンネはそれらを上手くかわしながら走っていた。
(風の魔導士で浮ける人は見たことがあるけど、実戦レベルで扱えている人は初めてだな。しかも飛びながら攻撃までしてくる。体術は微妙だけどうかつに近付けば即死と考えて良い。風の刃とバリアをかいくぐって首をはねるには何か手を考える必要があるね。あんなペースじゃ魔力切れもありそうだけど、ゾンビ化する時に何か仕込まれてる可能性もあるしなったらラッキー程度、他のゾンビが割り込んでくる可能性も考えるとプランBの準備も必要か)
近くの建物に逃げ込んでほんの少しだけ休憩。
やはりすぐに屋根が破壊されマイラと目が合ってしまうが、
「みんなを守る先生ってのは……大変だな……ホントに……」
リンネは笑みを絶やさなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
とある国、旅人たちでにぎわう大きな宿屋。
歴史ある店を守り続ける一族の子として、リンネはこの世に生を受けた。
家はそれなりに裕福で、五人兄弟の末っ子である彼女はとても可愛がられ、兄や姉が仕事を手伝わされるなか好きに遊んでいられるという恵まれた環境だった。
幼い頃のリンネはとても大人しく、本ばかり読んでいる内向的な子供だったのだが、思春期になると少し様子が変わってきた。
「お父さん。それ、ただの石じゃないの?」
宿代が無いからと、旅の修行僧が置いていった小さな石像を指差し、リンネは尋ねた。
「私知ってるよ。それ神様じゃなくて人間が作ってるんだ」
像に向かって真剣に祈っていた父の視線がリンネに、
「本で読んだことあるけど、神様に仕える人ってお肉食べちゃいけないんでしょ? あの僧侶の人、平気で食べてたよね。嘘つきだよ」
ボソボソとした小さな声でおまけにやたら早口。
「あとさ、祈ってもお客さんが増えたりはしないよ? そういうの信者を増やすために後付けされた話だから。そもそもこの宗教の成り立ち知ってる? なんか色々勘違いしてるみたいだけど今から千年くらい前に――」
話はそこで終わってしまった。
激怒した父親にビンタをされたのだ。
「お前が甘やかすからだぞ!」
リンネを殴っても怒りが収まらない父親が次に当たったのは母親で、
「あぁ……どうしてこんな子になってしまったの? こんなものがあるから馬鹿になるのよ!」
それで機嫌を損ねた母は、リンネが買ってもらった本をすべて捨ててしまった。
「バカな親」
普通の子供であれば泣いて反省するところを、リンネは逆に、親に問題があると結論付けた。
厄介なのは、この判断が自己正当化ではなく冷静な判断で行われていたことで。
「病気の子供がいるんだったらいもしない精霊なんかに祈ってるんじゃなくて町の医者のところに連れて行けば?」
家族以外の誰にでも。
「東の山にある遺跡って……有名になったのは最近だけどあそこ発見されたの一年くらい前だよ? 優秀な人は話が広まる前に動いてるからもうろくな物残って無いと思うけど。しかも現場の下調べもせずに借金して人雇っちゃうとかおじさんは頭が悪いね」
まぁ、こんな調子だったわけで。
怒らせて口喧嘩になることもしょっちゅうで。
「君はまだ若くて考えが甘いんだ!」
これなら反論できないだろうと言葉を選んでズバズバ打ち返していると、最後には大体こんなことを言われて逃げられる。
年齢だとか、立場だとか、そういったものを持ち出されて『だからお前が間違っている』と繰り返されれば、話はそれ以上進まなくなってしまう。
最後は無理矢理なレッテル張りをされて侮辱されるのがお決まりのパターン。
「どいつもこいつもバカばっかり」
リンネという子供は、次第に周りの大人たちを見下し始めた。
それは、ハイズが道を踏み外すきっかけになったものと、まったく同じ心の病気だった。
「現実を見ずに感情的に暴れはじめて最後は逃げてばかり、バカってどうしてこうなんだろ」
感情的な言動を馬鹿だと否定してしまうけれど、そんな人を見て、自分も酷くイラ立っているという矛盾に気が付かない。
リンネという少女は、こうして孤独になっていった。
