喪失と遭遇
踏みしめるアスファルト。じりじりと焼き付くような日の下。初めて歩く街の風景を眺めて歩く。不意に大きな影が足元を隠してしまう。隣を歩いていた人の背中を強く強く押し出す。
「はーちゃん…?」
驚くようなその人の顔。よろけて振り向いたその人は頭上に迫る塊を瞳に映した。
微笑んで感謝の言葉を最期に鉄の下へと。まるで花が咲くように赤い液はアスファルトに染み出していく。
その人の空を劈く絶叫がビルの間でこだました。
爽やかな風が頬を撫でる。土の香り、ざわめく木々。1つの人影が森の中で倒れていた。いや気絶していた、という方が正しいか。
数刻の後、目を覚ました1つの人影は辺りを見渡し、困惑の表情を浮かべる。何故ここにいるのかがわからない、どうやってここに来たのかも覚えていない。全く身に覚えのない出来事に、不思議に思いながらも見たことのない植物ばかりの森の中を彷徨い歩いた。
しばらく歩き続ける内に綺麗な湖を見つける。少しここでやすんで行こうかと、その湖を覗き込むと水面は鏡のように自分の姿を映し出す。
黒い瞳、腰まである長い黒髪。地面に寝てたためか土や葉で汚れている。服装は黒いマフラーに薄い長袖のシャツ。ノースリーブジャケット、スキニーパンツにスニーカー。およそこんな森にくる格好ではなさそうだ。
自分の姿に疑問を抱きながらも、少しの休憩を経て再び森の中を宛もなく歩く。ふと、不気味な程に静かなことに気づいた。風のざわめきもない。ざわりと背筋に冷や汗をかく。
無音の刹那。
地響きと脳を揺らす様な低い鳴き声。鈍い銀の鱗、木よりも高い位置にある頭、爬虫類の如く縦長の瞳孔は自分を見下す。ごつい図体のそれは見たことも聞いたことも無い未知の生物だった。その生物は大きな翼を広げ、徐に口を開く。光が集まりそれは自分に向いている。脳内で逃げろと警報がなる。死ぬぞ、と。どれだけ本能が危険を感じても、体が追いついていかない。ぼーっとただ眺めるだけでその足は動こうとしなかった。動けなかった。
夢、みたいだと。見たことのない動物に、その存在感に、ただ圧倒されるしか無かった。その生物の顔を眺めていると、小さな影がその巨体に飛びかかるのが見えた。はるか頭上にあるその顔に…蹴り、だろうか。その巨体に小さな影が蹴りを入れようと無意味であるはずなのに、小さな影の蹴りは巨体を抉る。続けて小さな影はその手に光を集め、その生物をいとも簡単に消し去ってしまう。起きたことを脳で追ってもなかなか受け入れられない。
小さな影は自分の目の前に降りて口を開く。…もっとも自分が見上げるくらいにはその影は小さくはなかったわけだが。
「ドラゴン目の前にして微動だにしないなんて死ぬ気かお前」
低い声が鋭く刺すように言葉を放つ。今まで耳にしたことも無い言語。それでもこの脳は理解していた。何故理解できるのかわかるはずもなく、当然ドラゴンなんてものも初めて聞く単語だった。
「ドラゴン…さっきの?あれはなに。光があつまって、あれは、なに」
知らないはずの言葉をちぐはぐながらに口にする。目が覚めてから不思議な事ばかりだ。
小さな影…人、おそらく人。フードを深く被っているため顔は見えないがその人は驚いたような素振りをする。それもそのはずで、自分の知らないことはこの人影にとっては常識的なことなのだ。
「ドラゴンを知らないって、子供でも知っているような魔物だぞ?そもそもここは今警戒区域で一般人は立ち入り禁止のはず。そんな軽装でこんな奥までどうやって入ってきた」
曰く、入口で死んでいてもおかしくないのだと言う。尤も、なぜこの場にいたのかなんてわからないし、なんならこちらが聞きたいくらいだ。
