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「……行った?」
「……行った」
空き地の茂みに隠れるように身を低くして、何故か葉のついた枝を両手に掲げる、あからさまに怪しい若い男女の姿があった。
男の方は白いコックコート、女の方はブレザーの制服を身に着けている。
これ以上は言わずもがなだろう――若い男女の二人組は、自由と由実の兄妹だった。
いかにもチンピラ、といった風情の男たちが目の前の道路を通り過ぎ、角を曲がるのを見送って、彼らは同時に深い溜め息を吐く。
「もう、何でこんな風にこそこそ逃げなきゃいけないのよ……」
「いや、あんなもん出されたら逃げないわけにもいかないデショ……」
自由はいつもながらやる気のなさそうな半眼で、頭をかしかしと掻いた。
何故この二人がこのようにこそこそとあやしい真似をしているのか、と言うと――。
その理由は、数時間前に訪れた。
洋菓子店Freeは夕方が訪れようとするその時間まで、とても平和だった。
平和のあまり――店主兼パティシエの自由は、いつものように客のいない店でのんべんだらりとくつろいでいた。
そしていつものように、帰宅した由実に殴られた。
「……何また寝てんのよあんたは!」
ごん、と拳と頭が良い音を立てる。
長年の由実の苦労の成果であった……。
「……あ、おかえりー」
「おかえりじゃないわよおかえりじゃ。ちゃんと店番しなさいって何度言ったら分かるの! 寝過ぎで脳味噌溶けちゃったんじゃないの!?」
「……いやだって、お客さんいないし」
「今いなくてもいつ来るか分かんないでしょ! 店員が寝てたら困るじゃないの」
「いやー、もう皆慣れたんじゃないかな」
はははと笑うと、笑う所じゃないとまた怒られる。
この店を開店して二年。住宅街の中にあるこの店を訪れてくれるのは近所の住民たちがほとんどで、若白髪の店主が睡眠好きなのは既に周知の事実だった。
そんな店主を毎日のように妹の由実が叱りつけているのも、住民たちにとっては慣れた風景のひとつになってしまっている。
時折由実は、「お兄さんがあんな風で苦労するわねぇ」とか、「本当に兄妹?」とか話しかけられたりするが、全くどちらにも同意したい気持ちだった。
そんな由実の心情も知らず、呑気に自由は口を開く。
「ま、とにかくお前も帰ってきたし、俺が寝ても――」
「は?」
最後まで言わせず、由実は笑顔で「何を言ってやがんだこのクソボケ!」という怒りを伝えた。
「……ゴメンナサイ」
自由が冷汗をかきつつ、固まった微笑みで謝った、その時だ。
店の扉が、カランカランと涼やかな鈴の音をさせて、開いた。
「いらっしゃいませ――」
兄妹の声が重なって、その表情は同時に凍りつく。
それはまるで、陳腐な小説や映画のワンシーンのようだった、と過去を振り返って由実は思ったものである。
サングラスに黒スーツ姿の、堅気にはどう頑張っても見えない三人の屈強な男たちが、そこには立っていた。
「そこの兄ちゃん、大人しく、俺たちについてきてもらおうか」
宝石のようなスイーツが並ぶ店内にはそぐわない、あまりにも無骨な、物騒に黒く光る塊――拳銃というものを見せつけられ。
普通の人間だったならば恐怖に身体が硬直してしまうシーンだったが、兄妹たちは違っていた。
普段の正反対さからはかけ離れた、息のぴったり合った様子を見せて、二人は何とか自分たちの店から逃げ出したのだった。
「問題はこれからどうするかよね」
茂みの中で姿勢を低くしたまま、由実は考える表情で言った。
「このままただ逃げ続けたってそのうち捕まっちゃうだろうし……、夜が来たらまだ今の季節外じゃ凍え死んじゃうかも」
「そうだなー、甘い物がないと飢え死ぬかも」
やる気のなさそうな兄の返事に、由実は眉間の皺を深くした。
「もっと真剣に案を出しなさいよ。狙われてるのは私じゃなくて自由なんだからね」
「んー、じゃあ、お前はひとまず帰れば?」
「はぁ?」
「狙われてるのは俺だけなんだろ」
「……もう面倒臭いからとっ捕まっちゃうか、なんて考えてるならぶっとばすわよ」
「……ははは」
妹は兄を容赦なく殴った。
「あいつら、自由の『力』を使いたいんだわ。私はそんなこと絶対許さないんだから」
険しい顔で、由実は呟く。
何故自由を狙うのか、相手がはっきりと述べたわけではない。だが、ある一つの理由以外で自由が狙われる理由など思い当たらないから、由実の推測は当たっているだろう。
けれど、兄を捕まらせるわけにはいかない。
自分だけ家に帰るのも当然、論外だ。相手の狙いは自由だけだろうが、由実が一人家に帰ったからといって、彼女が安全になるわけはない。唯一の身内である彼女を人質にとることができれば、自由は相手の要求を呑むしかなくなるのだから。