「こんな所にいつまでもいられない。バカのバカが伝染る」
こんなリンネが普通に生きていけるはずもなく、最終的に選んだのは魔導士という生き方。
「いくら口で言ってもバカには通用しない。強くならなくちゃダメだな。バカに殴られるのも殺されるのも絶対に嫌だ」
遠い異国の魔法学校では、実力や才能を認められれば金が無くとも教育が受けられる。
卒業まで出来れば一人前の魔導士として称号を与えられ、仕事に困ることもない。
「まずはここで特待生を目指そう」
フィリス魔導学院について集められるだけの資料を集め、入念に準備をし、最後は家の金を持ち出して故郷を飛び出した。
入学試験は拍子抜けしてしまうほど簡単であっさりと合格。
持って来た金が尽きる前に寮に入ることも出来たが、今度は学費が心配になってくる。
特待生という立場を得るためにリンネは必死で頑張った。
「……あった。過去の特待生に関する資料」
と言ってもリンネの頑張るというのは普通とは少し違っていて、立てなくなるまで訓練を続けるとかそういったものではなく、特待生として認められる基準を調査し、もっとも簡単に実現できそうな方法を選ぶというもの。
「入学前の子供に魔力量だけで認めたケースがあるんだ。魔力を集中して鍛えて申請すれば私も通るかな。生活態度も考慮されるなら従順なフリもしておかないと」
リンネのもっとも優れた才能は、物事を現実的に考えられること。
曖昧は追わず、必要なことを必要な分だけやる。
人間にはあらゆる限界があることを理解していた。
結果を言うと、リンネは半年ほどで特待生という立場を手に入れた。
それが才能ではなく計算で取ったものであるということは周りの目には明らかで、他人を見下すリンネの性格とも合わさり、さらに彼女の孤独は進行していった。
「次は人間どもと関わらなくて済むようにしないとだね。本格的に強くなることを考えないと。まずは体作りからだな。栄養と運動を効率よく、これは時間が掛かるから魔法の訓練も同時に進めていこうかな」
他の生徒に嫌がらせをされ、理不尽に絡まれた日の夜でもリンネは冷静だった。
魔法や人体についての知識をありったけ集め、独自の訓練メニューをその都度用意し、魔導士として自分を作り替えていく。
これは『ただ苦しい思いをしているだけ』の訓練法とは比較にもならない程効率が良く、たった二年という月日で、リンネは他の生徒どころか、教員たちですら太刀打ちできない程の強さを手に入れた。
大きな力を手に入れたリンネはさらに増長し、他者を馬鹿にし遠ざけた。
本人はそれでいいと心から思っていたのだが、何故だか、謎のイラ立ちが消えることはなかった。
「よっすリンネ♪ 聞いたよ~? またジズを病院送りにしたんだって? 一応さぁ、同じ学校の仲間なんだから、も~ちょっとくらい加減したどうよ? ムカつくヤツとケンカすんなとは言わないからさ」
いきなりリンネの肩に手を置いて、にこやかに話し掛けたのは、露出の多い恰好をしたノリの軽い女性。
彼女はリンネの担当教員だった。
「は? 襲われたから自分を守るために戦っただけですよ。手を出したのは向こうが先です。仲間じゃないし。あと馴れ馴れしく触らないでください。服が汚れるでしょ」
イライラとした態度で、以前にも増して小さな声で早口。
普通の生徒や教員はこんなリンネから離れていくが、この先生だけは違っていた。
「ん? 喧嘩じゃないの? 最初に煽ったのはリンネだって言うヤツもいたよ。ってか、身を守るためならあそこまで痛めつけるコトないし」
「嘘ですよ。私は嫌われてるから悪者にされたんです。証拠となる映像はもう提出してますから。とにかく私に非はありません。離してください」
汚いものかのようにその手を払って、リンネはその先生から離れていった。
この先生は本当に面倒くさい人で、事あるごとにリンネと仲良くなろうと話し掛けて来た。
気に入らない生徒や教員ともめた後や、リンネが修行をしている時、食堂で見かければ必ず近くに座ってくるし、それを嫌がって部屋で食べていたら勝手に入って来たこともあった。
