5
「みぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ」
気持ちよく寝こけていた自由は、頬に痛みを感じて悲鳴を上げた。
「よく分からん叫び声を上げるな。子どもが起きるだろう」
「あれ……?」
ここでは聞かないはずの声を聞いたような、と自由は目を開き、ゆっくりと身を起こした。
日は沈んでしまったようだ。部屋の中は薄暗かった。
廊下から漏れる光が部屋に差していて、自由は布団の傍らにある人影が誰か識別することができた。
「……ノブ、なんでいんの?」
「お前のために貴重な時間を費やしてやった友人に対する言葉がそれか、自由」
眠っていた自由を抓って起こしたのは、義信だった。
相変わらずの自由の様子に呆れた顔を隠さず、いっそ冷ややかに言う。
「お前が勝手に動いたおかげで居場所がばれて、当初の予定が狂った。電話じゃ面倒臭くなったからわざわざ来てやったんだ」
「それは……どうも。隠れ家の件でもお世話になりまして……」
「全くだ。分かったら起きろ。夕食だ」
「確かに、いい匂いが……。っと、」
食事の言葉に自由は立ち上がろうとしたが、足が思ったように持ち上がらず、つんのめった。
「何やってんだ」
「何か引っかかって……」
足元を見た自由は、沈黙した。
いまだ眠りにある功居が、自由の右足に抱きついて、というかへばりついていたのだ。
「随分懐かれてるようじゃないか」
「そうみたいね……」
夕食ならば、功居も起こした方が良いだろう。
少年を起こそうと手を伸ばした自由に、義信は問いかけた。
「……その子に力を使ったのか」
自由はひやり、として動きを止めた。
「図星だな。今この状況でケーキを作ってやったわけでもないお前に子どもが懐くわけがない。パティシエの才能を抜いてお前に残るのはそれぐらいだ」
「ひ、ひどいなー……」
「力を使うな。俺も由実ちゃんも散々言っているのに、どうしてお前は無暗に使う。身勝手にも程がある」
「いや、でもね」
「反論できるのか」
鋭く言い放った義信に、自由は言葉を返せなかった。
「また白髪が増えたぞ、お前。自分でも分かっているだろう」
「……ノブ、」
自由は困ったように、笑ったような表情を見せた。
「いつまでも由実ちゃんにだって隠してはおけない。力を使い続けるならな」
「……でも、お前がいるだろ?」
その一言に、義信はさっと表情を険しくした。
「お前――」
義信が言いかけた時だ。
自由はぐいと足を引っ張られて、再び布団に沈まされた。
「い、功居くんー」
布団がクッションになってくれたとはいえ、顔面を打った自由は情けない声を出した。
義信は、由実とよく似た溜め息を吐く。
結局、どうしても起きようとしない功居を自由の足から引きはがして、二人は夕食をご馳走になることになった。
夕食後、風呂まで借りてから、三人は居枝にリビングを借りて顔を揃えた。
「とりあえず、居枝さんに聞いて二人とも大体事情は把握しているようだが、俺の方からも報告しておく」
由実は真剣な顔で頷いたが、自由は呑気に茶を啜って、一人のんびりした空気を醸し出している。
「やっぱり居枝さんの淹れたお茶旨いねー」
「それは認めるが話は聞けよ。お前のことだぞ」
義信は自由の耳たぶを引っ張って、痛がる自由に冷たい視線を注いだ。
「自由の力を狙ったのはこの辺りをシマにするヤクザだ」
そう言って、義信は居枝が語ったことをもう少し詳細にして説明する。
「と言っても、組長が組員に命じているというわけではなく、若頭を中心とする一部の幹部が勝手に動いているようだ。少なくとも自由の力について、下っ端は何も知らないだろう。とにかくお前を無傷で捕まえろと、それだけ指示を受けて動いてる」
それをどうやって掴んだのだろうか、と由実は色々と恐い想像をしてしまって聞けなかった。
「ヤクザがお前の力を欲したのは単純明快、助けたい人間がいたからだ。組長の孫娘麻耶。麻耶の両親は既に他界していて、他に親戚がいないわけじゃないが組長と近い血縁関係を持つのは麻耶だけだ。麻耶はしかし、遺伝性の疾患を持ち、医者から長くは生きられないだろうと言われていた。組長は孫娘を溺愛していて、多くの医者に麻耶を見せたがどの医者も首を横に振るばかり。最近の麻耶は病状が悪化してずっと伏せっているようだが、それと同じくして組長も――こっちは年齢もあるが、どちらかと言うと精神的な問題だな――弱っていて、もし麻耶が亡くなれば組長も長くは持つまいと言われている。組長は懐が広い人物として部下に慕われているようだな。それで若頭たちは麻耶を助けようと藁にも縋る思いでいるというわけだ」
「こんな、藁以下の人間に縋ったって何にも良いことないのに……」
「全くだ」
二人にぐざりぐさりと言葉で刺されて、自由はひとり静かに沈んだ。
そんな自由を気に掛けることなく、二人は会話を続ける。
「……それで、ヤクザさんは、一体どこから自由の力のことを? やっぱりどこかで見られちゃったんでしょうか……」