自由は一人にしてしまえば簡単に投降してしまいそうだし、今は二人で身を隠すのが得策と言えるだろう。
思い詰めたように唇を引き結ぶ妹を見て、自由は小さく溜め息を吐いた。
「……そんじゃまあ、ノブに助けを頼んでみるのが一番なんでない?」
「……巻き込みたくないけど、そうは言ってられないわよね……」
兄にしては尤もな提案だ。
頼りになる冷静な義信の顔を思い浮かべ、由実はそれしかないと思った。
彼女は決意し、ポケットに入れっぱなしだった携帯電話に手を伸ばして、止める。
「自由、携帯電話持ってる?」
「あるけど……、」
「じゃあ電源切っといて、一応。私、公衆電話からノブさんに電話してくる」
「何で?」
「相手がどれだけの規模なのかとか分かんないし、そこまでしてるか分かんないけど、携帯電話って電源つけてるだけで探知できるらしいから……。詳しくは知らないけど、居場所が分からないように、念のため。さっきの様子じゃ大丈夫だとは思うけどね。いざっていう時に電池なくなっても困るし」
「抜け目ないな、お前」
感心したように兄が妹を見やると、由実は憤慨したように呆れたように返す。
「自由に抜け目がありすぎるせいでしょうが!」
この二人に両親はもはやない。父親は自由が七歳の頃、由実が一歳の時に亡くなってしまったし、母親も三年前に亡くしたばかりなのだ。
父親を亡くし、女一人で二人の子どもを育てようとする母を支え、のんびりマイペースに生きる兄に手綱をつけていたのは由実だった。
「もう……、あとはそのエプロン脱いどいてね。目立っちゃうから。私が電話かけてる間、ちゃんとここにいてよ」
「了解ー」
ひらひらと手を振って、自由は妹を見送った。
「気を付けてなー」
相変わらず呑気な様子の兄に対し、全く、と思いながら由実は堂々と空き地から出た。
こそこそしては逆に怪しまれてしまう、と考えたからだ。
おそらく相手は男と女子高生の二人組で探しているだろうから、きっと見咎められない。
心臓がうるさく音を立てていたが、そう自分に言い聞かせて、由実は公衆電話を探した。
兄といるうちは頼りない自由をどうにかするので一生懸命になり、それ以外の余計なことは考えずに済んでいたのだが、兄と離れて一人になると、しっかり者の彼女にもさすがに恐怖が襲ってくる。
拳銃を持っているような相手に追いかけられているのだから、当然の反応だろう。
「もう、ほんと、何でこんな目に……」
小さく零せば、喉の奥から少しだけ涙の気配がした。
自由の力には振り回されてばかりだ――、と由実は思う。
自由は、他の人間にない、信じられないような力を持っている。
他人の怪我や病気を、その手をかざすだけで治してしまうのだ。
ほとんどの人は、それを聞いても嘘だと笑い飛ばすだろう。
由実もできれば信じたくなかった。けれど真実なのだ。
まるきり赤の他人が他人の怪我を治しているのを見たところで、何か仕掛けがあるのだろうと思うだけだが、自由は由実の怪我を治してくれたこともある。信じないわけにはいかなかった。
便利といえば便利な力。人を助けることのできる、貴重な力だ。
だが、由実は兄の力が嫌いだった。
亡き母も、自由によく言い聞かせていた。
その力は決して使ってはいけない、と。正体の分からない力を使って、後で何か副作用があるかもしれない。何より、他にない力は他人から恐れられ、遠ざけられてしまう。
母は自由のことを慮っていた。
しかし、自由はそんな母の思いをちゃんと分かっているのかどうか、今もちゃらんぽらんに自由気ままに生きている。
今回のことも、おかしいのだ。自由の力のことを知っているのはごく一部の人間だけ。由実とそれから、自由の親友である義信くらいだ。由実は当然、義信も秘密を漏らすようなことはしていないはずである。
それなのに、何故あの黒服の男たちは自由を狙ってきたのか。それは多分、自由がどこかで何も考えずに力を使ってしまって、それを見られたのだ。
由実は鋭くそれを見抜いて、兄に対する苛立ちを募らせた。
空き地から少し離れたところで、彼女はようやく公衆電話を見つける。
携帯電話が普及して見ることの少なくなった公衆電話だが、思ったよりすぐに見つかったと、彼女は安堵した。
義信の番号は頭に入っている。由実はボタンを押そうとして、ほんのわずか躊躇いを見せたが、すぐに指を動かした。
既に義信が追っ手によってチェックされていて、盗聴されている可能性を思い浮かべたのだ。だが、電話をかける相手は「義信」なのだ、心配あるまい、と由実は判断した。
