あの星空が見えている
ひょんなことで足を怪我した「私」は、自分の膝がパカッと開くことに気づいて…そこから始まるおかしな世界のお話です。
先週まではまだ夏の暑さの名残があって、「暑い、暑い。」と言いながら冷凍庫の氷をコップの淵まで入れて、やっぱり冷蔵庫で冷やしておいたやかんで煮出したウーロン茶をごくごく飲んでいた。
まだ、しまえない半袖を着ていても、全くおかしくはなかったのだけれど、今はどうだろう。
少しでも冷えた風を入れようと、家中の窓を開け放っていたのに、今度は「寒い、寒い。」と裏起毛の厚手のトレーナーを着て、汗ひとつかかない乾いた顔で締め切った部屋に閉じこもっている。
そうしては、あの半袖を着ていた頃の自分がいかにアクティブに活動していたのか、自分のことながらも客観的に感心するのだった。
「もうさすがに着ないよね。」
そう判断した私は、湯気が上がる紅茶を飲みながらソファーに腰掛け、ひざ掛けの中に引っ込めていた体を出すと、思い立ったが吉日とばかりに衣替えを始めた。
最初は身に着けていた物をどんどんと「暖か仕様」の物に変えていく作業。
それが終わると今度は部屋のカバー類や布団などを、暖かい物に変えていった。
作業終わりに前のシーズンまで使っていた手袋やマフラーなどの小物の中に、ぼろぼろになったカバンを見つけた。
以前、仕事に行く際に使っていたもの。
「あれ?これ、棄ててなかったっけ?」
頭の中で独り言を呟きながら手に取ったそれの中身を、がさごそと確認し始めた。
もしかして、万が一、内ポケットの中などに小銭やまさかだけれど小さく畳んだお札などが入っているかもしれない。
そんなものを入れた記憶なんてまるでないにも関わらず、「ひょっとして…」なんて淡い期待をこめつつ「棄てるカバン」の中をよく見た。
結局入っていたのは、だいぶ前に見た映画の半券や、くしゃくしゃになって使い物にならない街頭でもらった使いかけのティッシュ、輪ゴム、コンビニのおにぎりをあける時の一番最初のあれなど、こちらが「入ってるかも?」と思っていたようなものは何一つなかった。
そうに決まっている。
ちょっとでも期待した私がバカだった。
カバンの中身を確認する前の自分の馬鹿さ加減に、自分でくすっと笑ってしまった。
穏やかな週末の午後だった。
残るのは靴の衣替えだけになった為、「よっこらしょ。」と年寄りくさく声を出して立ち上がるとひゅうっと血が下がるような感覚を覚えた。
急に立ち上がったことによる貧血みたいな感じだと思った。
そんな状態のまま、よろよろと玄関まで行くと、不意にあがりまちのところで履いている厚手の靴下の中で足が滑ると、あれよあれよという間に私はゆっくりと前かがみにこけた。
我が家の玄関は土間の部分とあがりまちの部分までの高低差が、そこそこある。
それが不便だとの理由で、引越してきて程なくの頃に近くのホームセンターにて石色の穴が3つ開いている重たいブロックを買ってきて、勝手にもう一段作ってあった。
前かがみにゆっくりと倒れこんだ私は、そのブロックの角に右のすねを強打した形で転げ落ちた。
「…っつう…ん…あ…いたたたたたた…」
あまりの激痛に始めは一瞬声が出なかったが、涙は自然にどんどん溢れ出た。
息を止めるように痛みを自覚しぶつけた部分をようやく見てみると、履いている長ズボンは破けていない。
けれども、そこにじんわりと血の染みが広がってきている。
「うわぁ…ああ…ん…うん…」
強い痛みに耐えながらも冷静さを失っちゃいけないと思いようやく立ち上がると、それに合わせたようにズボンに染み出ていた血がつーとくるぶし付近まで流れてきているのを感じた。
様子見に少しだけズボンの裾を太ももあたりの生地を引っ張って確認してみると、案の定靴下が徐々に赤く濡れてきているのがわかった。
強い痛みに負けることなく何とか風呂場まで移動すると、「いたたたたた…」と声をあげ涙を流しながらもゆっくり血がついたズボンや靴下をやっと脱いだ。
濡らしたタオルで切れた箇所から流れている血を拭き取ると、あまりの痛さに悲鳴をあげた。
そして、そこからはもう覚えていない。
「いたっ…いたたたたたた…」
体を動かした拍子に生じた怪我の痛みで目が覚めると、私はどうなったかまるで記憶がないにも関わらず、きちんと自分で傷口を手当し近所の整形外科に来ていた。
ここには随分前に突き指をした際に来たことがあるだけ。
後はたまに前を通りかかる程度の場所。
なので、中の様子なぞさほど覚えている訳でもなかった。
「えっ?あれっ?」
薄暗い待合室には患者さんが数人いるだけ。
受付を済ませたのかもわからず、私はただぼんやりと天井近くに配置してある大きな薄型テレビを見ていた。
国会中継の様子を映し出しているのを見ると、根拠もなく安心したのだった。
ふと自分の手に3桁の番号が書かれた紙が握られているのに気づいた。
219番。
どうやら私は219番らしい。
いつ受け付けしたのか、いやその前に脱衣所で倒れてからどうしたのか?
どうやってこの病院までやってきたのか?