「バカが。私を懐柔して上手く利用しようって魂胆が見え透いてるんだよ。どうせ担当教員だからって理由で学院長に指示されたんだろ。内心どう接していいか分からなくて困っているクセに。私が気が付かないと思ってるのか。あのバカにやらせる方もバカだな」
このひねくれ者は先生の行動をそう判断した。
そしてまぁ、厄介なことにそれは当たっているのだ。
宿屋の娘として幼い頃から様々な人間を見て来たリンネは、その優秀な能力で人間というものを理解していた。
そんな日々の中で、
「リンネ、貴女に大切な話があるの」
いきなり学院長に呼び出された。
「……なんですか?」
素直にそう聞いた。
言う直前、直近の行動を振り返ってみたがそれでも呼び出された理由が分からない。
いきなり何が来ても言い逃れる自信はあったが。
「国内に強力な魔族が現れました。犠牲者はまだ少数ですが今後増え続けるでしょう」
「……?」
この国に魔族が現れたことと自分に何の関係があるのか。
「実はね、この学院はそういう事態に対応することも仕事としているの。ですから、実力のある教員を五名ほど選び討伐に向かわせたのですが、誰も戻っては来なかった。そこで――」
ここで話が見えた。
「一億でいいですよ」
「え?」
驚く学院長。
「私にその魔族を倒させたいんでしょう? 確かに残りの教員を束にして当てるよりはるかに勝率が高い。失敗しても死ぬのが私なら誰も困らないし。でも残念でしたね、私は行く気ないんですよ。この学院どころか国だってどうなろうと知ったことじゃない。でも報酬次第なら考えてもいい。私がその魔族の首を持ってきたら一億。それなら戦ってもいいです」
その値段設定も絶妙で、学院長がギリギリ用意できるかどうかといったラインを上手くついていた。
いくら強いといっても生徒にこんな話を持ち掛けなければならないこの状況がすでに異常事態で、それが学院長の個人的判断で行われているということも見抜いていた。
結局、学院長はリンネの条件を受け入れた。
「案外決断が早かったな。金庫漁れば十分用意できる金額だったか。最初はもっと多めにふっかけてみても良かったかも」
そんなことを考えながら戦闘の準備をし、魔族が潜んでいると聞いた洞窟に向かった。
「グヒヒヒ……。なんだぁ? 今度はガキ一匹か」
「……こいつか。間違いない」
手に持っていた水晶をしまって、
「ミスリルゴーレム!」
リンネは戦闘を始めた。
魔族と戦うのは初めてだったが、事前にしっかり準備をしていたリンネは互角以上に戦い、確実にその魔族を追い詰めていく。
「ギヒャッ! こ、このガキィ……」
「はぁ、はぁ、やっぱり頭を潰さない限りは元に戻るのか……」
手を焼いたのは強さそのものよりも再生能力。
高位の魔族というのは魔力が続く限り傷を治すことが出来る。
魔将に近い力を持つ魔族ともなればその魔力はとても大きく、戦いは想像以上に長引いていた。
それでも、やがて決着の時は来る。
「うああっ!?」
「ギヒャ、ヒャヒャヒャ!」
疲労し動きが悪くなっていたリンネは足をやられてしまった。
「ヒャヒャヒャ。残念だったなぁ、もう少しだったなぁ」
魔族はいやらしく笑い、刃のように変化した腕を振り上げた。
その時。
「ファイアーボール!」
「ぐおっ!」
炎のかたまりが魔族に直撃、倒すことは出来なかったがリンネからは遠ざけることが出来た。
「リンネ! 助けに来たよ!」
現れたのはリンネの先生。
「えへへ、リンネと学院長の話、盗み聞きしてたんだ。こっそり付いてきて正解だったよ」
相変わらず爽やかに笑う。
リンネにはわけが分からなかった。
彼女が自分を助けに来る理由は何もないはずである。
はっきり言って教員の中でも下の方の実力しかない彼女に、学院長が協力を頼むとも思えなかった。
足手まといでしかないから。
「てめぇ……おれ様の戦いを邪魔しやがって……」
「黙りな! よくもアタシの仲間と生徒を傷つけたな! 絶対許さねー! 食らえッ! ファイアキャノン!」
先生は強力な炎の魔法を魔族に放った。
しかし……。
