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第5話

 クラクションが鳴った。すぐ後ろに、赤い小型のワゴン車がいた。運転席の窓が開き、「乗ってください。駅まで送りますから」と菜月が言った。哲人の姿はない。

「徒歩じゃ大変ですよ。兄は置いてきたから大丈夫」

 何を信じていいのかわからなかったけど、ひとりで帰る気力が残されていないのは間違いなかった。うながされるまま、力の入らない手で、なんとか助手席のドアを開けた。

 シートにもたれて、私はようやくゆっくり呼吸ができた。

「遠かったでしょう、ここ」

 前を向いてハンドルを切りながら、菜月が言った。それには返事をせず、私は「……置いてきて、よかったんですか」と尋ねる。

「大人なんだからタクシーでも呼びますよ。もしくは歩いて帰ればいい、あんなやつ。気にしなくていいのに、玲奈さんはやさしいですね」

 菜月は「だから、兄なんかにつけいれられるのかもしれないけど」と付け加えた。口ぶりはサバサバしたものだ。見た目は似ているのに、竹を割ったような性格は、哲人と正反対だと思った。


 その調子で、菜月は私に教えてくれた。哲人と5歳違いの彼女が6歳のとき、両親が離婚したこと。長男だからという理由で、父親が強硬に哲人を引き取ったらしいこと。母親は死ぬまで、「息子には会わない」という約束を守ったこと。

「私は幼かったから、両親の不仲って、そんなに覚えてないんです。片親になったけど、母は英語塾の先生をやってて収入もあったし、別れてむしろせいせいしてましたよ。でも、兄は苦労が多かったみたい。全部あとから聞いた話ですけどね」

「恨んでるっていうのは、お父さんのことを……?」

「それはもちろんだけど、母に対しても、見捨てられたって気持ちがあるんじゃないかと思う。それに、母に引き取られた私にも。私と兄が再会したのは、母のお通夜なんです。正直、最初は顔も思い出せなかったくらい」

「でも、すごく仲良しですよね」

 遠慮のないやり取りを思い出しながら言った。

「ここ数年で、ようやくですよ。私はこういうはっきりした性格ですけど、あの人、意外と人見知りが激しいから。血が繋がっているといえど、心を開いてもらうのには時間がかかりました」

 人見知り。私や両親の前では、そんな気配はみじんも見せなかった。哲人はいつも、爽やかで穏やかで、感じのいい好青年だった。親が妙齢の娘を結婚させたくなるのに、いかにもおあつらえ向きな。

 でも、あれはすべて演出されたものだったのだろうか。 

「だけど玲奈さんと結婚して名字を変えるって聞いたときは、ここまでヤバかったのかと思いましたよ。そんな結婚、誰も幸せにならない。我が兄ながらどうかしてる」

「……私のこと、バカだって思ってるでしょう?」

「いいえ。気の毒だとは感じてますけど」

 菜月は左手を助手席のダッシュボードに伸ばし、ポケットを開けた。そこには箱ティッシュが収まっていた。

「使ってください」

 私は目から溢れている涙をふいた。こんなときにおかしいけど、私はこの菜月という女の子のことが好きになりかけていた。この人が義理の妹になってくれたら、本当によかったのに。

 車が駅前のロータリーについた。

「玲奈さん、悪いのは全部うちの兄ですから、事故にでも遭ったと思ってさっさと忘れてください。入籍する前に気づいてよかったって」

 菜月が心から慰めてくれていることはよくわかった。だからこそ、余計に情けなかった。「念のため」とLINEの連絡先を交換することになったが、しばらくしたら消そうと思った。婚約解消の作業が、すべて終わったら。


 式場も貸衣装もハネムーンも引っ越しも、私が全部キャンセルの連絡を入れた。いろいろとウソの理由を考えていたけど、向こうも慣れたものなのか、キャンセル代の確認が済めば、あとは淡々としたやりとりで済んだ。それでも、私の社会人スキルはずいぶんあがったと思う。今後何に活かせるのかはさっぱりわからないけれど。

 ほとんどの契約は哲人の名義で行っていたから、サインやお金の請求はあっちに行く。そのことをLINEで事務的に連絡したら、半日経ってから【わかりました】と返事がきた。哲人とのコミュニケーションは、それきりだ。


 婚約破棄することを両親に伝えたときの彼らの動揺は、大変なものだった。大慌てで四方八方に手をまわして、キャンセルではなく延期という体裁になったけど、はたして無期延期とキャンセルでは、いったい何が違うというのだろう。

 父親はまったく信じられないといって、頭を抱えて、リビングのソファに沈み込んだ。

「何があったのか知らないが、結婚っていうのは、ワガママや気の迷いで気軽にキャンセルするようなものじゃないんだ」

「ワガママでも気の迷いでもありません。ちゃんと考えて決めたことよ」

「どれだけの人に迷惑がかかるのか、玲奈はわかっているのか?」

「それについては言い訳しない。払うべきお金は払うし、謝るべき人には謝る」

「須田君はなんて言ってるんだ」

「キャンセルしたことを伝えたら、わかったって連絡がきた。それだけ」

 これ以上説得するのが無理だと思ったのか、今度は母が懐柔作戦に出た。私の部屋にやってきてベッドに腰掛け、さも慈しみ深い母親のように、私の背中をさすりながら、「結婚を前に不安になってしまう気持ち、ママにもわかる」と語り始めた。

