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「何かもう頭痛くなってきちゃった……」
こめかみの辺りを抑えながら、由実は顔を顰めて呟く。
自由と由実は、公園で出会った少年功居の母に招かれ、彼らの家にお邪魔していた。
道すがら名乗り合ったところによると、功居少年の母親の名は居枝。
功居をベッドに寝かせた彼女は、今はキッチンで二人に茶を淹れてくれているところだ。
「大丈夫か?」
「誰のせいだと思ってるのよ」
由実はソファで隣に座る兄を恨みがましく睨みつける。
公園からここに至るまでの間に急いで連絡をつけた義信は、携帯電話の向こうで大丈夫だと言ってくれたが、一体事がどう転がるか分からず、由実は不安だった。
先ほどの男たちには二人が近辺に潜んでいると知られてしまったから、目覚めた彼らはそのことを仲間に話すだろうし、そうすれば追っ手はこの付近を徹底的に探すだろう。
むしろ少年のことを知っているようだった彼らの様子を見るに、すぐにでも彼らはここにやってきて自由の力を強要するかもしれない――。
はぁぁ、と由実は深く溜め息を吐いた。
それを聞いてか聞かずか、自由がソファに寛ぎ由実が溜め息を吐くリビングに、茶を淹れた湯呑みを持って居枝が戻ってくる。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ことり、と目の前にカップが置かれて、由実は姿勢を正した。
――毒、なんて入ってないわよね……。
疑い深くなっている由実は手を付けるかどうか迷ったが、兄の方には迷いなどなかった。
「良い香りですねェ」
「そうでしょう。最近はまっちゃってて。妹さんも、嫌いじゃないといいんだけど」
ほのぼのと居枝と笑い合って、茶を啜っている。
居枝が出してくれたのは、ジャスミンティーだった。
兄が平然とそれを飲んでいるのを見て、諦めて由実もカップに手をつける。
ふわり、と漂ってきた香りに、由実の表情も和らいだ。
確かに、良い香りだ。
飲み口も爽やかで、とても清々しい。
「ジャスミンティーか……、これはこれで色んなお菓子に合いそうだよなァ……。オーソドックスにゴマ餡の団子とかもいいけど、クッキーにも普通に合いそう……。作りたいなァ」
「お兄さんの方はお菓子なんてつくるの?」
「一応……、これでも店持ってる身なんで」
「え、あっ、もしかしてあそこ? あのFreeっていうお店。ゆるキャラのパティシエがいるって近所でも評判良くって、そのうち行こうと思ってたのよ」
「それはどうも。お待ちしています」
それは誉めているのかと由実は思った。
そしてこんなに穏やかに会話していて良いのだろうかとも。
結局、本題に入ったのは、ジャスミンティーを一杯飲み終わる頃だった。
「それで――、二人はヤクザに目をつけられるようなことでもしたの?」
率直に尋ねられて、由実は噎せかけた。
「ヤクザ、って……」
「あら、彼ら、うちの近所のヤクザさんよ。でも、あの人たち堅気相手には手を出さないの徹底してるし、功居に何かするとは思えないから、功居が自分を守るためにやったわけじゃない。公園での立ち位置からしても、功居が二人を庇ったように見えたから、彼らがあなたたちに手を出す理由があったんだと思ったんだけど」
鋭い、と由実は居枝の洞察力に舌を巻いた。
同時に、やはり相手はヤクザだったのか、と改めて知る思いだった。
義信は相手の正体を掴んでいる様子だったが、いつも連絡は簡潔で、あまり詳しく話してくれなかったのだ。おそらく、相手が暴力団だと告げて、無暗に由実が不安がらないよう気遣ってくれたのだろう。
一杯の茶で落ち着いた由実は、隠し立てせず、正直に話してみることを決めた。
功居の力を目の当たりにした由実は、その功居を母に持つ居枝になら全てを打ち明けても大丈夫なのではないか、と判断したのだ。
自由には自ら説明しようという気はさらさらなさそうなので、そうするときちんと説明できるのは由実しかいない。
由実は数日前のことから、簡潔に、しかし分かりやすく居枝に事情を説明し、それから先ほど公園で起きた出来事を語った。
居枝は特に口も挿まずそれを聞いていたが、話が終わると一言感想を口にする。
「それは災難だったわね」
