3
窓の外に広がる空の中、鳥が風を切っていた。
「いいなァ……」
畳の部屋でごろごろとしていた自由は、その姿を目で追うと、おもむろに立ち上がる。
そのまま、部屋を出、玄関をくぐり、外に出てしまった。
妹の由実と共に謎の男たちに追われ、親友である義信の伝手で隠れ潜んでから既に三日――。
拳銃を持った物騒な男たちから逃げていることなど嘘のように、静かに日々は過ぎていた。
もしかしたら本当に何かの冗談だったのでは、と由実は言ったものだが、連絡をくれる義信によれば、店の周りに人相の悪い男たちがずっと陣取っているらしく、帰るのは難しそうだ。
義信が用意した隠れ家は、住宅街にある、小ぢんまりとした一軒家で、ちゃんと手入れがされていて小奇麗だった。
食料や着替えなど、全て義信が用意してくれ、生活していくには何の不自由もない。
生活に不自由はないが、自由にとっては少々息苦しい毎日だった。
朝寝と昼寝と夜寝が誰よりも好きなので、外に出るなと言われていつまでも寝ていられるのは良かったが、問題は起きている時間である。
パティシエになっただけあって、自由は菓子を作るのも食べるのも好きだ。菓子を作って食べるのは日常サイクルである。作りたい、食べたいという欲求は睡眠欲の次に湧きあがってきて、それに関しては問題なかった。家庭用の設備とは言え、趣味で作る分には申し分ないものが揃っており、材料も時間もたっぷりあるのだ。
しかし、外に姿を見せてはいけないというのが、自由には耐え難かった。
由実はずっとピリピリしていて、カーテンを開けるのにも外から顔が見えると自由を叱責し、少しであっても外に出るのはもちろん駄目だと言う。
自由も一応、現状はちゃんと分かっているのだ。
だが、ずっとカーテンを閉めきった部屋に籠っていると、精神的に苦痛を覚えてしまうのは致し方ない。
特に自由は、空を眺めながらぼうっと時を過ごすのが好きで、空を見るのが癖であり、空が見えないと落ち着かないのだ。
空ウォッチングは彼の趣味の一つであり、習慣なのである。
そんな自由でも、この「禁空」とでも形容できる状況に、二日は耐えきった。だが、三日目ともなるといささかきつい。由実から感じる負のオーラにも時折身の危険を感じる。
そんなわけで、隠れ家への潜伏から三日目、由実が少し目を離した隙に、彼はようやく名前のごとく自由を得たのだった。
「……平和だなァ」
若白髪を風に揺らしながら、自由はしみじみと呟く。
青い青い空が、身体に染み入るような感覚。
その空の下の、爽やかな風もとても心地良い。
知らない道を思うがままに歩いていく彼には、警戒心の欠片もなかった。
やがて小さな公園が見えて、鳩がぽっぽと集まっているのを見た自由は、ふらふらとそれに近づいていく。
鳩の動きに気を取られていた彼は、だから気付かなかった。
小さな人影が、とてとてと向かって来ていることに。
「あ、」
不意に足元に衝撃を感じて、自由はぶつかってきた力の方向に逆らわず尻もちをついた。
「あてて……」
一体何が起こったんだ、と尻もちをついたまま、自由は目の前を確認し、少し焦る。
彼の目の前で、彼よりもずっと見事に転んでいる少年がいたのだ。
――ちっさい……。
自由は素朴に思う。
彼の店に来てくれる子どもたちの姿を思い浮かべて、五、六歳くらいかなと推測した。
しかし呑気にそんなことを考えている場合ではない。
「大丈夫?」
恐る恐る自由が声をかけると、少年はすくっと立ち上がった。
顔に土がついているが、大きな怪我はなさそうだ。
だが、自由は少年が膝をすりむいているのに気付いた。血が滲んでいて、痛そうである。
少年は当然自分の怪我に気付いているようで、立ち上がった後、自分の膝を見つめ、唇を引き結ぶ。それは、泣くのを堪えているようだった。
どうしよう、と自由はうろたえる。困りながらも、少年の顔の土を払ってやった。
「あー、ごめんな、足元注意してなかったもんで……、平気?」
「へい、き」
少年は口を開いたが、その丸い瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。
困った時の癖で、自由は頭をかしかしと掻いた。
一応の兄であるところの自由は、小さい時も妹を目の前にこういう場面では困っていたものだ。
「あー、少年、俺がお詫びに怪我が治るようにおまじないをしてあげよう」
自由が告げると、少年は不審者を見る目で彼を見つめた。
「お母さん……、ヘンな人はムシしなさいってゆってた……」
変な人、と言われて自由は少しショックを受ける。
「……じゃあ怪我が治ったら無視しても逃げてもいいから」