「兎も角、子供がこんなところにいたら危ないぞ、この近くの国の子供か?送ってやるから家のある場所を教えろ」
「家…日本。の、………」
その先の言葉が見つからない。家の場所が思い出せないのだ。
ここまで至ってようやく気づいた。思い出せないのはここに来るまでの時間だけではなく、自分の生きてきた過程だった。呆然と立ち尽くして言葉に詰まっていると彼は絶望を口にする。
「ニホンって、そんな地名ないぞ」
ニホンなんてチメイは、ナイ。その言葉を脳内で繰り返し飲み込む。そう言われてしまえばそんな気がしてきてそもそもニホンってなんだったか。思い出そうとすれば霞がかかったかのようにはっきりとはわからない。
「わからない。なにも…わからない。ごめんなさい」
思い出せない。誰かに助けを乞おうにもそんな誰かなんて存在するはずもなく、この場所で自分はどうしようもなく独りだった。誰もいない、何も覚えていない、どうすることも自分ではできない。それを漸く悟ったところで何かが変わるわけでもないのだが。
「訳ありか…保護するにもな……宿屋に1人放り込む訳にもいかねぇ…」
困ったように唸り息苦しい沈黙が続く。どうしたらいい?なんて、口の中で絡まった言葉に答えはない。ただ謝ることしか出来ずにいた自分の頭にそっと手が置かれる。その手は大きく温かかった。混乱した脳が落ち着くまで優しく。
情けないことにその手に縋るしか無かった。
「孤児院…か。子供を…しかしな……」
ぽつりと呟かれた孤児院という単語。その言葉の意味はあまりピンと来ていないようだが子供という単語には聞き覚えがあった。そして自分が何故か覚えていたこと。重ねた年齢で言えば子供というには幾らか歳を重ねすぎているようにも思える。誤解を正すように頭2個分ほども高い彼を見上げて告げた。
「僕、君が思うより子供じゃない」
「は?」
「これでも20歳、だよ」
確たる自信を持って答えると彼は何を言っているのかと言うふうに首を傾げる。自分の耳を疑っているのだろう。それならばもう一度、と。
「僕はハルカ。20歳」
己の名前と年齢を再度告げる。名前と年齢だけ覚えているなんてどういう事なのか、なんて考えるのも無駄だ。その人物は一瞬呼吸を止めて浅く息を吐き出し、驚きさえも最低限にとどめて至って平静に答える。
「成人済みならギルドへ行け。…いや、俺が連れていこう」
「ぎるど」
「まさかギルドも知らないとか言うなよ?」
一瞬の沈黙は流石に彼も驚きを隠しきれずに「まじかよ…」なんて呟く。ハルカは自分の名前と年齢以外の情報をもっていないのだから聞くこと全てが初耳であるなんて目の前の彼は知る由もないのだ。
「これ以上…自分の名前以外、わからない」
彼は別段驚くこともせずそっと頭に手を置いた。何かを探ろうとしている。そう察した瞬間脳に這う不快感と僅かな隙間を潜り全体を間探られる感覚に見舞われる。
気がつけばその手を振り払い彼から距離をとっていた。
それ程耐え難い感覚。2度目はごめんだ、という風に彼の手を警戒する。
「…記憶操作をされた形跡はなかった。だがお前の記憶は辿れない。不可解な奴だ」
物騒な単語をサラリと言う。まるでよくあることかのように。自分は今までこんな世界に居たのか、どこかしっくり来ない気もするがそんな疑問も覚えてないハルカには答えようのない自問だ。
「行くぞ」
手を伸ばされて身構える自分よりも遥かに小さいハルカを見て苦笑しながら彼は手を差し出した。手を取れ、と。差し出された手に恐る恐る触れて…瞬き1つ。ハルカは見知らぬ街中に居た。古びた木製のウェスタンドアと鼻をつくアルコールの臭い。