特にリアクションらしいリアクションもなく言われる。あんまりあっさりとした反応なので由実は拍子抜けするが、しかし「何の冗談?」などと笑われてしまうよりはずっとましだ。
「その……、功居くんには捕まりそうなところを助けてもらって……、」
「それはあの子のしたことだから。あの子に言ってやって」
言って、居枝は困ったように首を傾ける。彼女の短い髪がその動きに合わせて小さく揺れた。
「……本当は、使うなってよく言い聞かせてたんだけど。短時間で、懐いちゃったみたいね」
その、「使うな」、の言葉に由実はどきりとする。亡くなる前の母を、ふと思い出して。
「それにしても、そう……、癒しの力、ね……。ヤクザさんたちが必死になるわけも分かるわ」
「えっ……」
顔色を変えた由実を宥めるように、居枝は微笑んだ。
そこへ、他人事のようにようやく口を挿んだのは、自由だ。
「ヤクザの身内に、誰か病人とか怪我人でもいるんですか」
「そう。組長さんの孫の女の子が病気なの。生まれた時から身体が弱くて、長くは生きられないだろうと言われてたそうよ。少し前までは、まだそれでも元気そうに見えていたけど、最近ではもうずっとベッドの上で……。功居のたった一人の友達なの」
だから公園で兄妹を見つけた二人組は、功居に対してああも丁寧だったのだ。
居枝は淡々とした調子で話を続けた。
「功居は、あんな力を持っているでしょう。念動力とか言うらしいけど、あの子が三歳くらいの時、棚から落ちてきたものを自分にぶつかる前に空中で止めたことがあって、すごくびっくりしたわ。それから時々だけど、何か危ないものから身を守るような時、そういう力を使うようになって……。今では自分の意思で使えるみたいだけど、それを見た周りの子どもはあの子を怖がるようになってしまったの。だからあの子、友達いなかったのよ。功居のことを怖がらずに笑いかけてくれたのは、麻耶ちゃんだけだった」
そのヤクザの孫娘は、麻耶、というらしい。
居枝の言葉に、由実の胸に複雑な思いが渦巻く。
由実は躊躇ったが、おずおずと尋ねた。
「居枝さんは……、その子……麻耶ちゃんを助けてほしいと……、思いますか」
「それはもちろん、助けられるものなら助けてあげたい。功居もそれを願っているしね。功居が今日公園にいたの、麻耶ちゃんのお見舞いの帰りにきっと、泣いてたのよ。いつもそうなの。小さいくせに、泣いたら私や夫が心配するからって、我慢して、それで一人で……」
由実は聞いてしまったことを後悔した。聞かずにはおれなかったのだが、こんな言葉を前にすれば、自由は力を使うかもしれない。
由実は気がかりそうに自由を見たが、彼はこんな話の最中でもマイペースに茶を啜っているだけだった。
「でも、だからって、お兄さんの力を借りたいとは、思わない」
きっぱりと居枝が口にしたので、由実ははっとした。
「ど、どうしてですか?」
「功居の力もそうだけど……、人を超えた力を、人が使うべきじゃない。その力は人を幸せにしてくれるかもしれないけれど、同じくらい不幸にもするのよ」
決然とした言葉に、由実は気圧される思いがした。
「でも、その力で人を助けることができるなら、不幸なんて……、」
一体何を言っているのだろう、と由実は心の中で自問した。
力は使ってはいけない、それが亡き母の遺言だった。
だから、居枝の言うことだって正しい。
反論なんてするべきではない。
だけど。だけど――。
ことり、とその時小さな音を立てて自由はカップをテーブルに戻した。それはさほど音量が大きいというわけではなかったが、由実はその音が響いたようにも感じ、混乱から醒める。
「……分かります」
そうして、自由は、静かに居枝に同意した。
由実には、それがとても毅然としているように聞こえ、まるで自由が自由ではないようで、落ち着かなくなる。
居枝は、頷いた自由をちらりと見て、また口を開いた。
「それで、お互い色々と事情が分かったところで――あなたたち、どうするの?」
「……どうしよう?」
今度は、へらり、と何も考えていない顔で、自由は由実に笑いかけた。
いつものしまりのない顔に、由実はうっかり安心してしまう。
「とりあえず、私からはね、ヤクザさんたちには特に何も言わないつもりよ。あっちが凶器持ち出してきたりしたらともども出て行ってもらうけど」