何も覚えていなかった。
わかっているのは、足がやたらに痛いことぐらい。
それ以外、本当に何もわからなかった。
なかなか番号を呼ばれないままぼんやりしていたのだが、「痒い」と思って履いているゆったりしたズボンを膝ほどまで捲くり上げ、膝に爪をかけると膝の皿の下にあるはずの皺ではなく、何か僅かな隙間があることに気づいた。
「ん?えっ?」
頭をはっきりさせようと肩から斜めにかけた大きなキャンバス地のバッグからペットボトルのぬるいお茶を取り出すと、ごくりと飲んだ。
「…あ、このお茶…いつ買ったんだろ?…いやいやいや、それもそうだけど…何これ?隙間?」
もう一度爪をかけてみると、それはスマートフォンなどの後ろのカバーにあるような僅かな隙間。
けれども、スマートフォンのそれは、カバーを開けて中の電池などを取り替える時に必要なそれであって、私には特に必要ない。
というよりも、私は人間なのだから、そんな隙間みたいなものがあること事態おかしなことに決まっている。
脳内が若干パニック状態に陥ると、私は怪我をしている片方のズボンの裾を捲くり上げたまま、その「隙間」に爪をかけていた。
待合室でそんな風にしていると、後ろからいきなり番号を呼ばれた。
219番。
私の番号。
ハッとなって立ち上がろうとした瞬間、それまで爪をかけていた膝が不意に軽くなった。
「えっ?」
びっくりして慌てて見てみると、爪をかけたところから見えるこちら側に膝がパカッと開いたのだ。
「…?」
驚きすぎて声も出なかったがそうっと見てみると、ファンデーションのコンパクトのようにパカッと膝小僧が開いている。
だが、痛みも何もない。
そして、開いた膝の内側はこちらからはまるで見えない。
鏡でも使わない限り、こちら側から見えているのは丸い形の皮膚で覆われている膝。
それにしても訳がわからない。
けれども、何度も番号札の番号を呼ばれているので、急いで問診室まで行かなくてはならない。
私がパニックを起こしながらも慌てふためいていると、前方の廊下から待ちくたびれたように問診の看護士さんがこちらにやってきた。
「番号札219番の方ぁ~…」
少し苛立った様子の看護師さんは、「はい」と力なく手を上げた私に気づくとつかつかと傍にやってきた。
「219番の方?」
きつい口調の看護師さんにこくんと頷くだけで返し、私なりに必死にこの状況を説明しようと身振り手振りだけが先行している様子に気づくと、「ああ…まぁ、とりあえずこちらにどうぞ…」と言うとスタスタと廊下を戻って行ってしまった。
急いで立ち上がろうにもスネの怪我の痛みが邪魔をして、普段通りにすっと立ち上がれなかった。
そして、痛みが強すぎて勝手に涙もジャージャー出た。
問診室でようやく看護師さんとテーブルを挟んで椅子に腰掛けると、すぐさまあれこれ怪我をした状況を聞かれた。
私は覚えていることをできるだけ正確に伝えるのに必死で、さっき開いてしまった膝がまだパカパカと開いたまんまなことまで忘れてしまっていた。
冷たそうだった看護師さんは、本当は優しかった。
「…ああ、切れちゃったんだねぇ…痛そう…それに随分腫れちゃったねぇ…これじゃあ、痛いよねぇ…ぶつけたんでしょ?…ねぇ…痛いわ、これなら…。」
椅子からかがんで私のスネの傷を見ながら、看護師さんはそっと膝の蓋をパチンと閉めた。
「えっ?それは?」
脳内で叫ぶも実際の声は出なかった。
「…じゃあ…そうだねぇ…とりあえず、レントゲン撮ってから診察室で診てもらいますんで…どうぞ…あっ、立てる?大丈夫?…痛いだろうけど…ちょっと我慢しよっか…それとも、車椅子乗るかい?」
矢継ぎ早な看護師さんに「いえ、大丈夫です。」としか答えられなかった。
痛いには痛いけれど、車椅子の世話になるほどの怪我じゃない。
そう思った私は、一歩一歩がびりびりと激しい痛みを伴っても、何とか自力でどうにかやり過ごしたかった。
レントゲンの大きなガラスの台に乗る際、怪我のあまりの痛さに気絶しそうになった。
もう既に泣いている私を気の毒そうに見るレントゲン技師は、素早く作業を終わらせてくれた。
私はどうにも不思議で堪らなかった。
どうしてさっきの問診の看護師さんも、このレントゲン技師さんも私の膝がパカッと開くことに驚かないのだろう?
何事もないような普通の状態で接してくるのだろう?
私の体、どうなってるんだろう?
様々な疑問が次から次に湧いてきても、結局何もわからぬまま、流れ作業のようにそのまま診察室へ行った。
診察室でようやくお医者さんが私の疑問に答えてくれそうだった。
「こんにちはぁ…宜しくお願いします。」
「はい、こんにちは…え~と…じゃあ、まず怪我の…」
そう言いながら看護師さんと一緒に私の怪我を診てくれたのだが、その際、膝に爪を軽くかけたかと思うと先ほど私がそうしたように、お医者さんは普通にパカッと膝の蓋を開けた。
「…え~と…71年製かぁ…」
お医者さんは呟いている端から、開けた膝の中をいじりだした。
私は膝の中をいじられても、別に痛くも痒くもなかった。
それも不思議だった。
黙って腰掛けたまま、自分の怪我をしている足と医者をじっと見た。
こちら側からは見えない膝の蓋の向こうには、何かボタンなどがついているらしかった。
「…こ…れ…で…どうだろ?…どう?痛みは?…」
「あ、すごく痛いです…」
尋ねられたので、そのまま素直に返すと、私は頬を伝って流れていた涙をタオルハンカチで拭った。
「…ん~…そっかぁ…ん~…腫れもひいてないかぁ…熱も持ってるねぇ…う~ん…折れてはいないんだけどねぇ…ちょっと酷いねぇ、これは…じゃあ…申し訳ないんだけど…ここに行ってもらえるかい?痛み止めとか、そっちで出してもらうから…」
そう言って渡された紙には、この病院を起点とした簡単な地図が描かれてあった。
私の記憶が確かなら、この整形外科の調剤薬局は待合室の傍の出入り口から出てすぐ左隣にある。
だが、手渡された地図をじっくり見てみると、まず出入り口から全然違うのだった。
「どこに行けばいいんだろ?調剤薬局じゃないの?違うの?なんかやだなぁ…」
看護師さんに傷口部分の手当てをしてもらうと、私は会計を済ませて言われた地図の場所を目指した。
病院のいつもの出入り口ではない反対側にある扉は、薄暗くて長い廊下の先にあった。
看護師さんに包帯でぐるぐる巻きにされた足は、まだまだ酷く痛みを伴うので足を庇って引きずるようにゆっくりしか進むことができない。
片側の壁の手すりが、今の私にはとてつもなく頼もしかった。
片手に地図を持って重い扉を開けると、見えているそこは濃い霧に覆われた肌寒い場所。
怖い映画やドラマに出てくるような怪しげな雰囲気を醸し出していた。
「…何?ここ…ゆ…夢?…」
私は今のこの状態が、自分が見ている夢なんじゃないかと感じていた。
だが、だとして、このスネの怪我の激しい痛みはどうだろう?
