第1話
結婚に、愛や夢なんて必要ない。結婚なんて、しょせんは血や財産、そして戸籍上の名前のやり取りにすぎない。
だから私は結婚する。これはもう仕方のないことだ。
「百合野さま、とってもお綺麗ですね。よくお似合いです!」
貸衣装屋の女の店員が、甲高い声で褒めた。さっき試着室で、汗だくになりながら腹と背中の贅肉をコルセットに押し込め、なんとかウェディングドレスのジッパーをあげたくせに、よく言うものだ。
私は鏡に映る、花嫁姿の女を憮然と見つめる。太っていて、目がぎょろぎょろしていて、唇が分厚い。純白のドレスとは不釣り合いな見た目。こんな恰好で結婚式を挙げなければいけないなんて、この期に及んで冗談みたいに思える。
「新郎様、いかがですか?」
店員が振り返って、試着を待っていた男を見上げた。新婦と新郎を見比べて、心の中で、なんて不釣り合いなカップルだと思っているのだろう。
哲人は店員ではなく、私を見て微笑んだ。
「いいと思います。玲奈さんが着たいドレスを着るのが、一番ですから」
私はうつむいて、「これでいいです。とりあえず脱ぎます」と早口で言った。これ以上哲人の前で、間抜けな恰好をさらしていたくなかった。
あと4か月で結婚するというのに、私はまだ哲人に心を開いていない。でもきっと、彼だってそうだ。彼がやさしい言葉を口にしたり、気を遣ってくれるのも、うわべだけのものだと思う。私たちは、愛し合って結婚するわけではない。そもそも、ここまでの経緯からして不自然だったのだから。
最初に哲人と出会ったのは、大学時代の先輩の結婚式二次会だった。特に仲のいい間柄というわけではなく、同窓会も兼ねて友達に会えるから、というのが出席の理由だった。結婚式の二次会なんて、だいたいそんなものだと思う。
私たちは会場の奥に陣取って、取ってきたビュッフェの食事をつついていた。この手のパーティーの料理は少なめに用意されていることが多いから、先手必勝でたくさん取っておかないと食べそびれる。口の悪い女友達たちと、ドラマティックな演出について「よくやるよね」なんて言いながら、自分とは永遠に無縁だろう結婚式の様子を眺めていた。
「あれ、岡部ちゃんじゃん」
「えっ、齋藤さん、新郎新婦と知り合いだったんですか!?」
「新郎は大学の友達だよ! こんなところでつながるなんて、マジでびっくり」
「うそー、私もびっくりです」
一緒にいた友達のひとりが会社の先輩と出くわしたのを、ウェディングケーキを咀嚼しながら、私は黙って見つめていた。相手は、男が4人。こざっぱりしていて、場馴れしていそうで、いかにもリア充といった雰囲気だ。チャラいんだろうな、と人知れず毒づいた。
「そっちは、岡部ちゃんの友達?」
いつの間にか、私たちが紹介される流れになっていた。気が進まなかったけど、友達の顔を潰すわけにもいかなかったので、私はぺこりとお辞儀をする。
「百合野玲奈です」
こんなことをして、いったい何になるんだろう。皮肉な気持ちで顔をあげたら、すらっとした、整った薄顔の男と目があった。彼はじっと私を見ていた。
「綺麗な名前ですね」
私は反射的に、唇の右端をあげた。言われ慣れたセリフには、言い慣れた冗談で返すのが常だ。
「名前だけですけどね」
遠慮がちに周りが笑った。太っていて冴えない私の、鉄板の返しのはずだった。だけど、彼だけは笑わなかった。
「名前も含めて、あなたじゃないですか?」
私は押し黙った。空気が少し停滞したところで、別の男が言った。
「百合野さんって、もしかして百合野建設と関係あるの?」
「そうなんですよ。この子お嬢様で」
場を和ませようとしたのか、友達が口を開いた。あとは、よくある会話の流れだ。私自身は一切言葉を発しないまま、勝手にプロフィールを説明され、勝手に合点されていた。
次の出し物が始まったタイミングで、彼らは去っていった。最後にもう一度、あの男と目があった。何かを探しているみたいな目つきだった。