意気消沈したまま、自由は、少年が怪我をしている膝の辺りに手をかざした。
彼は、母から使うなと言われたはずの、妹から使うなと厳命されているはずの、その力を使う。
力を使うこと自体は簡単だ。手をかざして、治したい、助けたいと願えばいい。
「いたいのいたいの飛んでけー」
やや投げやりに自由は呟いたが、彼の力の効果はすぐに表れた。
それは、一瞬のこと。
少年の膝の、痛々しかった赤みが消える。残ったのは、綺麗な皮膚だけだ。
少年は驚いて、自分の膝と、自由の手のひらを交互に見つめた。
「もうこれで大丈夫だろ。帰る時はこけないように気を付けてな」
へらりと笑って少年にそう告げると、自由は立ち上がった。
パンパンと、今度は自分についた砂を払っていると、くい、と服の裾を捕まれる。
「ん?」
見下ろすと、少年が瞳を輝かせて自由を見ていた。
先ほどとは一転した、尊敬の色。
「あ、ありがと」
「いえいえ、どういたしまして」
自由は苦笑気味に答える。
子どもは偏見が少なく、素直だ。自由は幼い日の妹の姿を思い返して、遠い目になった。
由実がまだ、目の前の少年くらいの年頃だった時には、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と可愛らしく懐いてくれていたものである。自由の力を知ってからは、人を助けることのできる兄だと、尊敬してくれていたようだった。
それが、今では……。
――まあ、しょうがないんだけどね……。
自由は少年の頭を撫でてやった。
「君、名前は?」
「いさや」
「いさやくんね。俺はよりゆき。じゆう、でいいよ」
少年は「よりゆき」なのに「じゆう」でいいと言われて少し混乱したようだ。
「じ、ゆう?」
「うん」
「じゆう」
自由が微笑むと、少年もにこりと笑った。
かわいい、と自由はまた少年の頭を撫でてやる。
「そう言えば、いさやくんは一人?」
自由が尋ねると、少年は表情を暗くした。
「……おれ、」
おや、と自由は首を傾げた。この少年は何か悩み事を抱えているらしい。
この年頃の少年がたった一人でいるというのは、今のご時世、いくら昼間とはいえ物騒なことだ。
もしかして迷子だろうか。でもこの辺りの地理は全然分からないな、というより俺もちゃんと帰れるんだろうか、と自由は呑気に思う。
その時だ。
「こら自由! あんた何してんのよ、あれだけ外に出るなって言ったでしょうが!」
「やべ、見つかった……」
焦って自由を探しに来たのだろう、息を切らせたままずんずんと、由実が公園に入ってきた。
「この馬鹿! 自分が置かれてる状況分かってるの!? ずっと思ってたけど、やっぱり脳味噌ないんでしょう!」
「お前それはひどいよ……」
「ひどいのはどっちよ!」
突然現れた女性が、怪我を治してくれた恩人を怒鳴りつけ始めて、少年は茫然と二人を見上げる。
「もう、とにかく早く戻るわよ。さっきノブさんから連絡来て、もう少しで何とかなるだろうからそれまでしっかり隠れてろって……」
恐怖の表情で、少年は自由の足の辺りに縋りついた。
由実は我に返って、見知らぬ少年に目をやる。
誰、と兄に聞こうとしたが、少年が口を開く方が早かった。
少年は、恐る恐る自由に聞いていた。
「……おに?」
「え」
自由は率直な意見に硬直した。由実もショックを受けたように固まる。
自由はあながち少年の意見は外れではないと思ったが、さすがの彼もそれを口にはできなかった。
「いや、一応人間だよ、これでも。ただの由実」
「どういう紹介してるのよ! それまさかフォローしてるつもりなんじゃないでしょうね」
顔を赤くして、由実は兄に噛み付いた。
さすがに「鬼」というのはひどい、と思う。まだまだ現役女子高生なのだ。
だがもし「鬼」のように見えたというなら、それは自由のせいである。
とにかくこの兄が悪い、と由実が凶悪な顔で自由を睨みつけた時。
「おい、お前たち――」
ぎくり、と由実は振り返り、げ、と自由は口元を引きつらせた。
――嘘……。
店に乱入してきた男たちのような黒スーツ、ではないが、もっとだらしのない服装で、彼らと同じような雰囲気の、サングラスをかけた人相の悪い男たち二人組が、公園の入り口に立っているのだ。
二人組は、色のついたガラスの向こうから、自由をじろりとぶしつけに見つめてきた。
「若白髪のやる気のなさそうな男と、若くてめんこいが胸のない女の組み合わせ。手配中の二人じゃねえか?」
「ちげえねえ」
「まさかこんな近くで見つかるとはな。手柄立てさせてもらうか」
一人はふんぞり返るように、一人は前かがみの姿勢で、脅しつけるように二人に向かってきた。