痛すぎていちいちこぼれる涙は?
夢の中でこれほどまでにリアルな痛さがあるだろうか?
確かに膝がパカッと開いたり、おかしなことはあるにはあるのだけれど、だからといってこれが夢だとは到底思えないほどやっぱり傷は激しい痛みを伴い、それと共に勝手に両目から涙の粒がこぼれ落ちるのだった。
とりあえずはお医者さんに言われたとおりの場所に行かなくては。
私はここで突っ立ったまま、いつまでも「これは夢か?現実か?」なんてやっているほど暇ではなかった。
一刻も早くこんな薄気味悪い場所から抜け出して、自分の家に帰りたかった。
あの魔法使いに会いに行くお話では黄色いレンガの道を辿ればいいのだけれど、私の目の前に続く道は粘土質の土を踏み固めたような、そんな道だった。
扉から外に出てコンクリートの階段を数段、細くて冷たい手すりを使いながらゆっくり下りて行くと、後ろでバタンと大きな音を立てて重いさびがところどころに見える鉄製の扉がしまった。
「わっ!」
音に驚き振り返ると、たった今下りてきたばかりの階段上にあった戸は、この一体に垂れ込めている紫がかったグレーの濃い霧の中に消えてしまっているように見えた。
私はハッとして、すぐさま手すりを使って今下りたばかりの階段を数段上った。
だが、上っている感覚ははっきりしているにも関わらず、足元をよく見ると下りたばかりの地面に立っているのだった。
霧の中に両手を伸ばして探ってみるも、扉らしき何か硬いものは何もない。
ただの柔らかい霧の中だけ。
「あ~!しまったぁ…こんな場所から出るんじゃなかったぁ…ああ、どうしよう…もう、戻れないかぁ…だけど…これって…夢?何なの?一体?」
よく漫画なんかで見るように自分のほっぺたをつねろうとする前に、怪我をしているスネがずきずきと激しく痛み出した。
痛さに耐え切れず、すぐさま同時に涙がこぼれた。
足の痛みとその後にこぼれ出す涙はセットになっていた。
「夢…じゃないんだよね…でも…こんな場所…嘘でしょ?考えられない…」
私は今自分がおかれている状況が素直に飲み込めないでいた。
冷静になって考えれば考えるほど、教えられた病院の裏手がこんな現実離れしているとは。
自分だけじゃなく、誰だってこんな状況に陥ったならば、「頭がおかしくなったんだろうか?」なんて疑ってもみるはずだ。
だからといって、こんな場所にいつまでもいられる訳もなく、もう触ることも出来なくなった自分が来た扉から誰か新しい人が来る気配もまるでなかったので、まずは前に進むしかない。
「…とりあえず…歩こう…」
怪我した右足を庇うようなぎこちないまま、渡された地図の場所を目指してゆっくりと一歩一歩、歩き始めた。
進む道を縁取るように生えている草は、暗い緑色。
湿気を帯びた土のような匂いがずーっと漂っている。
前を見ても、霧が濃くてあまり先までははっきり見えない。
風がぴたりと止んだまま、不気味な空気がそこいら一体に漂っているだけ。
私の中に「不安」しかなくなるも、今は渡された紙に書かれた場所に行くことがいいのだと、自分自身にきつく言い聞かせた。
一歩、また一歩とゆっくりしか進めない。
その一歩を踏み出すにも、いちいちびりびりと電気が走ったような強い痛みが走った。
「あ~、杖でもあれば…」
そう思い道の周りを目を凝らして見てみるも、小石や枯れ葉が少し落ちている程度。
思い切って道を外れて、草むらに踏み出して杖になるような折れた枝でも探そうと一瞬過ぎった。
だが、すぐさま私の足は踏みとどまった。
こんなに霧が濃いのだ。
今、立っている道から外れたとして、そこが平らだとは限らない。
もしかすると、崖のような急斜面になっているかもしれないし、部外者が入らないようにと有刺鉄線などを用いた柵が続いているかもしれない。
そして、厄介なこの霧だ。
一旦見えている道から外れて、また元のこの道に辿りつける自信なぞまるでないし、そんな保証もない。
今、ここに立っていることだって、周りが霧だらけでよく見えない怖さでいっぱいなのに。
私は私なりにあれこれ考えた末、やはりここは杖を探す為だけにこの道を外れる訳にはいかないと判断した。
もう既にこんな訳のわからない場所なのだから、今のところ安全なこの道のあちら側の濃い霧の中に何か恐ろしいものが潜んでいないとも言い切れない。
そんな得体の知れないものに命の危険を脅かされるのであるならば、やはり医者に言われたとおり手渡された地図の場所を目指すのが得策だと思ったのだった。
幸い、まだ今のところ、この道の上は安全だ。
時折、立ち止まって休み、濃い霧の中でも周りに目を凝らしてみると、周りに薄っすら人の気配がする。
いや、人だけではない。
動物や虫などの気配も僅かに感じ取れる。
怖い怖いと思いつつ、痛む足を抱えて歩くのにどうしても杖が欲しいという欲求も出てきた。
「やっぱり…杖…」と思って道の端に寄ると、濃い霧の中に人の影のようなものがシルエットとしてちょっぴり見えた。
「誰かいませんかぁ?」
そう叫んでみても、「人」に見えた影からは何も反応はなかった。
「…木?かな?…にしては…なんか高さが変だよなぁ…木ってあんなに低いっけ?…ん~…あ、でもよそん家の生垣とかの木って、背の高さぐらいとかあるか…うん…しっかし、ここどこなんだろ?病院はあんな街の中にあるのに、裏がこんな…車の音もしないなんて…ありえないよなぁ…普通じゃないよ…ここ…」
立ち止まり不意に空を見上げた。
紫がかったグレーの霧の間に、薄っすら太陽みたいなレモン色の光る丸が見えている。
「あ、お日様…ん?あれ?」
よくよく見ると太陽らしき光る丸が二つある。
一つは大きめで、もう一つは小ぶり。
視界に入る間隔を置いて、並んでいる二つの光る丸。
明るさはほぼ同じのそれの一つ、大きいほうは見ようによって顔のように見える影があった。
「え?何?これ?…お日様…じゃないの?こわっ…こっち見てるみたい…こわっ!」
私の頭の中はこの事態を収拾できずにいた。
「やだ…けど、もう、いいや…別に…それより、薬局薬局…薬局に行こう!」
後戻りはできないこんなおかしな場所にいる自分。
どうにかして家に帰りたい。
いつもの見慣れた街に戻りたい。
そう願ったところで、ただこんな場所で黙って突っ立っているだけでは、何も解決しない。
だったら、言われた通りの地図の調剤薬局に、とっとと行けば戻れるはずだ。