「あの人、イケメンだったね。玲奈のこと気にいったんじゃない?」
友達が耳元でささやく。
「まさか」
私は残りのウェディングケーキを口に詰め込む。
「なんか嘘くさくない? 誰にでもああいうこと言ってるって感じ」
モスコミュールでケーキを流し込みながら、あんなふうに言うなら、あの人自身はなんて名前だったんだろうかと、少しだけ考えていた。
それでも、そんな出来事はとうの昔に忘れていたのだ。だからこそ、父親に「ぜひ会わせたい人がいる」と言われて、しぶしぶ赴いたホテルのティールームに哲人がいたときも、はじめはピンとこなかった。
「もしかして、去年、パーティーで会いませんでしたか?」
須田哲人は、父親の取引先に半年前に転職してきて、一介の営業職であるにも関わらず、社長である父親とあっという間に顔見知りになり、仕事ぶりの良さで、大いに気に入られたそうだ。見た目がよく、長々とまわりくどい父親の話をじっくりと聞いてくれるような好青年で、おまけに32歳で独身ときたから、父親が私に紹介しようとするのは、当然の流れだったのだろう。
1年前の記憶が浮かび上がって驚いた顔をした私に、哲人は嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱりそうだ。百合野さんって、なかなかない名字だから、もしかしたらと思っていたんです」
笑うと目が細くなって、日本犬みたいに柔和な顔つきになった。それなのに、私の背中に悪寒が走った。理由はわからないけれど、この男は絶対に嘘をついている。
「そうなのか! こりゃ運命だな」
父親は嬉しそうに哲人の背中を叩いた。傍らで、母親もにこにこしている。コーヒーを持ってきた顔なじみの給仕係でさえ、なぜだか微笑んでいた。この給仕係は、もう何度も私のお見合いを見ているはずだ。いつもは神妙な顔をしているのに、今日に限ってどうしてそんな顔をするんだろうか。まるで、結婚することが決まっているみたいに。
その予感は当たっていた。あっという間に私と哲人は、両親曰く「お互いのことをよく知るため」という名目の、結婚を前提にしたデートを重ねる流れになっていた。
3回目のデートを終えて、疲れて帰ってきた私に、両親は嬉々として話しかけてくる。
「どうだった。須田くんとのデートは」
「別に」
「別にってことはないだろう」
確かに、私の答えは正確ではなかった。むしろ、その日も非の打ちどころがないデートだった。情報を極力小出しにしているはずの会話の端から、私が興味のある美術展を導き出し、チケットを取ってくれて、つかず離れずの距離で一緒に見たあと、美術館の近くの感じのいい和食屋で軽く食事をし、そつのない会話をして、紳士的に最寄駅まで送ってくれて、明日は月曜だからと早めに解散した。
毎回こんな感じだった。文句を言うような部分はないはずのに、彼とのデートの後、私はとても疲れた。一緒にいて丁重に扱われるほど、逃げ出したくなる。自然に手をつながれたときは、恥ずかしくて叫びだしてしまいそうだった。
「玲奈ちゃん、哲人さんのことどう思ってるの? ママたちは、今までで一番素敵な人ねって話しているのよ」
母親の表情には、生まれてこのかた男っ気のない28歳の一人娘を、なんとかして成婚させたいという思いが滲み出ていた。
「表面的な話をしてるだけ。向こうだって、結婚なんて本気じゃないと思うよ」
「でも順調に進んでるってことは、気に入ってくれてるんでしょう」
「パパの手前、いきなり断るのも悪いから、アリバイ的に何回か会っとこうってだけじゃない? じゃなきゃ好きこのんでデートなんかしないでしょ。私みたいな、デブでブスな女と」
母親の丁寧に描かれた眉毛が、みるみるうちにハの字になった。もとが華奢な体型なので、傷ついた少女みたいに見える。バツの悪さよりも、腹が立った。どうして私はこの人に似なかったんだろう。