「ヒャヒャ! ヒャヒャヒャ! この程度か?」
ダメージは無いに等しかった。
彼女の実力では不意打ちで驚かせるのが限界だった。
「……やっぱアタシじゃ無理か。リンネが負けるくらいだもんね」
魔族はそんな先生をあざ笑うと、
「おいおい勘弁してくれよぉ。殺す価値も無い雑魚じゃねーか。もういい、そのガキ置いて消えろ。てめーにはもう興味がねェよ。これ以上続けてたら完全に萎えちまうわ」
意外にもそんなことを言いだした。
ならばここは当然逃げるべきである。
リンネはそう思った、けれど、先生はさらに理解不能な言動を始めた。
「リンネ! 顔、伏せときな! こっからスッゲー魔法使うけどさぁ、たぶん、コントロールミスっちゃうから、巻き込んじゃうと思うから先に謝っとく! ごめんね!」
何を言ってるんだろう、この先生は。
「いややっぱさぁ、女の子は顔と髪さえ大切にしておけば十分だよ、うん。何度も言ったけど、元がいいんだからリンネは、だから、火傷しちゃっても許してね?」
洞窟の中の温度が、上昇していく。
「あぁそれと、リンネはさ、すごく強くて賢いから、上から目線になっちゃうのも仕方ないと思うんだけど、もうちょびっとだけ、みんなに優しくしてやってくんないかな? ほら、相手より上に立ってるんだったら、下のヤツの面倒見てやらなくちゃダメダメじゃん? その方がきっと、リンネだって楽しいと思うよ~」
最後にニッと笑顔を見せて、先生は、
「サラマンダー……インストール!!!」
自身の命を究極の炎に変える、そんな魔法を唱えた。
リンネは顔を伏せろと言われたのに、輝く炎に包まれて戦う先生の姿から、目をそらすことが……どうしても出来なかった。
そして、リンネの命だけは助かった。
だが心に負った傷は重く、しばらくはベッドから出るのも辛い生活が続いた。
力なく寝転がり、何もしてはいなかったが、リンネの優秀な頭脳は彼女を休ませようとはしなかった。
先生は何故来たのだろう?
何故姿を現したのだろう?
何故命を捨ててまで自分を助けたのだろう?
元々自分に関わっていたのは学院長の指示で仕事のはずだ。
なにが嘘で何が真実なのか。
最後に見た時の先生の顔、言葉、始めて会った時からこれまで交わした全てのやりとり。
暴走するかのようにリンネの頭は動き続ける。
先生について、あらゆる情報を思い出しながら。
この時、リンネはとても驚いたことが一つある。
感情的な人間をバカと断じて来た彼女は、当然のように自分は違うと思っていた。
けれど……先生との思い出を振り返るたびに、彼女の笑顔を思い出すたびに、あふれ出てくる涙が止まらなかった。
嫌いだったはずなのに、別に身内でもないのに。
涙が、止まらない。
それと同時に、その時自分が発した酷い言葉をいちいち思い出して、胸がとても苦しくなった。これは本当に辛かった。
「ああ……そうだったのか……」
そこでリンネは一つの事実に気が付く。
「バカだから……だろうなぁ……」
自分自身もまた、その『バカ』の一人でしかなかったのだ。
周りよりずっと賢かっただけのバカ。
優秀なリンネのこの判断は、やっぱり、当たっているのであった。
それからリンネは少しずつ変わっていった。
まず、他人を傷つける様な言葉はなるべく控えるようにした。
たとえそれが真実であったとしても、嘘をつくことになったとしても。
人と話す時も、なるべく大きな声を出すように意識した。
早口もやめた。
ゆっくりと、速すぎる自分の思考を抑える意味も込めて、間を開けて話す。
苦手だったし恥ずかしかったけれど、他人とも少しずつ関わるようにしていった。
それもこれも全て、過去に先生から助言されていたことだった。
すると不思議なことに、自分ではどうすることも出来なかった、あのイラ立ちも消えていった。
笑顔に、なることが出来た。
やがて学院を卒業する頃、別人のように落ち着いたリンネに対して、学院長から教員採用の話がやって来る。
こうして、強くて優しくて、自分の生徒を深く愛することが出来て、いつだって不気味に笑っている、リンネという先生は誕生した。