やけくその気持ちが大きくなると、再び私は歩き始めた。
どうせ自分しかいないんだろうと半ば諦めていた時、前方に道の真ん中でうずくまっているおばあさんに出逢った。
「あっ!大丈夫ですか?」
痛む足を引きずるように駆け寄った私が声をかけると、ぴくっと体が少しだけ動きそのおばあさんがゆっくりと顔を上げた。
キリキリキリキリ。
おばあさんがいる辺りから、小さく機械的な音が聞こえてきた。
「ん?」
一瞬動作が止まってしまったが、私はすぐさま我に返って目の前のおばあさんに声をかけた。
「大丈夫ですか?…いたたたた…」
痛さを忘れて駆け寄ったのはいいものの、立ち止まるとやっぱり足の痛みがぶり返してきた。
「ありがとう、ご親切に…まぁ、あなたこそ、大丈夫?」
ほとんど白髪のおばあさんは、足を押さえて痛がっている私を逆に心配してくれた。
「あ、ええ…いたたた…まぁ、大丈夫…です…おばあさんこそ、大丈夫ですか?立てます?」
薄気味悪い場所で人に出逢えた嬉しさで、私は足の痛みも少しは我慢できた。
「ええ、ちょっと疲れてしまって…それよりも、あなた、足…痛そうねぇ…可哀想に…」
おばあさんは、私の片方だけ捲くり上げているズボンの裾から見えている、包帯がぐるぐるに巻かれた足を見てしみじみそう言っていた。
急に優しくされると、堪えていた涙がぽろんとこぼれ落ちた。
ぎゅっと歯を食いしばり、こくんと頷くしかできなかった。
足が腫れて痛さでしゃがめない私は、やむを得ず上半身だけ前のめりにかがむ形で立ったままおばあさんと話をした。
「…あの…あの…ですね…ここ…どこなんですか?わかります?病院で案内されて来たんですけど…普通じゃないから…ここ。」
私の問いにおばあさんはきょとんとした表情だった。
「えっ?…まぁ、そう…あなた…そうなの…」
待ってもおばあさんの口からはそれしか出なかった。
痺れを切らした私はおばあさんに一緒に行きませんかと誘ったものの、あっさり「…ありがとうねぇ…あたしはもうちょっとここで休むわ…だって、疲れちゃったんですもの。あたしに構わず、あなた、先においきなさい…あたしは大丈夫だから…気をつけてね。」と断られた。
「…わかりました…じゃあ、お先に失礼します…おばあさんも気をつけて下さいね。」
軽く会釈をした後、私は再び痛みを堪えて一歩ずつ歩き始めた。
力ない笑顔のおばあさんは地面に座り込んだまま、それでも私に手を振ってくれた。
その振っているおばあさんの手首から、細く黒い煙が上がっている。
気のせいか?
そう思って歩き始めた私の鼻に、焦げ臭い匂いが微かにした。
相変わらず霧は濃いまま。
そんなに歩いたつもりじゃなかったのだけれど、振り向くとあのおばあさんの姿はもう見えなかった。
私が辿ってきた道の後ろ側で、数匹の犬が息を弾ませ駆け寄り何か獲物を食いちぎっている、そんな感じの激しい音が聞こえてきた。
恐ろしい想像に駆られると、私の歩く速度はいくらか速くなった。
前に見た動物ドキュメンタリーのような音が止むと、今度は心和む小川のせせらぎのような水の音もする。
時々、ばさばさっと鳥の羽音のような音も聞こえてくる。
私は一人ぼっちで不安だった。
どうして自分だけがこんな目に遭うのだろう?
まるで自分がこの世の中で一番不幸な人間なんじゃないだろうかという気にもなった。
そして、あのおばあさんはあれからどうしただろうと思った。
もうどれぐらい歩いたのだろう?
目指す場所まであとどれくらいなんだろう?
時々立ち止まってバッグに入ってたぬるいお茶をちびちびのんで、休憩した。
立っている時間が長くなってくると、足の腫れが増してきているようだった。
じんじん、びりびりと痛みが全身を貫く。
一度、腰掛けるか横になりたい。
そう思っていると、立ち止まっている場所から少しだけ前方の道が、広くなっていることに気づいた。
私は「何だろう?」と思い、むくんできた足の痛みに耐えながらもそこまで進んでみた。
今までよりも若干、垂れ込めている霧が薄らいでいるように思える。
そして、明らかに広くなっている道の端には、自動販売機と分別用のゴミ箱、そして、背もたれがついているベンチと付いていないベンチがそれぞれ2つづつ配置されていた。
さほど歩いていないつもりだったが、ここは一旦ベンチに寝転んで痛みの原因である「足のむくみ」をどうにかしようと思った。
だが、その前にさっき飲みきってしまったペットボトルを棄てて、新しい飲み物を買おうとした。
遠目では普通となんら変わりない自動販売機だったが、近づいてよく見ると、売っている商品が「飲み物」だけではなかった。
上の方の段にはおにぎりやサンドウィッチ、たこ焼きなどの軽食、真ん中辺りの段にはスナック菓子や個別包装がなされている焼き菓子など、そして、下の方の段にやっとお茶やジュース、コーヒーといった類の飲み物が並べられてあった。
長い旅になるやもしれぬ。
地図上では近いように感じていても、なかなか到着しないところを見ると、まだまだ足を引きずったまま歩かなくてはいけないかもしれない。
私の中にそんな考えが及ぶと、飲み物の他に食べ物も用意しておこうという気持ちが芽生えた。
お財布を取り出し、いざ買おうとそれぞれの値段を確認すると、どれも「0円」となっていた。
「ん?えっ?どういうこと?…まさかぁ…え~っ!どれどれぇ…」
そう思うや否や、私の聞き手の右手の人差し指は、勝手に買おうとしている商品の番号を押していた。
ジー…ガゴン。
ゲームセンターにある機械のように、選んだ番号の冷たいミルクティーが受け取り場所に落ちてきた。
取っ手を引いて開けてみると、中にちゃんとミルクティー。
いつも近所のコンビニやスーパーで買うそれと同じメーカー。
訳のわからない場所に来て、こんがらがってた頭の中が、このミルクティーで少しは冷静になれた。
ちゃんと出てきた嬉しさに、私はバッグの中に入るだけの食べ物とあまり重くならない程度の飲み物を手に入れると、背もたれのないベンチで横になった。
ただ、体全体を横にしただけなのに、あんなに酷い足の痛みが薄らいでいくのがわかる。
根拠のない安心感に包まれると、私はちょっとだけ目をつぶった。
目が覚めたら、ちゃんといつもの世界に戻ってたらいいな。
心の中でそう願った。
どれぐらい目を閉じていたのだろう?