「須田くんは、そういう男じゃないと思うぞ。本当に好青年だよ」
たかだか半年程度の付き合いのくせに、それも仕事上の関わりしかないはずなのに、父親が哲人に心酔しているのも気持ちが悪い。
「玲奈ちゃんには、きちんとした人と結婚して、幸せになってもらいたいの。玲奈ちゃんの理想が高いのは知ってるけど、こんなにいい人を逃したら、あとで後悔しますよ」
「別に理想が高いわけじゃないって」
「これまで、お医者さんや弁護士のお見合いを、何度もお断りしてきたじゃない」
とんちんかんなことを言う母親に、父親も加勢した。
「ママの言うとおりだよ。医者や弁護士に比べれば年収は低いかもしれないけど、かえって須田くんみたいな普通のサラリーマンのほうが、お前には合っていると思うんだ。やさしいし、変にプライドが高くないからな。百合野の名字になることも抵抗ないと言ってくれているし――」
もうそんな話までしているのか。あの男の抜け目のなさに眩暈がした。彼のスペックなら結婚相手なんてより取り見取りだろうに、あえて私を選んで、そのうえ名字まで変えていいなんて、そんな都合のいい話があるわけがない。納得する理由があるとしたら、父の会社や財産目当てとしか思えなかった。
「出会ってまだ2か月だよ。そんなにすぐ信用できない」
「結婚は縁だから、決まるときはあっという間にまとまるものよ」
お父さんとお母さんのときもそうだったのよと、何度も聞かされた話をまた繰り返された。30年も前のたまたまの成功事例を、唯一の正解かのように言い聞かせる両親の声を、私は心ここにあらずで聞いていた。それとも、何年経ったとしても、結婚とはそういうものなのだろうか。
ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。画面を見ると、哲人からLINEがきていた。
【今日はありがとうございました。おいしいお刺身、一緒に食べられてよかったです。お疲れのようだったので、今夜はゆっくり休んでください。来週また会えるのを楽しみにしています】
こちらに否定する隙を与えない、卑怯な文面だと思った。自分の部屋に引き上げながら、返信を考える。【こちらこそありがとうございました!】とでも書けばいいのだろうけど、つまらない女だと思われるのは癪だった。
あれこれ考えて、やっと【美術展のチケットありがとうございました。最後の絵が印象的でした。それでは】とだけ打って送信する。すぐに返信がきた。
【僕もあの絵、好きでした。青と緑の中間みたいな色が印象的で。
それでは本当におやすみなさい】
意外だった。私に合わせて、適当に見て回っただけだと思っていたから。
もう一言返すべきか、私はしばらく画面を見ていた。文字を入力しかけたけど結局やめて、携帯をベッドに放り投げた。
時間を稼いで結論を引き伸ばし、この縁談を自然消滅させよう。父方の祖母が倒れたのは、そう思っていた矢先のことだった。
とはいっても家の中で転んだだけで、特に目立った外傷はなかったが、高齢だから念のためということで、大学病院に検査入院した。そのお見舞いの場に、両親はさも当然のように哲人を呼んだ。哲人はいったん辞退したそうだが、最終的には私の隣に立っていた。
「まぁ、よかったわねえ玲奈ちゃん」
こちらが説明する前に、祖母は状況を理解したらしい。
「玲奈ちゃんは、私たちが甘やかしたせいで少しわがままに育ってしまって、幼いところもあるけれど、本当はやさしくて、可愛い孫娘なんですよ」
ベッドの上から、哲人の手を握り、満面の笑みで話す祖母を、両親も笑顔で見守っている。哲人は祖母の目線の髙さに腰を落とし、品のいい笑みを浮かべている。
なんだこの茶番は。
私ひとりが、外国語の舞台に紛れ込んだみたいだった。みんなの言動が理解できなくて、取り残されたまま、突っ立っている。
