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第4話

 翌週の土曜日、私は家から1時間半ほどかけて、違う県の、今まで名前も知らなかった駅にいた。駅の前はロータリーになっていて、ドラッグストアやチェーンのコーヒーショップが並んでいる。どこにでもあるようなよくある駅だったけど、それだけに、よそ者が紛れ込んだ気分で落ち着かなかった。あと1時間弱で、ここに哲人と「菜月」が来る。

 駅の改札が見える位置のコンビニをみつけだし、コーヒーを買って、イートインスペースに陣取った。真横ではおじいさんがおでんを食べている。コーヒーにおでんの出汁のにおいが混ざりそうなのが気になったが、駅から見て死角なのはこの席しかない。


 一瞬だけ目にしたLINEのメッセージを、この1週間、何度も何度も繰り返し反芻していた。考えれば考えるほどわからなくなって、ずっと心ここにあらずだった。もちろん、哲人に直接聞くことなどできなかった。

 菜月は、いったい誰なのか。あんなメッセージを送ってくるということは、哲人と近しい人物だと考えて間違いない。元恋人が、まだ未練を持っていて、復縁を迫っている? でもそれなら、「復讐」とはどういう意味だろう。次に考えたのは、菜月がすでに結婚していて、彼女への復讐として、哲人が結婚するというストーリー。それなら私と急に結婚するという不可思議な話にも、筋は通る気がした。ただし、11時にこんな駅で待ち合わせてどこに行くのかがわからない。密会するためだけだとしたら、相当な念の入れようだ。

 私は苦笑した。あと1か月ちょっとで入籍を控えている男が、婚約者以外の女とふたりで会うなら、念を入れるのは当然かもしれない。哲人ならそのくらいはやりかねない。

 ショックは受けていたが、どこかで納得してもいた。裏があって当然だと思った。ずっと抱えていた疑念の答え合わせをするときがきたのだ。少なくともこうして追いかけている間は、自分のみじめさに泣かずに済む。


 腕時計の針が11時5分前を指していた。事前に乗換案内で調べたところによると、おそらく10時58分の電車で哲人は来る。空になった紙コップを握る指先が、カタカタと震えていることに気づいた。私は緊張しているらしかった。反対の手で押さえて、駅の入口に目を凝らす。

 まず哲人が現れた。グレーのロングコートに、黒のシャツと黒のズボンを合わせている。私は息を止めながらあたりを見回した。菜月らしき人影はない。そう思った時、哲人がこちらに向かって手をあげた。私の存在がバレたのかと思ったけど、そうではなかった。ロータリーに向かって立つ哲人の目の前に、赤い小型のワゴン車が止まる。自然な動作で哲人がそれに乗り込む。ここからでは運転手の顔まではわからないけど、髪型からいって、女だった。

 まさか菜月が車で来るなんて予想もしていなかった。私は慌ててカップをゴミ箱に押し込むと、コンビニを飛び出た。車はすでに走り出している。私はタクシー乗り場にのんびり停まっていた個人タクシーの後部ドアをドンドンと叩いた。開いたそばから転がるように乗り込む。

「あの赤い車、追いかけてください。付かず離れずの距離で」

 よほど珍しいオーダーだったのだろう、運転手が振り返った。

「お客さん、探偵かなにか?」

「婚約者の不貞を追っているんです」

「よしきた」と運転手は大きくうなずいてアクセルを踏んだ。すーっと加速して、開けた通りに出る。数十メートル先に、赤い車が確認できた。ほっと溜息をつく。

 知らない街を通り抜けながら、私はずっと赤い色を目で追いかけていた。今のところまっすぐ進んでいる。5分ほど走ったところで、運転手が声を出した。

「彼氏、あの車に乗ってるの? 女と一緒に?」

「たぶん」

「追っかけて、捕まえるの? それとも泳がして証拠だけつかむ?」

「……わかりません」

 ここまで来ておいて、その後のことを私は何も考えていなかった。ただ、何も知らないままでいるのだけは嫌だった。破滅なら破滅に、最後まで立ち会いたい。

「初犯?」

 浮気が初めてかどうかと尋ねているのだと聞いて、「そうですね」と答えた。心のなかで付け加える。私たち、出会って数か月で、キスもせずに結婚を決めたんです。だからそもそも、浮気とカウントしていいのかどうかもわからない。

「いろいろあるんだろうけど、もしお客さんが彼氏のことまだ好きなら、話し合ったほうがいいと思うよ。別れるのはすぐできるんだから」

 私が黙ったので、運転手ももう何も言わなかった。哲人たちの車が左折して、山道に入る。追いかけてこちらも曲がると、ほかの車はいなくなった。道幅がぐっと狭くなる。

「どうします? このまま行くと追いついちゃうよ」

「このへんって何があるんですか」

 タクシーは坂道を上っていた。周囲はぽつぽつと民家や畑があるだけで、デートの目的地とは考えづらい。哲人にハイキングの趣味があるとも聞いていない。

「行き先、エイコウエンじゃないかなぁ」

 運転手がつぶやく。赤い車が野ざらしの駐車場に停まった。永光苑という看板が目に入った。

「私、ここで降ります」

 駐車場の200mほど手前で降りる。運転手が、「よかったら帰りも呼んで」と、電話番号の入ったポケットティッシュをくれた。


 よく晴れていて、空気が乾燥している。すでに駐車場にふたりの姿はない。ここから件の永光苑までは、まだ歩かないといけないらしい。スニーカーで来ればよかったと思いながら、砂利の多い山道をそっと歩いた。ふたつに分かれた看板があった。「正面入り口」と「北口」。ふたりは正面から入るだろうと思って、私は北を選ぶ。うまくいけば、ふたりを遠目から確認できると思ったのだ。