「ようこそ、我がギルド『suitable』へ。適当なところだ。俺らみたいな流れ者が溢れたギルド。…お前の見た目じゃ少し面倒かもな」
ハルカの視線ほどの高さにある薄いウェスタンドアを押し開ければ広い酒場にちらほら酒を飲む人。誰もこちらを見ていないのに視線を感じる。見られているのに誰も見ていない。こんなに不気味で居心地悪いのに、彼はさしてきにもせず中へ足を運ぶ。
「…ねぇ、ここ嫌」
「視線を感じるのか?良い勘を持っている、気にするな敵意はない」
腕を引かれて酒場の中へ誘われる。空気中に溶けたアルコールの臭いに頭が揺れ、ふらつく足も腕を掴まれているせいで立ち止まることは叶わない。
「お前身分証明になるもには持って…るわけないか」
「うん」
「だよな。身分証明できるものがないと困るんだ。20歳ならギルド登録してカードを作るといい。身分証明になる」
不思議な文字の並んだ紙。いや文字とわかる時点でハルカがこの世界に住んでいたという証拠になるのか。手渡された紙の項目を眺める。
「読めるか?」
「…読める」
「字は」
「書ける…ああ、でもダメ」
項目の欄に適正属性、魔力量、得意武器、等の全く分からないものがあった。
「適正属性とか魔力量とか、……」
言葉に詰まるハルカに事を察したのか「着いてこい」と、彼は受付らしいカウンターの奥にある扉を開く。その先には地下へと続く階段があった。石造りの階段を彼の後ろに続いて降りる。冷たい石の廊下と複数の扉。入った部屋は小さな空間。真ん中には机と水晶が置かれている。
「その水晶に触れれば勝手に魔力を測定してくれる」
見た目はただの水晶だ。触れるだけで測定できるなんてどういう仕組みなのか。考えても分からないこと、と促されるまま水晶に触れる。水晶の冷たさが手に伝わる。…いくら待てども水晶は反応しなかった。
「…魔力解放をしてないのか、その歳で。どんな生活を…いや、記憶喪失だったな」
彼はきまり悪そうにフードの下で視線を泳がせる。気にしなくてもいいのに…と小さく呟く。どうにもならない事実なのだから。
「魔力解放しないことには水晶も反応しない。そこでお前に俺が魔力を浴びせるから自分の魔力を引き出せ」
「待って、引き出すって」
「行くぞ」
問答無用、と掛け声と共にものすごい重圧がハルカにのしかかる。筆舌しがたい程に重苦しく、無風だけれど暴風の中に居るようで八方から押しつぶされるような感覚。それも、息が出来ないほどに。
フードのその人はただそこにいるだけだ。何をする素振りも見せない。目に見えないこれが魔力というものなのか。じっとりとしたその重みは不意に鋭く貫くようにハルカを襲う。刺されていないのに刺されたみたいだと錯覚する。それでもなお容赦なく彼の魔力はハルカを突き刺す。
頭が割れるような痛みに思わず自分を抱きしめる。耐えるように、守るように。そうしてる内に胸の辺りが温かい事に気づいた。その温もりは内側から溢れてハルカ自身を包みこみ、重苦しさも貫かれるような感覚も無くなっていた。
その一連の流れに驚いた、と手を叩く。
「解放した一瞬で纏うか…」
「纏う?」
「魔力で全身を包んだだろ?それを纏うという。それは本来…いや、この説明はあとにしよう。とりあえずまた水晶に触れてみろ。今度は結果が出るはずだ」
促されるままにハルカは水晶へ指を触れる。触れた瞬間水晶は淡くひかり、機械的な声で告げる。
「ピピッ ERROR ERROR 魔力測定不能 ピピッ ピピッ 魔力量カンストデス」
…今どきの水晶は喋るんだ。いや、今どきとかわからないけれど。なんてくだらないことを考える。透明な球体が喋るのは些か不思議なものだ。
「続イテ適正属性 該当無シ デス」