いつの間にか眠ってしまっていた私を起こしたのは、強烈な視線。
目を閉じていた私は、誰かにじっと見つめられている嫌な感覚に襲われると、耐え切れずハッと目を開けた。
「はっ!誰っ?」
足の怪我のことなぞ忘れ、がばっと起き上がると、私のすぐ傍でしゃがんだままじっとこちらを見つめてくる青白い顔の青年がいた。
なんだこいつ、気持ち悪い。
私は脳内でそんな言葉を吐いた。
「なっ…なんです…あ、いたたたたたた…」
今度はきちんと声に出してみた。
「日時計になるんですか?」
女の子のような声で青年が急に話しかけてきた。
「はっ?何言ってん…」
「だぁかぁらぁ~…日時計になるんですか?」
「あっ?何のこと?」
「日時計…知ってます?」
見知らぬ青年の馬鹿にしたような態度が気に食わなかった。
「お前っ…いったたたたたた…」
馬鹿にされた言い方に腹が立って胸ぐらを掴んでやろうかと思い立ち上がろうとすると、怪我の部分に耐えられないほどの激痛が走った。
「痛い、痛い。」言いながらベンチで体勢を整えると、青年はしゃがみこみこんだまま、私の怪我をした足をしげしげと凝視してきた。
「ちょっ…いたたたた…ちょっと…いたたた…何なんですか?あんた!いい加減にしろっ!あっちいけ!馬鹿野郎!」
ものすごく腹が立ったので無理は承知の上で怒鳴りつけると、青年は何事もなかったかのような無表情のまま、「足…これじゃ駄目か…」とだけ言い放つと、ふわっと立ち上がりスタスタと私が来た道の方へ行ってしまったのだった。
「何?あれ?失礼な…何?あいつ…日時計がどうたらこうたらって…馬鹿じゃないの?」
怒りが私を少しだけ元気にしてくれたのだった。
今起きた出来事に戸惑いながらも、私は自動販売機で手に入れたレタスサンドとミルクティーで腹ごしらえをした。
これだけおかしな状況の中にあれだけ怪しい自動販売機なのだから、毒が入っていたとしてもおかしくないとはわかっていたのだが、それでも私は何の疑いも持たずにそれらで腹を満たしたのだった。
足の痛みも感じる。
歩いたせいで腫れも酷くなり、熱も更に帯びてきた。
それでも、レタスサンドとミルクティーの美味しさもわかる。
ミルクティーはいい匂いがしていた。
立ち上がると涙も出て、この状況が夢の中ではないんだと理解できる。
だが、目に入ってくる情報が自分の常識を遥かに超えているせいで、私はやっぱり不安でしょうがなかった。
それでも、渡された地図の調剤薬局に着くまでは、何とか頑張って歩かなければ。
そう思うと、痛いながらも体は動いた。
広かったこの場所を過ぎると、道幅は最初と同じくらい、家の廊下ほどに戻っていた。
ただ、濃い霧が辺り一体立ち込めているだけだったはずが、いつの間にか程よい風が微かに吹いているのを感じてきた。
前髪が揺れている。
全身に柔らかな圧がかかっている。
歩いた振動でそうなっているのでないと、はっきりわかった。
風に流されるかのようにあれだけ濃かった霧が、少しづつ薄らいでいくのがわかった。
道の周りの景色が、だんだんと見えるようになっていったことに気づいた。
痛さを堪えて一歩また一歩と進んで行くと、視界の右側に森のような木々が見えてきた。
「森?林?」
木にしてはやけに低い。
だが、「低木」かもしれない。
そう思ってよーく目を凝らすと、それは両手を上に上げている人の形に見える。
「えっ?」
もう一度じっと集中して目を凝らすと、顔らしきものも胸や尻、足のようなカーブもある人の形の真っ黒い枯れ木が森になるように沢山あるではないか。
そして、気づけば辺り一体に今度は炭が燃えているような臭いがしている。
「うわぁああああああああ~~~!」
丸焦げの人間が立っているとしか思えないようなそれらに驚くと、私は怪我の足を庇うのを忘れその場に尻餅をついた。
どすん!
