最終話
私はしばらく立ち尽くしていた。交差点の信号が青から赤に変わるのを3度見届けて、次に青になったのを合図にようやく一歩踏み出した。手を挙げてタクシーを止める。行き先は決まっていた。
好きとか嫌いとか、もうそういうことではなかった。ひとつだけはっきりしているのは、私はいい人になんか出会いたくない。それよりただ、哲人に会いたかった。
マンションにつく。エレベーターを待つ数十秒さえ惜しくて、階段を駆け上がった。息を切らしながら玄関のインターホンを3回押したけど、反応がない。近所迷惑もかえりみずに、私はこぶしを握り締めてドアを叩いた。
「哲人さん!」
内側から人の気配がして、振り上げたこぶしを止めた。ドアが開くと、薄暗い廊下に部屋着の哲人が立っていた。哲人はまじまじと私を見た。まるで見知らぬ相手みたいに。
「……何しに?」
「菜月さんから電話があって。全然連絡取れないから、倒れてるんじゃないかって」
哲人は「あのお節介め」とつぶやき、「人生、携帯の電源を切りたい日もあります。ご覧のとおり元気ですよ」とうそぶいた。
「目の下に濃いクマをつくってるくせに?」
哲人は明らかにげっそりしていた。それでも、今までどおりあくまで笑みを絶やさない口元が、逆に疲れた気配を醸し出していた。
「不眠症だったんですね。なぜ言ってくれなかったんですか」
「別に常にってわけじゃないですから。実際、ここ数か月は出ていませんでした。それに、言ったら結婚できなかったでしょう」
「してましたよ、私は」
すでに過去形の話ではあったが、それは自信を持って断言できた。
背中を向けて帰ろうとしたとき、後ろから哲人の声がした。
「復讐というのは、誤解です。僕も、それだけは伝えておきます」
私たちにはまだ話し合うべきことがあるらしかった。
哲人の部屋にはビニール袋が無造作に転がっていて、中には酒の空き瓶が入っていた。まさか睡眠導入剤と一緒に飲んでいるのかと危ぶんだが、「これでも、薬に頼らずに寝ようと努力してるんですよ」と哲人は力なく笑った。
私はベッドに腰掛け、哲人は床に座り、前回と同じ構図になった。ぽつりぽつりと、哲人が話し始める。
「父親とあまりそりが合わなかったことは言いましたよね。離婚して引き取ったくせに、ろくに子どももかえりみなくて、じゃあなんで引き取ったんだって。そして、ときどき考えるようになった。あのとき母に引き取られて百合野哲人になっていたら、全然違う人生だったんじゃないかと。その『あったかもしれない人生』を考えることは、10代の僕にとって、ちょっとした支えでした」
きちんとした社会人の哲人からは、そんな少年時代は想像もできなかったけど、今目にしている姿であれば、なんとなくイメージできる気がした。菜月と性格がまったく違うのは、家庭環境の影響もあるだろう。
「とはいえ成長して大人になって、普通に生きているつもりだったんです。でも20代後半くらいから、付き合う女の子たちにも性格の欠陥を指摘されるようになって。結婚願望が全然ないし、家もこの有様でしょう。だいたい『冷たい』『人の心がわからない』って揉めて別れるパターンです。同時にストレスがたまると眠れない日が増えて、自分はちょっとおかしいのかなと自覚するようになりました。だから、結婚することなんて絶対ないだろうと思っていたんです。あなたに会うまでは」
その言葉に、不覚にもドキッとした。哲人はあぐらを組み直した。
「あのとき初めて気づいた。確かに百合野という女性と結婚すれば、百合野哲人になることができる、ということに。最初は、子どもの頃の空想が実現したら面白いかもしれないという、軽い好奇心でした。ちょうど転職しようと思っていたところで、百合野建設の得意先の会社を受けたら、受かってしまった。そこで思ったんです。人生一回くらい、有り得ない目標を定めて、そのために行動してもいいかな、と」
「そんな、暇つぶしみたいなノリで……」
「実際、暇だったんですよ」
哲人は即答した。
「前に言った『仮住まい』って、家のことだけじゃないんです。僕は基本的に、どこにも属せないタイプなんですよ。基盤がない。つまりそれって、目的や時間をもてあましているということなんです」
私は哲人の顔をまじまじと見る。穏やかなのに、どこも見ていないような、独特の表情。ずっと抱いていた違和感の理由がわかった気がした。
「入社してからあなたのお父さんに近づく努力をしたら、話がうまく進んで、婚約者候補として会えることになった。自分でも冗談みたいな気分で、三文芝居をしてみて、バレたらバレたで別にいいやと思っていたんです。でも不思議なことに、ホテルであなたに会って、本気でやらなくてはいけないという気持ちになった。その後は本当に結婚してもらうつもりで会っていました。これは、僕としても想定外でした」
「なぜ? 相手は私ですよ」
「玲奈さんだったからですよ」
哲人はもう一度、即答した。
「正直、恋愛対象だったかと言われたら、違います。でも会って話すうちにわかったことがあります」
哲人が何を言おうとしているのか、私は本当に心当たりがなかった。
「僕が惹かれたのは、あなたの持つファイティングスピリットのようなものです。世間的には箱入りのお嬢様なのに、内側に燃えるようなエネルギーや苛立ちがあって、野生動物みたいな人だと思った。ご両親や世間に対してもだし、もちろん僕にも牙をむいてる。そしてもしかしたら、自分自身に対しても。僕にまったく欠けている人間性で、こういう人こそ信用できると直感的に思いました。しかもそれで百合野という名前だった。これはもう、運命としか思えない」