義信の実家の大企業と言えば、この国で名を知らない者などそうそういないような規模を持っている。企業スパイやら何やらへの対策、セキュリティは庶民には想像できないくらいのものを取り入れているはずだ。
そんな義信が自由の親友をやっているかと思うと、いつもながら信じられないような気持ちになるが、それはともかくとして。
『――はい、もしもし』
電話の向こうから、低い、落ち着いた声が聞こえて、由実は安堵でへたりこみそうになった。
義信は忙しい立場の人間だと、由実は良く知っていた。彼が多忙で電話に出られない可能性は大いにあったし、何より携帯電話ではなく公衆電話からかけたのでは不審に思われて出てもらえないかもしれないと、悪い予測ばかり立てていたから、余計に安堵は大きかった。
「の、ノブさん」
安心して、涙声のまま、何とか由実は呼んだ。
『……由実ちゃん? どうした?』
義信は、声で電話の相手が誰かを察し、訝しげな声を出す。
由実はぐっと受話器を握りしめた。
「ノブさん、あの――」
彼に頼れば大丈夫だ、と思って、彼女は事の経緯を説明するために口を開く。
動揺しながらも、端的に、明快に、由実は説明した。
『……なるほどね』
話を一通り聞いた義信は、呆れたような、何とも言えない溜め息を吐いた。
一度聞いただけでは嘘だろうと疑うような話だったが、義信は由実がそんなほら話をするような性格ではないと知っている。
何より、実を言えば、こんな事態は初めてではなかったのだ。拳銃が出てきたのは初めてでも、兄妹がそれに対処できたのは、これまでに似たような経験があったからに他ならない。そしてそれに、義信も何度か巻き込まれている。
義信は一瞬考え込むように黙り込んだが、そうのんびりもしていられないとすぐに方策を示した。
『分かった。すぐにそっちに迎えを寄こす。場所はどの辺り?』
由実は言われて、辺りを見回した。物騒な連中から逃げるのに必死で、自分たちがどこにいるのかあまり意識していなかったのだ。見覚えのない場所ではあったが、近くの電柱に示された住所を見ると、店からそう遠い場所ではないと分かった。
『そう……』
由実が住所を教えると、受話器の向こう側でパソコンのキーボードを打つ音が聞こえてくる。
『由実ちゃん、うちの使用人の顔覚えてるかな。彼に車で迎えに行かせるから、彼以外の人間が行っても乗らないように。OK?』
「は、はい」
『うちで匿ってもいいけど、変なトコが関わっていたりしたら庇いきれないかもしれないから……。ああ、あった。その近くに、うちの物件じゃないけどすぐに借りられるところがある。しばらくはそこにいてくれ』
「近く……で大丈夫でしょうか? すぐに見つかっちゃうんじゃ……」
『灯台もと暗し。時間が経てば経つほど相手は遠くに行ったと思うだろうし、移動時間が長い方が見つかる危険性が高い。大丈夫だよ』
淡々としている義信の言葉は逆に信頼できる。由実は頷いた。
「あの……、ノブさんは……」
『ないと思うけど――、俺は見張られてるかもしれないから、一応、行かないでおくよ。こっちにいて、「敵」のことを探っておく。相手のことが分からないと動きようがない』
「すみません……。よろしくお願いします」
ただでさえ忙しい義信に負担をかける、と由実は恐縮した。
『由実ちゃんが謝ることはない。……不安だろうし、大変だろうけど、しばらくは頑張って。いざとなったら、あいつのことは見捨ててつき出せばいい』
冷たい言葉にも聞こえたが、義信は自由に対してはいつもこんな感じなので、「はい」と、由実は少し喉を詰まらせながらも笑って答えた。
『じゃあ、とにかく気を付けて。十分程度で迎えが着くから』
由実に対する気遣いの言葉は優しかった。
電話が切れて、由実はゆっくりと受話器を元に戻す。
一度深呼吸をして、大丈夫だと彼女は自分を落ちつけた後、兄のところに戻った。
そして。
「……」
案の定というか、こういうところで期待、ではなく予想を外さない自由は――草むらの中で、寝こけていた。
余りの図太さに、今の状況を理解しているのかと、まだ「いざとなって」はいないが、由実は自由を見捨ててやろうかと思う。
彼女は凶悪なほどの笑顔を湛え、靴を履いたままの足で、兄の腹に渾身の一撃を落とし――。
人とは思えない叫び声が、辺りに響き渡った。
迎えが来る前に、追っ手に気付かれてしまう危険のある叫びであったが、誰かが駆けつけてくるようなことはなく、時は過ぎた。関わりを避けたくなるほどの、異様な絶叫だったからだろう……。
やがて、二人を迎えに来た運転手は、腹を抱えてもがき苦しむ青年の姿に、義信に指定された場所ではなく病院に向かうべきかと迷うことになるのだった。