そういう居枝の態度は、分かりやすくて好きだと自由は思った。
「じゃあ……、もうしばらくお邪魔していてもいいですか?」
少し考えて、伺いを立てたのは由実だ。
「帰んないの?」
「今外に出たら確実に見つかっちゃうわよ。敵の本拠地はすぐ近くなんだから……。だから、ノブさんに相談してから動くのが一番」
「そうね」
うんうん、と本当に分かっているのか自由は適当に頷き、
「居枝さん、お布団貸していただけませんか」
と、図々しくもそんなことを申し出た。
「ちょっと自由、あんた何言ってんの!」
「久しぶりに散歩したら眠くなったんだって」
「こんな時に……! この非常識マイペース男……!」
「ぎゃっ痛い、痛い痛いですよ由実さん!」
髪を引き抜かれる勢いでむんずと掴まれて、自由は悲鳴を上げた。
「はいはい、静かにね。功居の隣に布団敷いてあげるから、寝るならどうぞ」
「い、いいんですか……」
「別に構わないわよ。功居が友達連れてくるなんてそうないことだし」
そうか、自分たちは功居の友達というカテゴリだったのか、と兄妹はじゃれるのを止めた。
やがて、居枝が用意してくれた布団に丸くなる兄を見て、由実はまた疲れたような溜め息を吐いたのだった。
自由が図々しく昼寝し、居枝が台所で夕食の支度をする間に、由実は義信に電話をかけて今後のことを相談することにした。
由実が今使っているのは、この逃避行の間だけと、義信が提供してくれた携帯電話だ。
忙しいはずの義信だが、コール音が何度も響かない内に電話を取ってくれた。
『由実ちゃん?』
「はい。ノブさん、あの――」
由実は頷き、義信の時間をとらせないよう早速本題に入ろうとした。
だが――。
『もう着くから、それから話そう。ああ、ここだな』
「へ?」
『一回切るよ』
断って、電話が切れる。
もう着くって――、と由実が首を傾げた時だ。
ピンポーン、と家のチャイムが鳴らされた。
「ごめん、ちょっと出てくれるー?」
「あ、はい!」
――開けて突然ヤクザさん、ってことはないよね……?
と、恐れを抱きつつ、もしかして、とも思いながら、携帯電話を持ったまま由実は玄関へ向かった。そっと、玄関のドアスコープから外を窺う。危なそうな相手が立っていたら居留守を決め込んでしまおうと思ったが、それは由実の杞憂に終わった。
ドアの向こう、小さいガラス越しに見えた姿は、彼女が兄よりも頼りにする人で。
由実が半ば反射的にドアを開けるとそこには、由実と同じように携帯電話を持つ義信がいた。
「ノブさん……」
「大変だったね、由実ちゃん」
義信は優しく微笑んだ。
「ノブさん~」
夢でも幻でもない。
義信の登場に、由実は思わず半泣きで抱きついてしまっていた。
「あの馬鹿のお守り、お疲れ様」
「はい……」
さりげにひどい二人である。
義信はよしよしと由実を宥めるように肩を撫でてやった。
「もう大丈夫だよ。すぐに家に帰れる」
「はい……」
義信の腕の中にいれば、今までの不安など全てどこかにいってしまうようだった。
しかし、しばらく抱きついたままでいたところ、何かあったのかと思ってやってきた居枝にばっちり目撃されてしまい、慌てて由実は義信から離れる。
「あら、もういいの?」
「う……いえ、あの、ハイ……」
赤くなって小さくなる由実の隣で、義信は平然として、丁寧に名乗ると居枝に手土産を差し出した。
「この度はご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。二人を匿って下さりありがとうございました」
「別にそんなに言われるほどのことはしてないけど。もらえるものはもらっておくわ」
居枝は遠慮なく義信の手から菓子折りを受け取り、続けた。
「もう暗いし。三人とも、ウチで夕食食べて行っちゃいなさいよ。旦那も昨日から出張で、賑やかな夕食の方が嬉しいわ」
「では、お言葉に甘えまして」
義信はそつなく振る舞い、お邪魔しますと言った。
「あの……、いいんですか……?」
義信が多忙だと知っている由実は心配したが、義信は大丈夫だと笑う。
「ノープロブレム。それより、さっさとあの馬鹿の問題を片付けよう」
「そ……、ですね」
ほ、と由実は頷く。
安心して力を抜いた由実の肩に、義信は労わるようにそっと触れた。