「該当無しだと?なんだお前巫山戯てるのか?」
機械的な声が該当無しだと告げることが、どれだけ重大なことなのかハルカに理解することは出来ない。肩を掴んで揺さぶられても脳みそが揺れるだけで答えなんて出せないのだ。
「そんな事言われても…魔法、使えない?」
「魔法が使えないなんてことは無い」
彼が言うには、人には必ず魔力が多かれ少なかれ備わっており、魔力がないと生きていけないという。そして、それぞれに扱える属性等も決まっている。
そして、今回の該当無しというのは今まで発見されていない未確認の属性だそうだ。本来なら本人が使い方を自然に理解するらしいと説明を受けたが、残念ながらハルカは記憶喪失で魔法の使い方すら知らない。
「どうしたものか…」
「困ったね」
深いため息を吐いて彼は諦めたように「項目を埋めていけ」と言った。自分の名前と年齢がわかるのは良いけどなんでそれだけは覚えているのかと、若干の不気味さを感じる。
名前 ハルカ
年齢 20
魔力量 いっぱい
適正属性 わかんない
得意武器 わかんない
動機
「動機?」
「金とでも書いておけ」
動機 かね
「これは?何する?」
「受付に持っていけ。説明は受付嬢がしてくれるだろ」
ハルカと彼は降りた階段を登り受付へ。受付嬢と呼ばれたその人に適当な紹介をされる。
「新参者だ。俺の紹介ってことで頼む」
「承りました。随分幼いようですが、大丈夫ですか?」
「これでも成人済みだ」
「……なるほど。深い事情がありそうですが手なんて出しては行けませんよ」
「出さねぇよ!!」
何か問答を数回繰り返し話が纏まったようだ。聞こえてきた会話…幼い、か。そんなに子供っぽいのかな。なんて思うハルカにその自覚はなくとも、20にしては明らかに身長も体格も足りてないのだ。服の上からでも何となくわかるほどに細く、顔だって痩けている。これだけ条件が揃えばその背景に浮かぶモノなど想像に難くないのだ。
そんなことなど露知らず、自分の仄暗い過去にも気づかないハルカをフードの彼が手招きしていた。
「あの…」
「はい、ハルカ様ですね。事情は伺っております。彼が貴女の教育係となり導いてくれるでしょう」
受付嬢が白藍のカードを取り出して続ける。
「こちらがsuitableのギルドカードとなっております。このカードは魔力で登録され、番号により管理されます。身分証明が必要な場合はこのカードに魔力を流せば本人確認となりますので、肌身離さず持っていてくださいね」
「はい」
「最初はFランクからのスタートです。死なぬようお気をつけてくださいませ。説明は以上です。そちらのカードに魔力を流してください」
言われた通り手渡されたカードに魔力を流せば、マットなカードが光沢を帯びる。
「登録完了したな。無くしても再発行は出来るがなるだけ無くすなよ」
「ん、ありがと」
「じゃあ早速依頼を受けたいところだが、もう夕方だ。それに、お前の宿を探しに行かなければならない」
宿…確かにそうだ。夜を明かすための寝床は必要で、今後のことまで彼と共にする必要は無い。しかし、何故だか彼から離れてはいけないような気がしていた。そうすることが当然だったみたいにハルカは当たり前にそんなつもりでいたのだ。
「どうして?」
「どうしてって…住む場所は必要だろう。」
「一緒にいれないの?」
酷く厚かましい言葉だが、このままずっと一緒だと思っていたのだ。不安げなハルカの言葉は純粋な疑問だけが含まれていた。不意に脳を裂くような痛みが走る。
──『すまない、もっと早く気づけていれば』『俺がお前を守るから』『一緒に…』──
頭の中に響く声。誰?君は僕を知ってるの?