「それが問題だ。単にこいつの失態か、どこかで漏れたのか……、そして幹部のどこまでが既に知ってしまっているのか。それだけは正確な所を突きとめて、今後こういうことがないように対策を練る必要がある。だから――明日にでも、俺は一度相手のところに足を運ぶつもりだ。そこで自由の力の使用は諦めさせ、不明な点を明確にして今後に活かす。それで相手ときっぱり縁を切ればそれで終わりだ」
「ノブさんが直接行くの……!? そんなの、危ないんじゃ……!」
「大丈夫。幸いなことに、相手は弱小だった。俺で対処しきれない相手じゃない。手を引かせるのに難しいことはないよ。自由の勝手な行動のせいで多少目算は狂ったが、手を引くよう圧力をかけられるように、既に準備は整えてあるし、問題はない」
義信の、その落ち着いた言葉に虚勢はなく、淡々とした様子に気負いもない。
「――ノブさんが大丈夫なら、ノブさんが対処してくれるのが一番確実だろうし、ありがたいですけど……」
それは由実の本心で、義信の言葉にほっと安堵を覚えたのも本当だ。
けれど、顔も合わせたことのない少女が病に苦しんでいるのを想像すると、由実はいたたまれなくなる。
自由と由実の母も、病気で亡くなった。
失いたくなど、なかった。決して。
だから、分かってしまうのだ。彼らが、自由の力を知り、それを欲する気持ちは、誰よりも、痛いほどに。
けれどそれでも、その母の意志が、自由に力を使わせないことなのだ。
母が望んだことを、守る。
由実はその意志を揺るがせまいとするように、膝の上できつく拳を握った。
だが――、その由実の決意も虚しく、自由はこう口にするのだ。
「ノブ、明日ヤクザさんとこ行くんなら、俺も行っていい? 功居くんも行くだろうし、麻耶ちゃんのお見舞いをしたいかなーなんて思うんだけど」
「はぁ!? 何言ってるの!?」
思わずがたん、と立ち上がって、由実は自由を責めた。
義信も責める瞳で自由を見つめている。
「せっかくノブさんが何事もなかったように終わらせようとしてくれてるのに、自分からノコノコお見舞いに行くとか、馬鹿じゃないの!?」
「まァ、俺は馬鹿だけどねー」
はははと笑って、自由は由実の怒りを受け流した。
「何事もなかったように終わらせられなそうだしねー」
自由の言葉に由実は虚を突かれ、怒りを削がれた。
「そういうわけで、明日一緒にヤクザの本拠地に乗り込むかー」
「お前と心中しに行くようで嫌だがなその言い方は。……全くお前は、計算を狂わすことばかり」
小言を口にしながらも諦めた声で、義信は手元の茶を飲んだ。
明日、自由をどこかに縛り付けて監禁して行ってもいいのだが、今後二十四時間監視を付けるのでもない限り、家に戻れた後で自由が勝手に行くこともできる。それならば、目の届く場所でそうされた方がまだましだった。
「由実も行く?」
「私は……、行かないわよっ。行くわけないでしょ! もう、先に寝るからね!」
まだ時間は早かったが、由実はそう宣言した。
「寝るの? じゃあ私の部屋に妹さんの布団は敷いておいたから」
「ありがとうございますっ」
ずんずんと由実は居枝に示された部屋に入って行ってしまった。
「……いつの間に宿泊することまで決まっていたのやら」
「まぁ、居枝さんに迷惑にならないならいいんじゃないか。布団をもう用意してあったってことは、居枝さんもそのつもりだったんだろ」
「居枝さんねー。肝が据わってるって言うか、かっこいい人だよね」
「そうだな」
「少し母さんに似てるし……」
ぼそりと呟いて、自由は立ち上がった。
「俺も寝るわ。お前は?」
「俺はまだしばらく仕事をする。おやすみ」
「おやすみー」
ノートパソコンを取り出して難しい顔になる親友にぷらぷらと手を振って、自由はテレビを見ている居枝の方に寄って行った。
「すみません、俺もまたお布団借ります」
「はいはい。最近の若者たちなのに寝るのがやけに早いわね。じゃあ、功居の様子を見に私も上に行きますか」
居枝はテレビの電源を消すと、自由を伴って二階の功居が眠る部屋へ向かう。
広い部屋に敷かれた布団の上で、功居はまだ眠っていた。
その隣に、先ほどまで自由が眠っていた布団、さらには義信のための布団がその隣に準備されている。
居枝は功居の枕元に膝を付くと、布団をきちんと直してやった。
自由はいそいそとその隣で布団に足を突っ込む。
「自由くん」
そこで、居枝は初めて自由の名を呼んだ。
「はい?」
「この子の力、怖いと思った?」
「はァ……、怖いっていうよりはすごいって思いましたね」
特に考えず、自由は率直な感想を述べた。
居枝は苦笑する。
「この子、自由くんが寝てから一度起きたのよ。少しだけだったけど。隣に君がいるのを見て、驚いて、それからすごく感動したみたいだった。それで、君の足に抱きついたの。自分の力を見ても、あなたが平然と隣で寝ていたから、嬉しかったのね」
「……」
自由は居枝の慈しむような横顔を見つめた。
――母さん……。
母を思い出して、自由は居枝から目を逸らせなくなる。
「何がどうなるか分からないけど、よかったら功居と仲良くしてやって」
「……はい」
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ぱちりと電気が消されて、自由は布団の中に潜り込んだ。
目を閉じると、昼間寝たにもかかわらず、すぐに眠りは訪れた。