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第3話

 結婚を機に変わるなんて、ばかばかしいことだと思っていた。人生の一大事みたいに大騒ぎするようなことじゃない。だって私は仕方なく結婚するんだから。哲人も私もお互いを好きなわけじゃない。ただ結婚ということをしてみるだけだ。

 それでも、変わったことはあった。結婚式まであと2か月を切って、ウェディングドレスの小物合わせで、今日はひとりで貸衣装屋を訪れていた。ドレスの背中のジッパーをあげながら、例の店員が驚いた声をあげた。

「まあ、百合野さま、ダイエットされました? ウエストのサイズがずいぶん小さくなっていますよ。ドレス、ひとつ下のサイズに変えた方がよさそうですね」

 私は鏡に映る自分を見つめた。普段着だとあまり意識することはなかったけど、ドレスを着た私は、確かに以前よりずっとすらっとしていた。新居探しや家具の買い物でよく出歩いているからか、肌つやもよかった。

 今まで何度痩せようとしても失敗していたのに、変貌するときはこんなにもあっけないのか。

 帰り際に「うちと提携していて、お得な値段でキャンペーンやっているので」と手渡されたブライダルエステのクーポンを、私は大事に折ってコートのポケットに入れた。今までの私だったら、絶対に受け取りもしないはずだったものだ。

 

 店を出て、哲人と約束していたレストランへと向かう。人気のあるスペインバルの二号店だった。このあいだ、一緒に歩いていたときに通りかかって、ニューオープンという看板を見かけた。気になるとつぶやいたら、そのあと哲人がすぐに予約してくれたのだ。

 約束の時間きっかりに着くと、店の前に哲人が立っていた。私を認めると、「玲奈さん」と微笑む。

「寒いから、中で待っていてよかったのに」

「僕もちょうど着いたところです」

 中を窺うようにして、哲人はそっと入口のドアを開けた。哲人はごく自然に「予約の百合野です」と名乗った。

 土曜の夜だ。店は混雑していて、活気があった。街を歩いて冷えた体が、徐々に温まっていく。料理はどれもおいしかった。お通し代わりのピンチョス、生ハム盛り合わせ、白いんげんのサラダに、マッシュルームのアヒージョ。サングリアも甘くて飲みやすい。相変わらず普段の食事はあまり喉を通らないけど、適度に酔ってきたせいか、今夜は食が進んだ。哲人は生ビールのあと、グラスワインを飲んでいる。全体的に塩味が濃いからか、いつもよりグラスをあけるピッチが少しはやい。

「あ、トーレスのテンプラリーニョがある」

 ワインのメニューを見ながら哲人が言った。

「天ぷらがあるんですか?」

 スペインバルになぜそんなメニューがあるんだろうと思って聞き返したら、哲人が顔をくしゃっとさせて、いかにも楽しそうに笑った。

「テンプラリーニョ、赤ワインに使われるブドウの品種のことです。トーレスは、スペインの人気メーカーですね」

「哲人さん、詳しいんですね」

 自分の無知が恥ずかしかったけど、同時に哲人の珍しい笑顔を目にして、心臓がドキドキする。

「大学の卒業旅行がスペインだったんです。このワイン、バルセロナの居酒屋で飲んだ記憶があって、なつかしくなって」

「初めて聞きました」

「そういえば言ってなかったですね。僕らが初めて出会った結婚式にいたメンバーで行ったんですよ」

 初耳のことばかりだった。確かに出会ってから、私たちは当たり障りのない話ばかりしていた。哲人は自分のことを進んで話すタイプではなかったし、私もあえて知りすぎないようにしていた。一線を越えたくなかったからだ。言ってみれば、意地のようなものだと思う。でも、懐かしそうにスペインの話をする哲人を見て、今この瞬間、それがゆるやかにほどけていくのを感じた。

「私も飲みたいです、テンプラなんとか」

「え、大丈夫ですか?」

 私はお酒がそんなに強くない。哲人の前では、今までサワーやカクテルしか飲んでいなかった。

「そのワイン、ボトルしかないんでしょう? せっかく思い出のお酒なんだから、開けましょう」

 いつも気を遣われてばかりだから、このくらいは私がしたっていいだろう。哲人は私の意図を酌んだようで、「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って店員を呼んだ。