「あいたたたたたたた…」
地面から尾てい骨を伝ってビーンと痛みが走る。
それでも、まだ地面が粘土質の土のような素材だった為、足を怪我した時ほどの痛みはなかった。
「な、何、あれ…うわぁあああああ…」
驚きながら、私は反対側や自分の見える範囲の周りをよくよく見渡してみた。
全部が全部こちらを向いている沢山の人のような真っ黒い木々に驚くあまり、私は立ち上がることもできず地面を這い蹲った。
とにかく前へ。
その気持ちだけで四つん這いのまま必死に進んでいると、不意に腰の上に重さを感じた。
人が乗ったような重さ。
「いたたたたたっ…えっ?なんっ!何何何っ?」
咄嗟に地面から両手を放して起き上がろうとすると、後ろで声がした。
「おっとととと…」
「えっ?」
不意に腰が軽くなったので膝立ちのまま振り向くと、そこにはさっきのひょろひょろとした青白い顔の青年が立っていた。
「あれっ?椅子が喋った!」
青年の発言に私はムッとして、ゆっくり立ち上がった。
「何だって!失礼な!お前、誰だ!名を名乗れ!そして、謝れっ!」
怒りで爆発したのはいいが、まさか自分の口から時代劇のような台詞が出るなんて、露ほどにも思わなかった。
「…あははははは!怒った!怒った!…おっと、発車時刻に間に合わない…ははははははは…」
不敵な笑みを浮かべた青年はひょいと道の外に飛び出すと、膝丈ほどの草むらをさわさわと掻き分け黒い人の形をした木の間に設置されている大きな丸い時計スタンドの所で立ち止まった。
「あっ?何?あそこ…時計?…って、ちょっとぉ!待てぇ!こらぁ~!謝れぇ~!」
背の高い青年は、道のこちら側から叫ぶ私のことなぞ、まるで見えてもいない聞こえてもいないようだった。
するとすぐさま青年の目の前にどこから来たのかまるでわからない、薬のカプセル型の透明なものが出現したかと思うと、青年はどこが出入り口かわからないそれに乗り込んだ。
こちらを振り向きつり革に掴まると、その透明な乗り物はゆっくりと滑るように私の進行方向に向かって動き始めた。
にやにやと私をあざ笑うかのような表情を浮かべたまま、青年は私の行く方角を指差した。
それにつられてそちらを見ると、道幅が急にロータリーほどの広さになっており、そこにある大きな円の真ん中に立っているスーツを着た男性の姿があった。
「えっ?何?誰っ?」
新しい訳のわからない人物登場に、怖さと少しの好奇心を持った私は、道をゆっくり足を庇って歩きながら、そちらの方向をじっと見つめた。
霧がすっかり晴れたそこには、アイボリーの大きな円があった。
私はテレビや映画で見たことがある悪魔などを呼び出す魔方陣かと思った。
だが、よく見るとそれは大きな時計の文字盤。
円は黒く縁取られ、目盛りのように等間隔の黒い丸が時間を表示しているらしい。
その一つだけ「12」とアラビア数字で書かれていた。
そして、その真ん中に立っている男性は…さっきの薄気味悪い青年が言ってた「日時計」の針の役目をしているらしかった。
上空から差し込む光を受けた男性の影は、「12」とその左側の丸の間にあったので、私は今が11時過ぎなのだと知った。
病院を出てからバッグの中のスマホで時刻を確認しようとしても、表示が出なかったのだが、ここでようやく時刻がわかって少しだけ何故か安心したのだった。
本当はわかっている。
時刻がわかったところで、置かれている奇妙な状況は何も変わらないと。
それでも安心せずにはいられなかった。
普通のスーツ姿でごく普通のどこにでもいそうなその人は、病院の裏口から続いている道の真ん中を、足を引きずりながら歩いている私に気づくと上げていた片方の手を下ろし、こちらにニヤニヤと手招きしてきた。
笑顔の口元は「おいで!おいで!」と言っている。
だが、私には彼の声は全然聞こえてこなかった。
ゆっくりと歩きながらぼんやり彼を見つめていた私の脳裏に、青年が最初に言っていた台詞がふと過ぎった。
「日時計になるんですか?」
円の真ん中で幸せそうな笑顔を見せている男性に、ついつい引き寄せられかけていた私は道の端の草を半歩ほど踏んだ時、ハッとなった。
あの場所に行ってしまえば、今度は私が彼の代わりに針の役目をしなくちゃならないんじゃないだろうか?
きっとそうだ。
そうに違いない。
それで誘惑に負けて行ってしまったら、新しい人が来るまでずっとあそこで針をやっていなくちゃならないんだ。
嫌だ!
そんなの、絶対に嫌に決まっている。
あの人、可哀想だけど代わってあげられる訳ない。
こんなに足が痛いのに、あんな所でいつまでも立っていられる訳がない。
昔、何かで読んだか見たかした話を思い出すと、私は痛む足を庇いつつも先を急いだ。
何故か、どうにかして彼を助けてあげようという気は起きなかった。
見て見ぬフリ。
私の心が罪悪感で覆われてきたとしても、冷たいようだが今の状態では何もできないと判断したのだった。
「日時計」の円を右回りにぐるっと道なりに進んで行くと、元の道幅に戻っていたけれど、今度は水が薄っすら。
水が進行方向の先まで続いている。
そんな道になっていた。
深さが足首ほどなら、足が多少水に浸かろうが前進するのみと思っていたのだが、霧がすっかり消え去り周りの状況がちゃんと見渡せる今、歩いてきた道の淵の草から向こう側が全て水になっているとわかると、私はどうしようか困り立ち止まってしまった。
海の様に広がるラベンダー色の水。
岸となるこの場所から見えるところで、大きな鯨が水面に何頭も上がってきては激しい水しぶきをあげて水の中に戻っていく。
反対側には大きな柱ほどもある蝋燭を灯した小船が、何艘もゆらゆらと水面に浮かんでいる。
ここからでも青緑色の鯨の、ラメが入ったような白い部分の縞模様がはっきりと見えている。
「深い…んだ…」
一連の出来事でもうさほど動揺しなくなってきた私は、ただ呆然と鯨のダンスを眺めた。
それに飽きると今度は反対側の蝋燭船を眺めるのだが、そちらも何か変わったことがある訳でもなく、ただただ水に逆らうことなく浮かんでいるだけ。
水面に映っている空の色は薄い水色から黄色へと代わるグラデーション。
雲一つない空に、風だけが優しくそよそよと流れている。
「っつう…」
痛む怪我の足を静かに触ってみると、腫れが増してパンパンになっているのと同時に、熱を持って熱くなってきている。
更には、歩いて足を曲げ伸ばししている圧がかかったせいで、看護師が手当てしてくれた絆創膏から血が細く流れ出てきた。
「痛い!」
私の全身はそれしかなかった。
いっそこのままここで野たれ死んでも。
絶望感と脱力感に覆われて立ち尽くしていると、後ろの草むらにがさがさっと何かの気配がした。
「もう、いいや…このまま、何かに襲われて死んだとて、もう…いい…なんか、疲れちゃった…なんか…もう…ヤダ…」
ほろほろと涙が頬を伝った。
どれだけ泣いただろう?
泣きすぎて目も痛くなっていた。
バッ!