思い出そうとすると頭が痛む。浮かぶ情景と欠け落ちたフィルム。足りないピースが思い出すことを邪魔しているようだ。
「おい、聞いてるか?」
「ぇ?あ…」
「知らない男の家に上がることに抵抗は無いのかって聞いてんだよ」
「命の恩人、危険はない」
「危機感ゼロにも程があんだろ」
気が抜けたみたいな彼は森にいた時よりずっと柔らかい印象を受ける。この世界で1人、明日の方向さえわからぬハルカが何処かをさまようくらいなら彼について行った方が良いだろう。それはハルカ自身も多少はわかっているようだ。
深い溜息ひとつ。
「嫌だと思ったらすぐ言えよ」
「何を?」
「何をってお前、本当に…大丈夫じゃねぇなぁ…」
項垂れる彼はハルカの手を掴み1つ『転移』と息を吐くように呟いた。するとまた一瞬のうちに景色が変わる。ギルドの中にいた彼らは部屋に移動していた。テーブルにソファに…薄型テレビ。窓から見える景色は住宅地。
ここは彼の家のようだ。
「使ってない部屋はそこだ、一応綺麗にはしてあるがものは何も置いてない」
フードを外した彼の紫の双眸がハルカを振り返る。白銀の短髪。目元のせいかキツイ印象を受ける少年。
彼の顔を見るとハルカの頭の奥が痛む。何か思い出せそうな、引っかかるような。これが夢で、目が覚めたら僕の日常がそこにあって…そんな願望も少しはあった。けれどこの痛みが紛れもない現実だと証明する。今日の出来事がハルカ自身が体験したことだと頭の中で整理されていく。目が覚めたような気分だった。
痛む頭を持ち上げると、意志の汲めない眼がハルカを見据えたままだった。その顔つきはハルカが想像していたものとは大分違っている。
「思ったより幼い?」
「そうか?お前が俺をどう捉えていたかは知らないが、俺は15だ。」
15、それはつまりハルカより5歳も下だということ。その差は大きいとも言えないが小さいとも言い難い。
「嘘だぁ巨人」
「お前が小さいだけだろ」
小さくないもん。とハルカは口をとがらせる。彼は確かに身長が高い方ではあるが、それでも彼の言う通りハルカはあまりにも小さいのだ。
「そういや名乗ってなかったな、俺はアレン・リカルド」
「りかるど?」
「アレンでいい」
「ん、よろしくねアレン」
ハルカも微笑んで応え、彼を見上げると目をそらされる。人付き合いに慣れないハルカは不躾なことでもしたのかと不安になる。対してアレン頭を押さえて俯いた。彼は今己の理性と戦っているなんてハルカは思いもしないのだ。
「あたまいたいの?」
「…いや、そういうわけじゃない…」
「やっぱり迷惑?」
聞いても言い淀んで何かに悩んでる様子で数秒の沈黙の後、アレンは躊躇いがちに口を開いた。
「俺は一人暮らしだ。だから、その…女性用の衣類は何も無いんだ」
「だろうね」
「買いに行くにも、店の中にまでついても行けないしな…」
「なんで?」
「なんでってそりゃあ……男が女性下着の店とか入れねぇだろ…」
「ううん、違う。女性用の服が必要なの?」
それはハルカが女であれば年頃の男児が出会ってまもない女性とひとつ屋根の下と言うのは問題でもあり、男の一人暮らしで女性の衣類がないのは当然のことで買いに行く必要もあるだろう。だがそれはハルカが女であれば、だ。ハルカに異性の部屋に上がり込むことがどういう事に繋がりえるのかを理解しているかはさておき、アレンの苦悩なんてわかるはずもないのだ。アレンが渋る理由も、己の中の欲を抑え込まんとする意思も。
心底不思議そうに、それでいてもしかしてなんて嫌な予感を過ぎらせて真実を口にする。
「僕、男」
鳩が豆鉄砲をくらったかのような顔。少しマヌケでもあるが互いにそれどころではない。
「嘘だろ?」
「ついてますぅぅぅうう!!!」
心の底からの叫び、今日一の驚きと精神的なダメージを受ける。ハルカは女性だと勘違いされていたなんて露ほども思っておらず、故に何も考えていなかった。本人はいくら髪が長いとは言えそれなりに男らしい顔をしていると思っていたのだ。