「玲奈さん、大丈夫ですか? 歩けますか?」

「へいき、へいきです」

 そう言ったそばから、私はふらついて転びそうになった。哲人に後ろから腰を支えられ、なんとか踏みとどまる始末だ。吐き気や頭痛はない。むしろ気分はふわふわと高揚しているが、足に力が入らない。

「ごめんなさい、飲ませすぎました」

「違います。自分が飲みたくて飲んだんです」

 哲人に申し訳なさそうにしてほしくなかった。実際、私が飲みたくて飲んだのだ。テンプラリーニョは少しスパイシーで、適度な重たさがあって、哲人が注文してくれた肉料理によく合った。飲めば飲むほど会話も弾んだから、キリのいいところやめるという選択肢はなかった。結局ボトルが空いたあと、別のグラスワインも追加で頼んだ。こんなにワインを飲んだのは初めてだった。

「タクシー止めてきます。家まで送ります」

「嫌です!」

 大きな声が出た。哲人が振り返る。こんな酩酊状態で帰ったら、両親が渋い顔をするのは目に見えていた。「嫁入り前の娘が何をやってるんだ」と小言を言われるのがオチだ。

「こんな状態を、親に見せたくないんです」

「でも」

「大丈夫です。駅のホームで休めば、治りますから。哲人さんは気にせず帰ってください」

 哲人が困っているのがわかった。自分でも、どうしてこんなに強情になるのかわからない。ただ、哲人が困っているのは嬉しかった。私のために困ってほしかった。

「わかりました。でも駅のホームじゃ風邪をひきます」

 目の前でタクシーが止まる。哲人が運転手に行き先を告げた。

「狭くて申し訳ないですけど、僕の家で休んでいってください」


 哲人の家は、大きな幹線道路脇の、グレーの8階建てのマンションの5階にあった。玄関にオートロックはない。いったいなんて事態になったんだろうと、他人事のように思った。よく考えたら、一人暮らしの男の家に入るのも、生まれて初めてだった。

 哲人はゆっくりと玄関ドアを開けた。まるで、中に誰かがいるみたいに。だが電気が点くと、もちろんそこは無人だった。

「ソファもなくてごめんなさい」と言って、哲人は部屋の奥にあるベッドを示した。言われるがままに私はベッドの端に腰かける。一息ついて、部屋を見回した。仕切りのないワンルームで、家具はベッドと小さいローテーブル、それにステンレスのシェルフくらい。本やパソコン、Wi-Fiルーター、クッション、仕事用の鞄、2リットルのペットボトルの入った段ボールといったものが、無造作に床に置かれていた。

 殺風景な部屋だった。哲人が冷蔵庫を開け、水をグラスに注ぐ。「散らかっているでしょう?」と言いながら私に手渡すと、自分は床に直接腰を下ろした。

「……ちょっとビックリしました。なんか、もっとおしゃれな部屋に住んでいるイメージだったから。間接照明がいっぱいあったりとか」

 哲人が笑った。

「全然。真っ暗にしないと寝られないタイプなんです。つまんない部屋ですよ」

 つまらない、というのとは少し違う気がした。哲人のセンスの良さは知っている。着ている服や、選んでくれるレストラン。気の遣い方。なのにこの家だけ引っ越したてのように放置されているのは、ただ寝るためだけの箱、と割り切っているのだろうか。