ただ立っているだけの私の目の前に、信じられないほどの大きな黒い猫が現れた。
「っ…」
驚きすぎると、声も出ないし、体も硬直するのだなぁと、私の脳内の冷静な部分がしみじみしていた。
建物かというほどの大きすぎる猫は、普通の音で優しげに啼いた。
にゃあ。
まっ黄色のビー玉みたいな目をした猫は、驚きすぎて硬直している私の腹辺りの匂いをくんくんと嗅ぎだした。
あまりの恐怖に思わず、おしっこを漏らして気を失うかと思った。
その一方でやけに冷静な脳内にいる私がすっかり諦めたように、「もういいや…どうせ、食べられるんでしょ…あ~、はいはい…」なんてぶつくさ呟いているのだった。
猫の息は魚臭い訳ではなく、むしろ爽やかな良い匂いだった。
私は静かに目を閉じて待った。
すると顔を始めとした全身に、吹雪のような強くて冷たい風が吹いてきた。
ほんの一瞬の出来事。
風がぴたりと収まると、聞こえていた鯨が水面に上がっては水中に戻る水しぶきの音も、猫の息も何も聞こえなくなり、辺りに静けさが広がっていた。
「…ん?あれ?…静かぁ…」
私は恐る恐るゆっくり目を開けてみた。
目の前にいたあの猫の口の中らしい、生々しいピンク色が視界に広がると、カーペットのような赤い舌が私の足元まで来ていた。
不意に顔を上げて上を見た。
真っ暗い黒の中に大きな黄色い目が二つ光っている。
口の中、喉の奥あたりは天気の良い日の昼間のような明るさが見えていた。
それと同時に、何とも表現しにくい優しい暖かさがほんわりと私を包み始めていた。
一瞬どうしようかと躊躇った。
私はハッと思い出すとすぐさま、手に掴んでいたくしゃくしゃになった紙を広げて見てみた。
描かれている地図の矢印は、真っ直ぐ目の前のカーペットを進んでいる。
「…えっ?ここ行くの?…」
振り向いても水面には相変わらず鯨のダンス、反対側には蝋燭船、今来たばかりの道の後ろにはあの「日時計」の男性がしつこくこちらに「おいで、おいで」をしている。
さっきまで透明なカプセルみたいな乗り物で、私の歩く道に並走していた青白い青年もいつの間にかいなくなっていた。
どうして自分はこんな目に遭っているのだろう。
そう考えると哀しさで胸が張り裂けそうになった。
こんなおかしな世界から抜け出したい。
では、どうすれば。
私の脳内は目まぐるしく考え始めた。
もう一度目を閉じて開けると、大きく深呼吸をした。
どうあがいてもどうしようもないのだったら。
だったら。
前に進むしかない。
両手を硬く握ると、痛みが強まってきている足を引きずるようにしながら、ゆっくりと目の前の赤い道を進んだ。
奥からほーと風が泣いている音がしている。
こんなのは洞窟なんかで聞こえるあの音と同じようだ。
これが本当に猫の口の中なんだろうか?
私は信じられないことの連続でもう何事にも動じない自信があったにも関わらず、今、まさに進み始めた先がただの生々しいピンク色だけれども、どこか無機質なキルティングの壁や、ベルベットのような風合いの床、そして、徐々に見え始めてきた奥の様子に口をあんぐり開けながら歩くしかなかった。
大きな猫の口の中をだいぶ進んだと思ったら、後ろから僅かに感じていた先ほどまでの外の空気がまるでなくなっていたことにようやく気がついた。
振り向くと、後ろは周りの壁と同じピンク色。
どうやら猫は口を閉じたのだ。
もう逃げようとしたって今辿ってきた外には逃げられないとわかると、私いっそう気を引き締めた。
きょろきょろと辺りを見渡すと、頭上は綺麗な夜空に覆われている。
「あれ?ここ、猫の中なのに…」
そう思いつつ、やっぱり見上げたそこにはあ夜空があり、あちこちで星が煌いているのが見えているのだった。
あまりにも美しい夜空に魅了され、何ともいえない安心感に包まれるといつの間にか歩くのを止めて立ち止まってしまっていた。
「わぁ~…綺麗だ…あっ!流れ星!…」
夜空を見ている今だけは、足の痛みも忘れ幸せな気持ちがいっぱいに膨らんだ。
私はもうこのままでいたいと思っていた。
が、しかし、そんな私の幸福感をぶち壊すように背中を強く叩かれた。
「いたっ…何するん…????」
いきなりぶたれた腹立たしさで振り向くと、そこに見たことがあるような年配の女性が立っていた。
痩せ細った小さい年配女性は、私と目が合うなり「あんたが悪いんだよ!」と言った。
「へ?何言って…」
「だからぁ~、こんな酷い怪我、あんたが注意してないから悪いんだ…普段からもっと気をつけて暮らさないから悪いんだ!」
何を言ってるんだ、この人。
私はきょとんとするばかりだった。
返す言葉を失っている私の、今度は二の腕辺りをばしばしと強くぶっ叩いてきた。
「いたっ…いたたた…ちょっ…ちょっと、何するんですか!痛いじゃないですか?」
女性から少し離れると、私は精一杯抗議した。
「あん?なんだ?お前!…何が痛いだ!お前が悪いからだろうが!」
眉間に深い皺を寄せた女性は、鬼の形相でこちらに怒鳴りつけてくる。
私は理不尽な態度に腹が立ったものの、これ以上関わりたくないと思い、痛む足を引きずるようにして女性からどんどんと離れて行った。
まだまだ「お前が悪い」の一点張りの女性は、じわじわと私を追いかけてきた。
だが、その歩みは想像以上にのろく、徐々に距離を離したところで振り向くと、まだ私に向かって「悪いのはお前だ!」と叫び続けていた女性は天井から静かに伸びてきた大きなノズルのような管に一瞬で吸い込まれていった。
「えっ?何?今の…やだやだ、怖い怖い怖い怖い…」
少し離れた場所で起きた出来事から逃げるように前を向き進むと、ポッと明るい場所が見えた。
病院の受付に似たカウンターがある。
私は出来る限り急いでそちらへ向かうと、そこが手渡された地図の場所だとわかった。
受付の若い女性は見るからに健康そうな人だった。
私はそのふくよかな女性に「あの…これ…」と紙を見せると、優しそうな笑顔で「はい、あ、わっかりました…あ、じゃあ、この前の廊下の左側の部屋のベッドで横になってお待ちください。」と促された。