「知らない人と生活を始めるっていうのは、とても大変なことだからね。玲奈ちゃんは家から出たことがなかったし、こだわりが強いタイプだから、いろいろとナーバスになることもあるでしょう。でも、早まらないで。あなたは若いから、やさしい男性を物足りないって思うかもしれないけれど、女の人はやっぱり、自分を大事にしてくれる男の人と結婚するのが一番いいのよ」

 母親の発言があまりにも的外れなので、私はつい笑ってしまった。それがショックだったらしい。母親はひとしきり困惑したあと、「どうしてこんなことになっちゃったの」と言い残して部屋を出て行った。

 うろたえる両親の姿を見て、胸が痛まないわけでもなかった。それでも本当の理由についてだけは、口をつぐんでいた。


 友達のなかでは、哲人と共通の知人がいる岡ちゃんにだけ、事情を話すことにした。仕事終わりの焼き鳥屋で、墓地でのやりとりを聞き終えた岡ちゃんは、ホッピーのグラスを持ったまま絶句した。

「……なにそれ、キモい」

 彼女がようやく絞り出した言葉を聞いて、女友達に打ち明けてよかったと思った。

「キモいよね」

「うん、キモい。意味不明。一種のストーカーじゃん」

 ひとしきり悪口を言い合うと、鬱屈していた気分が少しラクになった。たまたま変な男に引っかかっちゃっただけ、気にすることないよと慰められていると、確かにそうかもしれないと思えた。むしろネタとして面白すぎる、SNSでバズるねなんて、冗談を言うこともできた。

 それでも、会話からふと意識がそれたときに思い出してしまう。ふたりで行った場所。名前を呼ぶ声の音。キスしたときの唇の湿度。腰を抱え込んだ強い腕の力。

 哲人の体温が忘れられない自分に気づくたび、絶望した。たった1回寝ただけだ、向こうはなんとも思っていない。面倒な処女を義務感で抱いただけだというのに、私はなにを勝手に意味を見出そうとしまっているのだろう。

「じつはさ、玲奈の結婚が決まったあと、例の哲人さんの友達の先輩に、哲人さんってどんな人ですか? って聞いたんだよね」

 もうお会計をしようという頃、岡ちゃんがきまり悪そうに切り出した。

「そしたら先輩、あいつはずっと結婚願望ないって言ってたからって、びっくりしてて。モテる割に彼女と長続きしたことなくて、『自分は結婚に向いてない』って言ってたから…って。そのときは、なのに玲奈と結婚することにしたなんて、いい話だなーくらいに思ってたんだけど。言えばよかった。ごめんね、玲奈」

「岡ちゃんは全然悪くないでしょ。いいよ、忘れて」

 瞼を伏せて、残りのウーロン茶をぐいとすすった。店員にお会計の合図をしたら、岡ちゃんが「いきなり変なこと言うけど、びっくりしないでね、玲奈」と前置きして続けた。

「あんた、綺麗になったよ」

「はぁ? 何言ってんの」

 思いがけない言葉に苦笑したが、彼女はいたって真面目な顔をしている。

「いや、マジでマジで。こないだ韓国料理屋で会ったときも綺麗になったなーって思ったけど、今日はもっとそう思った。垢抜けたというか、雰囲気が大人っぽくなったというか。だからさ、またすぐに、いい人に出会えると思うよ」

 

 店の前でバイバイして別れて、夜道を駅に向かって歩く。次第に笑みが消えていく。大きな音を立てて、冷たいビル風が吹いた。自分が世界一みじめな女であることをまた思い出した。

 今夜も家で、両親の視線を振り切って、ひとり毛布にくるまり、眠りが訪れるのを待つのだろう。朝がくれば現実を思い知らされながら、平気な顔をしてまた1日生き延びなければいけない。それを繰り返したら、いつかきれいさっぱり忘れることができるのだろうか。

 鞄の中でスマートフォンが震えた。最初の1週間は、何かを受信するたびに哲人からじゃないかと身構えていたが、今はすでに、機械的に画面を見られるようになっていた。

【突然すみません!今電話できますか?】

 哲人ではなかったけど、十分イレギュラーな人物からのメッセージが届いていた。菜月だった。反射的に通話マークをタップする。菜月はすぐに電話に出た。

「菜月です。ごめんなさい、遅い時間に」

「いえ、大丈夫です。私も一度連絡しようと思っていたところでした」

 ひととおりの手続きが終わったことを伝えると、「ちなみに、兄とはもう連絡を取ってないですよね?」と返事がかえってきた。

「はい、まったく」

「そうですか……。実はおとといから兄のLINEが既読にならなくて、電話も全然つながらなくて」

 心なしか、菜月が声をひそめた。

「こんなこと玲奈さんに言うのは筋違いだってわかってるんですけど、ほかに連絡できる人がいなくて。玲奈さん、薬のこと聞いたことありますか?」

「薬?」

 やっぱり黙ってたんですね、と菜月はため息をつく。

「兄、不眠症の気があって、心療内科で睡眠薬を処方してもらっているらしいんです。それで、ちょっと心配になっちゃって……。自暴自棄になったら何するかわからないタイプだから。人生に執着なさそうっていうか」

 確かめようにも住所を知らないのだと、菜月は言って電話を切った。


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