第2話
結婚式の準備と並行して、物件探しも行われた。ハネムーンから帰ってきたら、引っ越すことになる。今まで実家でしか暮らしたことがなかったので、家を出るイメージがわかない。なにより、哲人とふたりで暮らすなんてことが、いまだに全然信じられなかった。毎日朝起きたら哲人がいるなんて、想像しただけで吐きそうだ。
それでも、普通のデートと比べると、物件探しそのものはラクだった。哲人の意識が私ではなく、マンションに向いているから。
不動産屋の車に乗せられて、今日3軒目の物件に来ていた。ぼーっと連れられるままの私と違って、一人暮らし歴の長い哲人は営業マンの話をちゃんと聞きながら、トイレや物置の扉さえも、そっと丁寧に開けて中を見ていた。
大きな窓のあるLDKに案内される。いかにも家族向けマンションといったつくりだ。
「こちらリノベーションしたばかりでして、大変きれいなお部屋となっております。特にキッチンは広く取っておりまして、人気の対面式を採用しております」
「なるほど。収納はどうなっていますか?」
「上下に収納がございますので十分な広さかと思います。またちょっとしたパントリーもございまして……」
哲人は不動産営業マンの話を聞きながら、吊り戸棚を見上げていた。その横顔を、気づかれないようにそっと見る。
32歳という年齢にしては肌のきめが細かい。すっと切れ長の目。特別痩せているわけではないし、顔もけっして繊細なつくりというわけではないのに、どこかはかない印象があるのは、目の色素が少し薄いからだろうか。
本当に私と全然違う。美しい、とさえ思った。そんな自分に気づいて、心がザワつく。
「玲奈さんはどう思う?」
不意に哲人が振り返った。
「えっ?」
「キッチン。なにかイメージとかありますか?」
心の準備をしていなかったので、すぐに言葉が出てこない。そもそも私は台所なんて見ていなかった。
「やっぱりキッチンは奥様の場所ですから。こちらのキッチンですとお料理しながら、リビングにいる旦那様やお客様とお話しすることもできますし、将来お子様がお生まれになったら、お子様の様子を見られるので大変便利です」
営業マンが良かれとばかりに繰り広げた未来予想図に、心底ぞっとした。そんな家庭、私にふさわしいなんて思ってもいないくせに。
「…よくわからないです。正直、あんまり料理とかしたことないし」
事実だった。母親は張り切って私を知り合いの料理教室に通わせようとしていたけど、私は断固拒否していた。そんな、あからさまな花嫁修行みたいなこと。
「この人のほうが料理うまいと思いますよ。友達だって、呼んだって来てくれるかどうかわからない」
営業マンの笑顔が固まったのが見えた。哲人が悪いわけじゃないのに、つい当てつけみたいな口調になってしまう。あなたが結婚したいと言ってるのはこんな女なんだと、ゆさぶりたくなってしまう。ほら、やめるなら今だよ、と。
「僕もじつはカレーぐらいしかつくれなくて」
だけど哲人は、あくまで穏やかな口調だった。
「それでよければ、ふたりで毎日カレーパーティーしましょうか」
いたずらそうに目を細められて、私は思わず下を向いた。恥ずかしかった。自分が人を困らせるようなことを言ってしまったこと、そしてそれを上手に返されたこと。なにより、哲人の言葉を嬉しいと思ってしまったことが。
結局4軒回ったが、どこにも決められなかった。キャンペーン中だからと執拗に即契約を勧めてくる営業をやんわり断って不動産屋をあとにしたら、もうほとんど夜だった。
いつもなら食事をして帰るところだけど、「お疲れだと思うので、今日は帰りましょうか」と言ってきたのは哲人のほうだった。確かに私は終盤ほとんど黙っていた。疲れていたのは事実だけど、でもそれだけじゃなかった。最寄駅まで送ってもらいながら、私は言葉を探す。
「あの、なんか…今日物件決められなかったですけど、よかったですか。いろいろ回ってもらったのに、悪かった気がして」
「気にしなくていいですよ。営業はああやって言うのが常套句ですから」
もう30歳も手前だというのに、自分の社会人経験の低さをまざまざと感じた1日だった。結婚なんていう事態にならなければ、こんな気持ちは感じなかったかもしれないのに。
「玲奈さんが気に入る物件を気長に探しましょう」
その言葉は、気を遣ってくれているようで、どこか他人事のような響きがあった。それこそ、哲人が営業マンであるかのようだった。
「私だけじゃなくて、哲人さんの好みとか」
「僕は別にどこでも、なんでも大丈夫ですよ」
思わず言い返す。
「ありがたいけど、もっと自己主張もしてください」
だって結婚するんでしょう――という言葉をぐっと飲み込んで、私は哲人をにらんだ。哲人が私を見つめ返す。哲人のまなざしは静かだった。何を考えているのかわからない一瞬の空白のあと、彼は「そうですね」と微笑んだ。