 けもの道みたいな、道ともいえない道だった。周囲は背の高い木が生い茂っていて、今どこにいるのかが把握しづらい。やっぱり正面から行けばよかったかもと後悔し始めた頃、突然景色が開けた。私は息を呑む。目の前に広がっていたのは墓地だった。ここにきて、永光苑が墓苑の名前だとようやく気づいた。


 向こう側から歩いてくる人影があった。菜月だ。彼女は哲人と同じようにすらっとしていて、やはり黒っぽい服を着ていた。長い髪をうしろでひとつにまとめていて、美人だった。右手に花束を持っている。

 参拝者同士だと思ったのだろう、菜月が私に気づいて、さっと会釈した。私は突っ立ったままだ。桶と柄杓を持って追いついた哲人が、まず怪訝そうにしている菜月に気づき、それから私に気づいた。

 白昼夢のような沈黙があった。このまますべてが弾けて消えればいいのにと思った。

「知り合い?」

 菜月が口火を切って、後ろに立つ哲人に問いかけたが、哲人は私を見たまま動かない。

「哲人さんの婚約者の、百合野玲奈といいます」

 私の声は思ったよりしっかりと、落ち着いていた。正妻のプライド、という言葉がなぜか頭をよぎった。この期に及んで私はまだ強がっている。

 菜月はあからさまに驚いた顔をして、それから声を上げて笑った。

「墓地で修羅場なんて笑える。やっぱり、お母さんが見てるんじゃない? 変なことするのはやめろって」

 菜月はつかつかと私のほうに歩み寄って言った。

「私は百合野菜月です」

 彼女が名乗った名字に戸惑いを隠せずにいると、菜月は目の前にある小さなお墓を指差した。私の喉から「あっ」と声が漏れた。墓石には、百合野家と書かれている。

「母の命日なので、お墓参りに来たんです、兄と」

 哲人を見た。ようやく哲人は言葉を発した。

「両親が離婚して、僕は父親に、妹は母親に引き取られました。百合野は母方の名字です。このへんではかなり珍しい名前だから、親戚以外で百合野という人に会ったのは、玲奈さんが初めてだった」

 そんな説明が聞きたいわけではなかった。

「もしかして、それで、私に近づく気になったんですか? 名字が百合野だからってだけで?」

 初めて会ったとき、私の名前を聞いて、気にかけていた哲人。再会するまでの1年間のあいだに、哲人は転職した。父の会社と取引のある会社に。

「転職も、偶然じゃなくて、そのために?」

 哲人は黙っている。それが肯定を意味すると悟ったが、とてもじゃないけど信じられない話だった。

「でも、復讐ってどういうこと……」

 菜月が口を挟んだ。

「この人は、自分だけ父親に引き取られたことを、ずっと恨んでるんですよ。百合野哲人になれなかったことを」

「黙ってろよ。お前にはわからないだろ」

 菜月よりも私のほうがビクッとした。哲人がこんなふうに険のある言い方をするなんて。

「ただの名字なのにね」

 哲人ではなく私に向かって、彼女はため息をついた。まったくそのとおりだと思った。

「そういう問題じゃないんだ」

「じゃあ、私や私の両親をだまして結婚するのは、問題じゃないんですか?」

 目の前の男が何を考えているのか理解できなかった。ここには問題しかないというのに。哲人は表情を曇らせたが、ややあって口角をあげた。薄い微笑。私たちをたらし込んできた笑みだ。

「僕は、玲奈さんたちに嘘をついたことは、一度もないですよ」

 よくも、そんな詭弁を。混乱した心の中から、徐々に怒りの感情が浮き上がってきた。なんとか抑えて、冷静さを装う。

「こんな話、誰が聞いてもおかしい。名字のためだけに結婚だなんて。両親に言ったら、絶対に破談になる。哲人さんの仕事にだって、支障が出るんじゃないですか」

 哲人は切れ長の目を一度伏せてから、すっと私を見据えた。私が美しいと思う目。見つめられると呼吸ができなくなってしまう目。

「玲奈さんに、それができる?」

 息が止まるかと思った。ただし、屈辱で。

「最低」

 怒りのあまり体が震えた。つまり哲人は、私が彼に骨抜きにされていることを知っているから、自分のほうが立場が上だと自覚しているから、そう言ったのだ。

「頭がおかしい。死んでよ」

 吐き捨てて、私は元来た道へと駆け出した。なにも考えられなかった。自分の荒い息で、頭の中がいっぱいになる。墓地で発するべき言葉じゃなかったと気づいたのは、駐車場まで戻ってからだった。でももう遅い。

 山道をくだりながら、ようやくタクシーのことを思い出す。コートのポケットをまさぐると、ティッシュと一緒に、紙切れが出てきた。ブライダルエステのクーポン。

 死んだほうがマシだと思った。こんな、こんなひどい目に遭うくらいなら。


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