「百合野の家をよろしく頼みますね」
私たちを見送りながら、祖母はそう言った。
帰りの車の中で、私は一言も発しなかった。両親と哲人だけが、なごやかに会話していた。家の応接間まで帰ってきて、ようやく私は抗議の声をあげた。
「まだ何も決まってないのに、なんでお祖母ちゃんに紹介したの!」
両親は顔を見合わせ、「お祖母ちゃんも安心したいだろうと思って。実際大喜びだったじゃない」などと言う。私は角のソファに座っている哲人にも詰め寄った。
「須田さん、父の顔を立てることなんてないです。こんな茶番に付き合う必要ないですよ。結婚なんて本気で考えているわけじゃないですよね」
私が興奮するのに反比例して、哲人は冷静だった。
「僕は、そうなったら嬉しいなと思っています」
母親が「まあ、プロポーズ!」と悲鳴に近い叫び声をあげた。気が遠くなりそうなのをこらえながら、私はなんとか反論しようとする。
「いったい何のメリットがあって、私と結婚するんですか。須田さんなら、ほかにもいい相手はいっぱいいるでしょう。はっきり言って私には、うちのお金目当てとしか思えないです」
「失礼なことを言うんじゃない」
父緒が厳しい声を出したが、言いたいことはあふれて止まらない。
「だいたい、パパもママも、『幸せになってほしい』って言いながら、私の気持ちは無視なわけ?」
「もちろん玲奈ちゃんの幸せを一番に考えていますよ。ただ、結婚っていうのは、当人たちだけではわからないところもあるでしょう。最初はピンとこなくても、周囲が見立てたほうが、結局うまくいったりするの。須田さんと結婚してくれたら、パパもママも安心するわ」
「私が幼くてわがままだから、自分の人生を自分で決めることもできないっていうの?」
困った顔をする母親にかわって、父親が言う。
「一生このまま生きていくわけにはいかないだろう。ずっと実家暮らしで、なんでもママにやってもらって。パパとママが死んだらどうするつもりなんだ。年を取ってから後悔しても遅いんだぞ」
そんなことわかってる。だからって、哲人の前で言わなくてもいいのに。怒りと悔しさと恥ずかしさで、私は震えた。
助け船を出したのは、哲人だった。
「実は、今まで黙っていたことがあります。玲奈さんが僕に不信感を抱いているとしたら、それが関係しているかもしれません」
父親と母親と私、全員が静まり返って哲人を見た。哲人は一拍おいて語り始めた。
「僕が小学生の時に、両親が離婚しています。それ以来、父に引き取られて育ってきました」
「ご両親は確か、熊本にいらっしゃるって」
母親が口を挟む。
「高校生の時に、父は再婚しました。その相手が熊本出身です。父は定年退職したし、義母が自分の親の介護をしたいということもあり、4年前にふたりで移住したんです」
「実のお母様とは?」
「離婚以来会っていません。すでに癌で亡くなったそうです」
「まあ」という声とともに、母親はため息をこぼした。
「両親の離婚は、子どもの僕にはショックな出来事でした。父や義母に感謝はしていますが、彼らの前では感情を抑えてしまうというか、あまり子どもらしくなれませんでした。そのせいか32歳になった今でも、空気を読みすぎるようなところがあると思います。鋭い玲奈さんには、それが嘘っぽいと感じられるのかもしれません」
哲人がまっすぐに私を見据えたので、ドキッとしてしまう。
「でも、結婚したい気持ちは本当です。こんな僕だからこそ、百合野家に惹かれている気がします。今みたいに、家族が気持ちを素直にぶつけ合える姿、僕には憧れなんです」
哲人は目を細めて、少しさみしそうな笑顔をつくった。
その瞬間、両親が完璧に陥落したのがわかった。哲人がたとえ演技をしていたとしても、これ以上のプレゼンテーションがないことは認めざるをえない。哲人がたとえ、私のことを好きだとは一言も言っていないとしても。
こうして、私と哲人は婚約した。