電車が駅に着く。人の流れとともに、あっという間に改札へと着く。ここでお別れだけど、私はまだ言うべきことを言えてなかった。
「えっと、哲人さん」
「はい?」
涼しい顔でこちらを見られると、用意していた言葉が離散してしまいそうになる。
「あの、だから…えっと」
もごもごと動かして要領を得ない私の口元に、哲人は腰をかがめて自分の耳を近づけた。いつになく近くに来られて、私の頭はもう爆発しそうだ。
「今日、嫌なこと言ってすみませんでした」
やっと口に出した勢いで、もう一言を早口で伝える。
「私もカレー、練習します」
哲人は驚いた顔を隠さなかった。そのあと笑うかと思ったけど逆で、珍しく神妙な表情になった。怒らせてしまったのだろうか。身構えた私に、「玲奈さん」と声が降ってきて、次の瞬間そっと抱きしめられていた。何が起こったのかわからず、私はただ呆然としていた。
「おやすみなさい」
哲人はゆっくり離れると、ホームへと去っていった。
「改めて、玲奈、結婚おめでと~!!」
ニンニクが強く香る韓国料理屋で、私は女友達たちに囲まれていた。
「いや、まだ入籍したわけじゃないし…」という私のつぶやきを、「じゃあ、婚約おめでとう?」「どっちでもいいよー、この幸せ者!」といった声がかき消す。
「しかし、玲奈が一番乗りするとはね。マジで意外だよ」
生ビール片手にサービス品のキムチとナムルをほおばりながら、倫世が言う。「しかもイケメンと!」と岡ちゃんが続け、「めっちゃうらやましい~」と、結衣が頬杖をついた。
「別にそんないいもんじゃないよ」
私は控えめに答えた。お祝いに集まってくれたのはありがたかったけど、3人と私の間には、圧倒的なテンションの差があった。
海鮮チーズチヂミとトッポギが運ばれてきた。取り分けながら、「なに、マリッジブルー?」と岡ちゃんが訊いた。
「そもそもそれ以前の話っていうか…」
「なに、この期に及んでまだ旦那のこと怪しんでんの?」
旦那という響きにドキッとしつつも、私は「だって」と訴えた。
「変じゃない? 話がトントン拍子にいきすぎて、信用できないんだよね。私なんかに優しくしてくれて、気持ち悪いっていうか…。いつも気を遣ってくれるし、紳士的だし、欠点がなさすぎて怖いよ。見たかった展覧会のチケットをさりげなく手配してくるとか、なんでそこまでやるの!?って感じ。両親に対する態度もソツがなさすぎるし、ドレスも新居も文句ひとつもなく選ばせてくれるし、なんかもうとにかく現実味がなさすぎて、だまされてるとしか思えないんだよ」
3人は顔を見合わせた。ふーっとため息をついたあと、倫世が呆れた声を出した。
「何それ玲奈、ノロケ?」
3人がどっと笑う。私はひとりきょとんとして、みんなが爆笑するのを見ていた。
「え、私、本気で悩んでるんだけど」
「そんな贅沢な悩み、私も言ってみたい~!」
「ほんとだよね」
「玲奈がこんなこと言うようになるとはね」
私の訴えは、まったく届いていないようだった。また外国語の舞台に紛れ込んだような気分になった。もしくは、迷子かもしれない。つい先日まで独身同士で毒づきあっていた女友達の輪から、急に放り出されてしまった私。
「ねえ、旦那の写真ないの?」
「ないない! あるわけがない」
大慌てで否定したが、岡ちゃんが「あたし、見れるかも」とスマートフォンをいじりだした。岡ちゃんはこのなかで唯一、私と哲人が最初に出会った結婚式に同席していた。そう、もとはといえば、彼女が哲人の友人と知り合いだったことが始まりだった。
「確か先輩が写真あげてたんだよね」といって、岡ちゃんがFacebookの画面を差し出した。
新郎新婦のうしろに男が4人写っていて、右端に今より1年半分若い哲人がいた。目にした瞬間、心臓がギュッとなる。
「あっ、確かにいけめーん」
微笑む哲人は今とそんなに変わっていなかったが、ただやっぱり、どこかはかない感じがした。なにより笑顔なのに、心から笑っていないような感じがした。写真というフィルターを通してもそう見えるということは、私の前だけではなくて、常にそうなのか。もしそうだとしたら、それは喜んでいいことなのだろうか。それとも、私の勘違いなのだろうか。
「なんでずっと独身だったんだろうね」
「じつはバツイチとか?」
「元カノの話とか聞いたことないの?」
「え、私だったら結婚する男の昔の話とか知りたくない~」
哲人のことを考えている間、私以外の3人が、勝手に盛り上がっていた。
「ていうか玲奈、さっきから全然食べてないじゃん」
結衣が私の取り皿を見た。ほとんど手つかずのまま残っている。
哲人に駅で抱きしめられて以来、ずっと胸がつまっているような感覚だった。食べることに関してはこだわりが強い性質だったのに、私はこのところすっかり食が細くなっていた。私が弁解する前に、「結婚となると人は変わるねえ」と、みんなが笑った。