見つかった、と顔を蒼くしたのも束の間、由実は真っ赤になって「鬼」と言われた時よりも憤慨する。
「胸がないですって、ちゃんとあるわよ私は着やせするタイプなの!」
「どうどうどう」
それどころではない。自由は由実を宥めながら、さりげなく自分の後ろに庇った。
平和な、真昼間の公園で、男たちはごきりごきりと拳を鳴らす。
「怪我ぁしたくなかったら大人しくついてきてもらおうか――」
もうこれは頷いてしまいたい――。
万事休すかと思われた、次の瞬間。
「だめ」
自由の前に立ったのは、自由が助けた少年だった。
「いさやくん」
自由は驚いたが、少年の姿は相手にも予想外の驚きを与えていた。
「これは功居さん。どいてくだせえ。そこの男はうちに連れてくるように言われてるんで」
「だめ」
何故か男たちに丁寧に扱われている少年に、自由も由実も唖然とした。
男たちは困惑して顔を見合わせたが、やがて言う。
「功居さんの言葉でも従えませんや。この場は強引にでも、その男、連れていかせてもらいやす」
少年は唇を引き結んだ。
自分に優しくしてくれた自由を、男たちが手荒に扱おうとすることは、彼にとって許し難いことだった。
「だめ」
少年は腕を地面と水平になるように挙げてから、手のひらを男たちのうち小柄な方に向けた。
「なっ――」
成り行きを見守るばかりだった自由は息を呑む。
少年が腕を動かしたのと同時に、小柄な方の男の身体がふわり、と浮き上がったのだ。
「わ、わわわわわっ」
男はうろたえて手足を振りまわしたが、地面に足が着く様子はない。
そして彼は、勢いをもって、隣の男にぶつかっていった。
「おわ!」
ぶつかった方とぶつかられた方は、無様に地面に転がり、どこをどう打ちつけたか、のびて動かなくなる。
あっという間の、信じられない出来事だった。
ぽかんと一部始終を見つめていた兄妹は、視線を交わす。
――一体どういうこと……?
――分からない、けど……。
「いさやくん……?」
躊躇いがちに自由が呼びかけると、少年はびくりと肩を揺らして振り返った。
その瞳には、不安と、少しの後悔の色。
同じなのか、と自由は直感した。
この少年は、自由と同じ、人にはない力を持った――。
自由は口を開きかけたが、少年がぐらりと彼の身体に倒れこんでくる方が早かった。
「いさやくん!」
慌てて自由は少年の身体を抱きとめる。
少年は、自由の腕の中で気を失っていた。
「……どうしよう」
自由は途方に暮れる。
だが、一連の公園での騒動に終止符を打つように、一人の姿が公園の入り口に現れていた。
「功居」
怪訝そうな顔で、少年の名を呼んだのは、主婦らしい若い女性。
彼女は、倒れている男たちを見、自由たちを見た。
「これ、どういう状況?」
あまりに冷静に尋ねられて、兄妹は何と説明したものかと顔を見合わせる。
何とも言い難く、功居と倒れた二人組に視線をやる兄妹の表情に、女性は軽く溜め息を吐いた。
「うちの子が、何かやらかしたみたいね」
「……いさやくんの、お母さんですか」
「そうよ」
さばさばとした様子で自由に近づいてきた彼女は、細身の腕で息子の功居を抱きとり、大切そうに抱えた。
「とりあえず、場所を移しましょう。一応説明して、どういうことがあったのか。お茶くらいご馳走するわ」
「でも……」
躊躇ったのは由実だった。
自由は追われる身なのである。
見知らぬ人を巻き込み、迷惑をかけるかもしれないと思うと頷けなかった。
しかも、今倒れている男たちと少年とはどうも面識があるようだ。
下手に動けば、今まで逃げてきたことが水の泡になってしまうかもしれない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
しかし、妹の逡巡をぶち壊すように、いそいそと兄は女性の後についていこうとする。
「ってちょっと、何勝手についていこうとしてるのよ!」
由実は兄の耳を引っ張って耳打ちしたが、
「まーいいんじゃない」
へらりと自由は笑った。
「良くないでしょ! 追っ手のことがどう転ぶか分からないのに……」
「ノブがもう少しで何とかなるって言ったなら、隠れる場所がちょっと変わったくらい問題ないって」
「その隠れる場所に問題があるかもしれないじゃないの!」
由実はあくまでも慎重に行動すべきだと主張したが、自由は呑気な顔を崩さない。
「どうかしたの?」
「いえいえ」
「そう。こっちよ」
淡々とした風情の女性に、自由はついていってしまう。
「ああ、もう、この馬鹿!」
どうしようもなくて、由実は気まぐれな兄を追いかける。
後には、助けを呼ばれることもなくのびたままの二人組が虚しく残された。