実際は幼い顔つきはどちらとも言い難く、長めのまつ毛や細い体つきはどちらかと言うと女性的である。
数分後
「すまない」
「僕の格好のせい……気にしないで」
「…なんでお前、そんな髪伸ばしてんだよ」
「わかんない…」
「…すまない」
「ごめん」
決まり悪そうな顔をするアレンに、そんな顔させるつもりではなかったと謝るハルカ。記憶が無いから理由なんてわからない。それのせいで何かを聞く度答えられずアレンが悲しい顔するのはハルカの本意ではない。
行き場をなくしたように目を泳がせるアレンの頬に手を添える。
「そんな顔しないで、ありがとう、なんだよ」
ハルカより高い位置にある顔。目線を合わせるには背伸びをしないと届かない距離、アレンの頬を包んで顔を寄せる。鮮やかな紫の眼がハルカを映す。その目はハルカよりも幼くてまるで純粋だ。右と言えば右へ、左と言えば左へ。僅かに揺れる瞳を隠すように伏せられた瞼。どれだけハルカに感謝の言葉を述べられてもアレンはここまでしてやる気は無く、途中で離れるつもりでさえいたことに罪悪感さえ抱いているのだ。素直に受け入れ難いのだろう。
だがそれでも、知らない土地に捨て置かれてしまえば道標を失い命を落としていた可能性すらあった。記憶も常識も欠如したハルカを保護し、家にまであげてくれたのだ。ハルカにとってアレンは命の恩人であることに変わりない。一人にしないでくれたこと、それがどれほどハルカにとって救いだったか。だからこそ自分のせいで悲しそうな顔をさせたくはないと思うハルカの気持ちだって間違いではない。
「俺はただ通りかかっただけだ」
「通り過ぎないでくれた」
「放っておけなかった」
「そしてアレンに救われた」
アレンの私物以外ない部屋は必要以上のものはなく少し殺風景で、親の気配もなく寂しい広い家。独りぼっちだったのはハルカだけではない。冷たい印象とは裏腹に優しくて暖かく、まだ大人になりきらない未熟な青年。伏せられたままの瞼に唇で触れる。まさかの出来事に目を見開き思わずハルカの手を離れ距離を取る。
「ありがとう」
そんなアレンの様子に、心の底から楽しそうに明るく笑うハルカに目を奪われていた。マフラーと長い黒髪を揺らし幼い笑顔を浮かべる。痩せぎすでいつ倒れるかと気が気でないほど弱々しい出で立ちだというのに、劣情を抱きかねないほど心臓に深く彼の笑顔が焼き付いて目が離せない。そんな自分の煩悩を追い払うように頭を振る。
「…いつまでも汚ぇ格好してないで風呂に入ってこい」
そんなこと気取られるまいと半ば部屋から追い出すように、ハルカ風呂場に押し込める。布越しに触れたハルカはとても華奢で…いや、華奢なんてものじゃない。触れただけで折れそうだった。脆く弱く、細すぎたのだ。掴んだ腕は小枝のようで、まともな生活をしていなかったことは想像に難くない。
常識がない、知識もなければ自分のことさえ覚えていない怪しい人物。ハルカと名乗り20歳だと言っていた。それだというのにアレンよりも頭一つ分以上も小さい。身長に個人差はあれど、150にも満たないのは明らかに可笑しいと言えよう。
ハルカについて思い返す。依頼で用があった森でハルカを見つけた。ちょうどドラゴンに襲われていたところだった。
ドラゴンに襲われても全く動かなかったハルカを助けたついでにギルドにまで連れて行った。ここまでは普通のことだろう。アレンが普通ではありえないと考えるのはその後だ。ギルドまで送ればそれで終わりでいいはずで、例え女だと勘違いしていたとしても他人にそこまでしてやる義理もない。アレンはそういう人物なのだ。
助けを請われれば受けはするが自分のプライベートまで侵させるようなことは断じてしない。そんなことができるのは余程のお人好しくらいだろう。これはアレンが冷たいのではなくそれが普通なのだ。
でも不思議とハルカは放っておけなかった。ハルカの言葉を引き金に、アレンは“そう”した。
ここまできになる理由、ハルカの記憶が無いことで心が痛む理由、不安な顔を見ていたくない理由を探しても答えは出ない。