ここにきて人の温かみが心に深く沁みた。
女性に教えてもらった通りの部屋へ向かうと、そこは懐かしい学校の保健室のような雰囲気だった。
「ああ…なんか和む…」
ホッと安心した気持ちの私は、女性に言われたとおり真っ白いカバーがかかっているベッドに仰向けで横になった。
ここまで歩いて腫れが増していた怪我の足は、体を横にしたことで随分楽になった。
白い壁の真ん中にある大きなすりガラスに、外の様子が薄っすら色だけで見えている。
日中の日向のような明るさの中に、何か黒っぽいものが大きくうねりながら右へ左へ移動している。
それが何なのか確かめたい気持ちはあるものの、今までの一連の流れを思い出すと絶対恐ろしい「何か」に決まっていると思うと、私はベッドで静かに横になっていることを選んだ。
「…はぁ…もう、やだ…こんな世界…早く足の怪我どうにかしてもらって、家に帰りたい…」
堪えていた涙がこぼれると、両耳が受け皿となって涙が溜まった。
ため息をつきつかの間の安心感に包まれ、涙を拭ってまん前の天井を見た。
真っ白い天井にはでこぼこと模様が彫刻のようになっている。
そこから白い液体が大きな雫となって、私の上に落ちてきた。
「わっ!」
両腕で顔を庇いつつ、それが何かを観察していると、白い液体は天井と私の間でひゅんと形を変えた。
人の形になったそれは、ベッドの真横でタタンと降り立つと「ふぅ~。」と声を上げた。
ため息のような声をあげたそれは、パッと立ち上がるともう普通の白衣を着たおじいさんになった。
「はぁ…やれやれ…どれ、あんた、足か?」
驚いている私に老人は急に声をかけてきた。
「あっ…ええ…はい…怪我してしまって…」
私の返事を待たずに老人は早速、膝の蓋をパカッと開けた。
「どれどれ…え~と…ふむふむ…ほ~う…お前さん、71年式かね…そうかそうか…ふむふむ…」
老人の問いにどう答えたらよいのかわからなかった。
だが、私の戸惑いなぞまるで無視した老人は、白衣のポケットから銀色の小さな工具を取り出すと、私の開いている膝の中を何やらいじりだした。
「ふむふむ…これは?どうじゃ?まだ、痛むかね?…」
私は老人が自分の膝をどうしているのかまるでわからなかったが、怪我の痛みだけはよくわかっていた。
「…あっ…まだっ…いっ…たたたた…」
「そうか…では…ここが…ああ、なるほどなるほど…ふむふむと…」
私は私の足を一生懸命直してくれているこの穏やかな老人なら、この不可解な状況を全て教えてくれるような気がした。
「…あの…あの…私の膝…というか…私の体…どうなってるんでしょうか?」
不意な問いかけに、老人の手が止まった。
「…はて?どういう意味じゃい?」
「あ…あのですね…私は人間なのに…どうして、こんな風に膝がパカッと開いたりするんでしょうか?これってどういうことなんでしょうか?どうぞ、お教えいただけないでしょうか?」
縋る思いだった。
「?はて?お前さん、おかしなことを聞いてくるのう…何?人間なのに膝がパカッと開くのがおかしいと?…」
「ええ…だって、私は人間なのに…」
「わははははは…人間?はははは…人間だとな?わははははは!」
急に老人が笑い出したので、私は腹が立った。
「なっ!何がおかしいんですかっ!この世界の方がよっぽどおかしいじゃないですかっ!ちゃんと答えてくださいよ!私は…私はどうしたらよいのか…」
伝えたい言葉は山ほどあるのに、私の口は一つしかない。
喉の奥で詰まった言葉は、もうそれ以上出てきやしなかった。
「わはははは…失礼、失礼…お前さんが奇妙なことを言うもんじゃから、つい…すまん、すまん…」
「…いえっ…いいんです…いいんです…もう…」
やっと出た言葉はそれ。
私の脳内はぐるぐる様々な言葉が渦巻いているだけで、口から出はしなかった。
「…お前さん…生きてるんじゃないのかい?」
「えっ?」
老人の質問は意表をついた。
「お前さん、生きてるんだろうて…だったら、別にいいじゃないか…違うかい?…足だって痛いんじゃろう?痛みを感じているってことは生きてるってことじゃろう?だったら、それ以上何が望みだね?…わはははは…少し難しいかね?…わははははは。」
私は老人の返しに、自分は何を望んでいたのだろうかわからなくなった。
人間?人間じゃないもの?
生きているのだから、それでいいじゃないか?
目の前に一瞬眩しい火花がはじけると、私の脳内で目まぐるしく病院からの記憶の回想が始まった。
それが何周か済むと、先ほど吸い込まれたあの年配女性の顔が思い出された。
あの人…
少し若いあの人は、何か私に向かって言っている。
キツイ口調で矢継ぎ早に、どんどんと私を追い詰めているようだ。
そうかと思うと、今度は目覚めた部屋の中にあの人がいない。
慌てて玄関に走って行くと、そこには私がお気に入りだった漫画のついた小さな靴。
私は何故かその靴を両手で抱えこむと、ドアを開けて外に飛び出して行った。
「お母さ~ん!お母さ~ん!お母さ~ん!お母さ~ん!…」
ハッと目を開けると、そこは先ほどまでの部屋ではなかった。
あのにこやかな老人の姿も見えない。
「あっ…足…痛くない…でも…」
気づくと瓦礫に挟まれていた。
というよりも、私はゴミとして棄てられてしまったようだ。
体を動かそうにも、私にはもう腕も足もないらしい。
見えているのはオレンジ色の空に夕闇が迫っているのだけ。
その真っ暗い闇の中に、猫の口の中で見とれたあの綺麗な星空。
頬に風の冷たさが当たる。
まだ、涙は出るようだ。
ああ、私はこれから何年、ここでこうしていたらいいのだろう。
「生きている」
あの老人の声が脳内で優しく響いている。
そうだ。
私は生きている。
生きている…だったら、それでいいじゃないか。
それ以上、何を望む?
生きている。
だったら…それで…いい…じゃ…ないか…
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。