哲人は目を細めて、少しさみしそうな笑顔をつくった。
「でも僕自身が、その信用を手放してしまった。そういう男なんです、僕は」
私はしばらく言葉を失っていた。あらゆる気持ちが渦巻いて、うまく収拾がつかなかった。それでも、家の居間でプロポーズもどきの言葉を言われたときよりも、何倍もうれしかった。
「哲人さん、やっぱり面倒くさい人ですね。結婚できないタイプだと思う」
「自分でもそう思います。もう二度とチャンスはないでしょうね」
哲人も私も笑った。出会ってからいちばん、お互いてらいなく話せている実感があった。
ふと、哲人がひとつ、大きなあくびをした。続けてもうひとつ。
「ダメだ、めちゃくちゃ眠くなった」
そう言うがはやいか、腰掛けている私の横をすりぬけて、さっさとベッドにもぐりこんでしまった。ふとんを胸元まで引き上げると、私を見上げて「最後にひとつお願いが」とささやく。
「完全に寝るまで、ここにいてくれませんか?」
思わず顔をのぞきこむ。上から見下ろした哲人は、いつもより幼い気がした。
「結婚が破談になった女に対して、結構厚かましいですね」
「そうですよ。俺は好きな人には厚かましいんだ」
言い終えるころ、哲人はすでにまぶたを閉じていた。やがて寝息がもれ始める。それをしばらく眺めながら、哲人が「俺」と言った声を頭の中で繰り返し聞いていた。
家を出た。幹線道路もさすがに交通量が減っていて、オレンジ色のライトが静かに道を照らしていた。空車のタクシーが目の前を通り過ぎて行った。私は最寄りのコンビニでスキンケアセットと歯ブラシを買った。そしてまっすぐ仮住まいの家に戻り、狭いベッドにもぐりこんだ。
窓の外を車が走る音で目が覚めた。スマートフォンを見ると、10時を過ぎていた。ずいぶんよく寝てしまった。今日が土曜じゃなかったら、完全に遅刻だ。
体を起こすと、つられて哲人が寝返りを打ち、ゆっくりと目を覚ました。「おはようございます」と挨拶したけど、なぜ私がここにいるのか、すぐにはわからなかったらしい。ややあって、哲人は微笑んだ。無防備な子どもみたいに。
私はベッドに入ったまま1本電話をかけた。
「百合野と申します。先日お電話をした……。そうです。その件なんですけど、キャンセルのキャンセル、まだ可能ですか? はい、ええ、わかりました。お騒がせしてすみません。改めて、結婚式よろしくお願いいたします」
電話を切ると、哲人がまだ夢を見ているような顔で言った。
「正気ですか?」
「私も頭がおかしくなったのかもしれない」
ベッドに面した窓のカーテンを思い切り引っ張って、私は言った。
「だから結婚しましょう。頭がおかしい者同士で」
11月の澄んだ朝日が部屋を満たした。哲人は小さな声で、「確かに、それがいいですね」とつぶやいた。
「これから忙しいですよ。両親にも謝らなきゃ。さっそくですけど哲人さん、今日、家に来れますか?」
「もちろん。土下座で許してもらえるかな」
「なんだかんだいって、私に甘いから大丈夫。その前に、まずは朝ごはんでも食べに行きませんか?」
「はい、玲奈さんの言うとおりに」
私が伸ばした指先を、哲人が握る。バージンロードを歩くみたいに、ふたりで玄関へと向かう。
名字なんていくらでもくれてやる。かわりに私も、あなたからたくさんもらいうける。
私はきっと、哲人のそばで、天国も地獄も見るだろう。死ぬほど嬉しいことも、死んだほうがマシなくらいつらいことも、両方あるだろう。でも行き先はどこでもいい。どこであろうと一緒にいる。病めるときも健やかなるときも。
お読みいただきありがとうございました。連載を除くと、こちらは2年ぶりに書いた作品になります。
今回目指したのは、ずばり恋愛小説。今まで直球の恋愛ものは苦手意識が強かったのですが、自分自身が結婚したのも関係あるのか、ちゃんと真正面から恋愛小説が書きたいと思うようになり、ようやく実を結んだ形です。
恋愛のきれいで楽しい部分ももちろん好きなのですが、今回は焦がれる苦しさや、誰かを好きだからこそ感じる孤独やみじめさ、そういうものと向き合う大人の恋愛を書くのがテーマでした。となるとセックスも置いておくことはできず、自分なりになんとか書きました。「抱く」とか生まれて初めて書いたよ…今のところの精いっぱいです。
ぶっちゃけ哲人は相当面倒くさいタイプだと思うので、玲奈本当に結婚しちゃっていいのか!? と思わなくもないですが、パートナーとなるふたりの仲というのは本当に、当人たち以外にはわからない魔法のような結びつきがあるなと感じます。
執筆のメインBGMは、The Weekndのアルバム『Starboy』でした。
ダフトパンクとのコラボレーションでとても売れたので、耳にしたことがある方も多いかも。ギラギラしているのに都会の虚無を感じさせる音楽です。全体的にかなりメランコリックなのですが、ラストに希望を感じさせる「I Feel It Coming」という穏やかな曲があって、この流れが本作にもぴったりだと勝手に感じておりました。
The Weekndと同郷のR&Bデュオdvsnもよく聴きました。メロウでせつないR&Bが気分だったように思います。
またロンドン在住の日本人アーティストRina Sawayamaの「Alterlife」という曲も、「あるかもしれない別の人生」を歌う曲で、まるで哲人のことを歌っているみたいだなあと思って何度もリピートしました。
改めまして、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ご意見ご感想などお待ちしております。