今はただアレン自身の心臓が煩く思考の邪魔をする。ハルカが男であることは先程認識した。女だと勘違いしたとしてもそんな対象として見てはいない。これは気の迷いだと言い聞かせる。
頭を抱えるアレンの耳に不意に悲鳴が届く。絶望と悲嘆、困惑、恐怖……そんな感情の入混ざった悲鳴。考えるよりも先に体が動いていた。
慌ただしく駆け出し、気にかける余裕もなく扉を開け放つとその先には服を脱ぎかけているハルカがいた。ただその異様な光景が目に飛び込む。白い肌、やせ細ってほとんど骨みたいな身体。色気もくそもない、いや違う、逃げるな。ちゃんと見「見ないで!!!」悲痛な叫び。その叫びが現実逃避をしかけたアレンの目を覚まさせる。
泣いて錯乱して縮こまって自分を抱きしめて震える。裸体がどうのとか、そんなことよりも嫌でも目に入る、それでいて目を逸らしたくなるようなおびただしい数の傷跡が首から下全身に刻まれていた。アレンは勿論、ハルカでさえ服やマフラーに隠されていて全く気づけなかった。洗面台に備え付けられた鏡が2人を映す。これで気付いたのだろう。それらは白い肌に鮮やかに刻まれ、嫌という程目について逃げ場もないほどボロボロだった。
「知らない知らない知らないなにこれなんで、なんでどうして、僕、やだ…やだよぉ…」
首の傷跡は致命傷だったようにも見える。切り裂かれたような後、貫かれたような後……虐待などは想像していた。しかしこれ程のものはアレンも想像していなかった。こんな拷問にかけられていたとは思いもしなかったのだ。
それを生きのびた。そして記憶も…何にせよなんて惨い。かける言葉が見つからない。アレンの足がゆっくりとハルカの元へ向かう。何をするつもりかと音に反応して後退るハルカ。今のハルカにとってはアレンが、アレンも恐怖の対象なのだ。
怯え泣いて、アレンの胸まで苦しくなる。手を伸ばして、叩き落とされる。痛くもなんともないことが逆に痛い。
「気持ち悪いよ……」
訳も分からずなんでこんなに傷だらけなのか、過去は空なのに現在に置いていかれて。ただ、気持ち悪さは感じなかった。同情とも違う。その苦しさはアレンにはわからない。故に同情なんてできないのだ。
「こんなに、汚い…惨めで…醜いよ……」
「汚いものか…得体の知れない傷に恐怖を感じるのは仕方ない。それをお前がどう感じるかも俺がどうこう言えることじゃない」
もう一度手を伸ばす。今度は叩かれることなく、ハルカは俯いたままアレンの言葉を待っているようだった。
「お前の過去の傷はわからない。俺が知ってるのは会ってから今の数時間程度だ。その傷のせいでそれらが覆ることはない。俺がお前に抱いた好意は変わらない」
黒曜のような瞳がアレンを映す。涙に濡れ、怯え揺れる眼。それでも真っ直ぐアレンを見つめる。
「過去はお前が記憶を取り戻してから考える。お前のその容姿も俺は受け入れる」
泣きながら自嘲するように、でも柔らかく微笑む。
「ありがと、アレン」
その涙を拭おうとアレンが手を伸ばす。伸ばした腕はハルカの顔を通り過ぎて髪を梳く。小さく震える細い腕が背中に回されていた。
縋るように背中に回された腕に応えるように抱きしめ返す。ハルカの恐怖もいつの間にか薄れ、目の前の温もりに縋りつく。そんなハルカの姿にこぼれた言葉。
「俺はお前が好きだ」
驚きすぎて言葉すら出ないハルカと、自分の言葉に「何言ってんだ俺」と困惑して「他意はない」って慌てて弁明するアレン。本当に意識せずに口に出てしまったのだろう。それがハルカにも伝わり笑い声が溢れ出す。
「ふふっ、変なの、自分で言っておいて変な顔……あはは、好きって、こんな状況で……あは、おか、し…ふふふ、お人好し通り越してバカ、ほんと、あははは」
お腹を抱えて笑い出すハルカと耳まで赤くしたアレン。
「うるせぇ笑いすぎだろっ!」
恥ずかしさからか声を荒らげるが真っ赤な顔のせいで怖さは1ミリもない。笑い過ぎて呼吸が乱れたハルカが呼吸を整えて、でもやはり顔は笑ったままなのだが。