 新居を探しているときの、「どこでも、なんでもいい」という言葉を思い出した。あれは私へのポーズではなくて、案外本心だったのかもしれない。

「ここ、私以外の女の人も、来たことがあるんですか」

 沈黙があった。どう答えるべきか考えているのだろう。

「昔の恋人が、1度来たことがあります」

「付き合っていたのに、1度だけ?」

「こんな仮住まいみたいな家、落ち着かないって言われて」

 会ったこともない哲人の元彼女に、私は共感した。ふさわしい表現だと思った。

「その感想はすごくわかります。家に入るときも、なんか自分の家じゃないみたいにドアを開けていたし」

「え?」

 哲人が怪訝な顔をした。

「なんていうんだろう、ドアをおそるおそる開けてる感じ。向こう側に誰かいるみたいに。哲人さんのクセなんですか? お店でも、どこでも、いつもそうですよね」

 私は余計なことを言ってしまったらしい。哲人はしばらく黙ったあと、つぶやいた。

「言われるまで気がつかなかった。確かに、小さい頃からの習慣ですね。両親が言い合いをしている部屋を不用意に開けてしまわないために、子どもが身につけたなけなしの処世術を、ずっと引きずっているんです」

 小学生の時に両親が離婚したという話について、詳しくは聞いたことがなかった。でも、二度と母親と会っていないというくらいだから、それが平和な別れでなかったことくらい、誰にだってわかる。

「確かに、気分は仮住まいなんですよ。いつどこに暮らしていても」

 その声はいつもよりワントーン低かった。私が返事を探しているうちに、哲人はいつもの笑みをつくった。

「でも玲奈さんと結婚したら、やっと落ち着くんじゃないかという気がしています」

 哲人はさっきまでの会話がなかったかのように、「気分、どうですか? 落ち着いたようなら、タクシーを呼びます」と立ち上がった。彼の本心に一瞬触れかけたのに、また離れつつあることがわかった。いつの間にか、私の目から、つーっと涙がこぼれていた。哲人がそれに気づき、動きを止めた。

「私、怖いです」

 口にしてからようやく、自分の気持ちに気づいた。

「いろんなことがあっという間に決まって、想像もしてなかった方向に進んで。自分がこれからどうなっていくのかわからなくて、怖い」

 結婚という大きくて速い乗り物に、必死にしがみついて落とされないようにしているのに、顔だけは平気なふりをしている。それがこの数か月の私だった。

「結婚に愛や夢なんて求めてません。そんなの私なんかが望むのはおこがましいって思ってる。ただ、私を信用してほしい。私も信用していきたいから」

「玲奈さん」

 抱きしめられて、余計に涙が止まらなくなった。相手に求めるのと同じくらい、今夜は自分の本当の気持ちを言わなければダメだと思った。

「玲奈さんは、運命の相手ですよ」

 私は首を横に振った。そんなことがあるわけがない。そんな甘い言葉を素直に信じるほど馬鹿じゃない。でも同時に、死ぬほど嬉しかった。私は矛盾しすぎているのだろう。

「帰りたくない」

 自分がこんなことを言う日がくるとは思わなかった。哲人はうなずいて、キスをした。最初は軽く、次は深く。そしてふたりでゆっくりベッドに倒れた。


 キスも、それ以上のことも、生まれて初めてだった。たった一晩なのに、生まれて初めてのことが多すぎる。恥ずかしかったし、緊張したけど、嫌ではなかった。そして思っていたほどは別に痛くもなかった。

 明け方の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。私はベッドからそっと起き上がって、隣で眠る男を見た。起きているときと同じように、哲人の寝顔は静かだった。私の目から、また涙があふれてきた。

 私は哲人が好きだ。もう完全に認めざるをえない。もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。たぶん、きっとそうだった。私はこの人に恋をしているのだ。

 寝なおす気分にもならなくて、床に座ってぼーっとしていた。お店のバックヤードみたいに雑然とした部屋を見るともなく見ていたら、哲人が脱いだズボンが目に入った。ポケットから、スマートフォンがはみ出しそうになっている。

 画面を見ようと思ったわけではない。ただポケットに入れ直そうと手に取った途端、続けて2回振動した。こんな早朝にメッセージを着信したのだ。私の視界に文字が映り込んだ。


【来週土曜は、11時に××駅待ち合わせでお願いします】


 それだけなら、たとえ差出人が「菜月」という名前でも、特別変なLINEだとは思わなかったかもしれない。でもメッセージはこう続いていた。


【そのとき、結婚のこともう一回話したい。やっぱり考え直して。復讐みたいに結婚するなんて、間違ってる】



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