「ごめんね、ちがうの、こんなの見せられて、なんでそんなこと言えるのかなって、ばかにしてるじゃくてね?えっと…」
下手くそに言葉を必死に紡いでいく。難しい言葉は1つもない。それでも自分の抱くこの感情の名前を見つけられずにいる。
「嬉しくて…違うむず痒い?わかんないや、でも、でもね、ありがと、僕もアレンが好きだよ」
好きという言葉に擽ったさを感じてしまうがそれでもしっかりとアレンと視線を交わす。これは言葉にしてくれたアレンへのハルカなりの誠意だ。
「見つけてくれてありがとう」
アレンは照れくさそうにそっぽを向いて、でも小さく「おう」とだけ返す。この空気に耐えきれなくなったように背を向けて言葉を残して出ていく。
「早く風呂入れ、ずっとそのままでいる気か?」
「…えっち!!覗き見!!」
悲鳴に慌てて駆けつけてきたためハルカはずっと半裸のままだったのだ。このままでは風邪も引きかねない。大人しく風呂場へと足を踏み入れる。次、鏡に写る自分を見ても不思議と恐怖はもう無かった。
風呂の中に足を踏み入れたハルカの目に映るのは見たことも無い金属の塊。壁にくっついたそれの使用方法は勿論知らない。
「…アレーン!これどうやって使うのー!!」
呼び掛けたら数十秒後遠慮がちにアレンが姿を見せる。
「同性だし遠慮しなくていいよ?」
「いやそういう問題じゃない」
「あ、そっか、見てたくないよね」
「違う!…なんでもないんだ、気にしないでくれ」
僅かにアレンの中で芽生えた未知の感情に戸惑いハルカへの対応に苦慮しているのだ。そんな事ハルカが当然知る由もないわけで、自分の傷への配慮だと勘違いしてしまうのも無理はない。
視線のすれ違うままアレンは丁寧に教える。
「こっちのハンドルで温度設定、こっちを回すと水が出る。ついでにそれがシャンプー、リンス、ボディーソープな。体は…これで洗うといい。これに石鹸つけて体を洗う」
アレンはどこからともなく道具を出してハルカに渡すが、使い道がわからないという風なハルカに深い溜息を吐く。徐にアレンは服を脱ぎシャワーを手に取る。
「一緒に入る?」
「1回で覚えろよ」
「がんばる」
アレンの鍛えられた体は程よく筋肉がついていて、思わず見比べてしまうハルカ。なんとまぁ自分の体の情けないことか。
髪の毛の毛先まで丁寧に洗われ、さすがに体は自分で洗い、風呂場の奥にあるもうひとつの扉に連れていかれる。扉を開けるとそこには石で囲まれた湯溜まりがあった。広過ぎない適度な大きさで、低木が花を咲かせていて、管理のされた風情のある場所。その風景はどこか懐かしさもある。
「わぁ…」
「温泉。源泉が売ってたから購入してみたらわりと良くってな。外からは不可視の結界で見られることも無い」
源泉が売っていたというワードに疑問を抱けるほど知識がないハルカはそういうものなのだと納得をしてしまうが、本来ならそれなりに規格外なことだ。
突っ込む者がいない2人だけの空間、他の家よりも高い位置にあるこの場所から山に沈んでいく太陽が見えた。
「綺麗…」
「だろ?気に入ったならいつでも使えばいい」
「いつきてもいいの?」
「ああ、好きなだけここに居ていい」
「ほんと?じゃあアレンにいい人ができるまでお世話になる」
そんな返答にアレンは吹き出す。不思議そうに見上げてくるハルカの頭に手を置いて呟く。
「そういう意味で言ったんじゃないが…そうだな、俺がお前を支えよう。慣れるまで、いくらでも頼れ」
夕日に照らされたアレンの笑顔は頼もしくて、自分の胸が少し熱くなるのを感じて慌てて夕日へと視線を逃がす。
アレンの魔法で創り出されていく部屋。淡い色のカーテン。ふみ心地の良いラグ。部屋全体は明るい雰囲気で、統一感があるこの部屋はハルカのものだ。
気を張らなくていい場所、安らいでいい場所。
それでもアレンが出ていった後もハルカはずっと緊張したままでいた。もっと違う硬い床の方が落ち着けた。何も無かったさっきの状態の方が慣れ親しめた。
柔らかなベッドに抵抗感を覚えていた。




