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「眠い……」


春の日差しが暖かく、穏やかな午後。

外から聞こえてくる鳥の声も午睡を誘うようで、彼は口癖となっている言葉を呟いた。

洋菓子店Freeのカウンターに、だらしなく両腕を投げ出し、突っ伏している青年。

彼の名を、自由――よりゆき――と言う。


自由は、今彼がいる洋菓子店の店主であり、たったひとりの洋菓子職人で、今もコックコートを身に着けている。

店主という肩書きを持つには彼は若く見え、実際にその年齢は二十三。

とは言え、彼の黒髪の半分ほどは若白髪で構成されており、実年齢と照らして多少は老けて見えた。

ただ、それに応じて貫禄や威厳といったようなものも多少加味されて見えるかと言うと――、全くそんなことはない。


彼は、一言で分かりやすく例えるならばまるで、ナマケモノのようだった。そのように評すればもしかしたらナマケモノに対して失礼にあたるかもしれない程度には、気だるげで、怠惰そうだった。


その容姿はいたって平凡なものであるが、真面目な顔をすれば少なくとも悪く見えることはないだろう。それなのに表情に締まりがなく顔の筋肉が緩み切っているので、何とも頼りない印象を受ける。痩身でひょろっとしており猫背であるので、それも怠惰そうな印象を増長していた。


かといって、そこまでの悪印象かと言うとそうでもない。几帳面で潔癖な人間が見れば、彼のだらけた様子には眉を顰めるものがあるかもしれないが、何となく憎めないようなところが、自由にはあった。


「寝たい……」


とろんとその目を閉じかけながら、自由はもにょもにょと本音を口にする。

平日の午後、洋菓子店はもちろん営業中だが、先ほどから客も入って来ず暇を持て余している自由だった。


いや、持て余しているというのは正確ではない。やろうと思えば仕事はいくらでもあるのだが、自由がそれをしないだけなのだ。実際には彼は暇を「堪能」しているのだった。


もう寝ちゃってもいいかなァ――と、何よりも誰よりも眠りを愛し趣味としている自由は、自分の欲望に素直に瞳を閉じ――。


「……何また寝こけてんの、自由!」


自由、と書いてそのまま、「じゆう」と呼ばれる。

ほとんど眠りに落ちない内から頭に衝撃を受けて、自由は泣く泣く瞼を上方に追いやらねばならなかった。


「毎日毎日っ、そんなに自分の名前に忠実に生きなくていいって言ってるでしょうがっ!」


のろのろと振り返った自由の後ろには、可愛らしい容姿の少女が一人、立っていた。

肩で切り揃えられたストレートの黒髪が、叱責の調子に合わせて揺れる。

腰に両手をあて憤慨した様子を隠さないその少女は、自由の妹、由実よしみである。

カウンターに突っ伏して眠ろうとしていた自由の頭に右拳をお見舞いしたのはもちろん彼女で、それに兄を敬う要素は欠片もない。

そんな由実は、近くの公立高校の紺のブレザーを着用していた。彼女はこの春進級して高校三年生になったばかりの、花の女子高生なのだ。

学校から帰宅して店を覗いてみれば兄が店番をさぼっていたので、鉄拳制裁を発動させずにはいられなかったのである。


「おかえりー」

自由はしかし、妹の様子も気にせず挨拶してから、言い訳した。

「お客さん来ないからさー」

「来ないなら呼び込みくらいしなさいよ!」


まことに尤もな台詞である。しかし妹の剣幕に対して兄は、そんな面倒臭いことはしたくないと口には出さないもののあからさまに表情に出し、再び由実の拳骨を食らう羽目になった。

由実は兄が怠惰であるのに反比例して真面目な性格で、兄の不真面目さだらしなさが許せないのだ。


「もう、私これから出かけるんだから、バイトさん来るまで一人でちゃんと店番やってよね」

「出かけるって……、手伝ってくれないの?」


今は客数ゼロの状態だが、これからは帰り途中の学生や会社員などが足を止めて行ってくれる時間帯で、いつもならば由実も売り子を手伝っている。

自由が首を傾げると、由実は少し顔を赤く染めて答えた。


「一日くらい私が抜けてたって大丈夫でしょ。今日は……」

「ああ、デートか」

自由がぽんと手を打つと、由実はますます赤くなった。


「そりゃヤボなこと言って悪かったね。夜帰って来なくても心配しないから、楽しんでおいで」

「そっ……!」


由実は爆発しそうな顔で言葉に詰まり、やがて爆発した。


「……それが仮にも兄貴の言うことぉ!? このお馬鹿っ!!」


ぽかぽかと殴られ、「いてッいてッ」と自由は呻いたが自業自得だった。こうしていつも頭を叩かれているから自分は馬鹿のままなのではないかとちらりと思うが、それは由実に対する濡れ衣と言うものだろう。


「――相変わらずだな、二人とも」


自由が由実に、一方的にこてんぱんにやられていたその時。

低い美声が二人の耳に届いて、由実は手を止めた。


二人が共に顔を上げてみれば、店のドアから入ってきた人物がひとり。

艶やかな黒髪に、黒曜石のような瞳、シャープな輪郭を持った、端正な顔立ちの青年だった。


「ノブさん……」

由実は拳をほどいてぱっと背中に隠す。店に入ってきた青年は、由実が最もみっともないところを見せたくない人物だったのだ。


「よう、ノブ」

自由はへらりと笑って片手を上げ、それに、兄妹から「ノブ」と呼ばれた相手も同じようにして応えた。

義信あきのぶ、というのが彼の名前である。

彼は由実のこれからのデートの相手であり、自由の親友であり、そして兄妹の住居と店の貸主だった。


洋菓子店Freeは厨房合わせておおよそ二十坪、二階建ての建造物の一階部分がその全てだが、二階は兄妹の居住空間になっている。この二階建てとそれが立つ土地、その持ち主が義信なのだ。


義信はさる大企業経営者の息子で、某有名大学経営学部を卒業後、早速一つの会社を任されるほどの優秀さを持ち合わせていた。幼い頃から文武両道の天才肌だった彼は、中学高校時代から実家の事業に関わっており、個人の財産は今の時点で既に、生まれ変わっても楽に暮らしていけるほどの額になっている。そんな財産の一部である時価云千万円の不動産を、義信はほとんどプレゼントのような形で自由たちに貸しているのだった。


本来、義信という人間は、いくら親友であってもそういった融通をきかせる方ではないのだが、義信には自由にとても大きな借りがあった。少なくとも義信はそういう風に思っていて、自由が洋菓子店を営むことを決めた時に多額の出資金を出してやったのだ。

それを自由は悪びれずに受け取ったものである。


「なんか久しぶりだなー。仕事忙しかったんだ?」

「まあな。一区切りついたから、しばらく余裕がある。自由、今日は由実ちゃんを借りるが、いいな?」


義信も、自由のことを「じゆう」と呼ぶ。自由のことを良く知る人間は、彼のことを「よりゆき」などとは呼ばない。自由の人柄を良く分かっているからだ。


「いくらでも好きに持っていけばいいよー」

「いくらでもって何よ!」


悪態を吐きかけた由実だが、自分が制服のままであるのに気付いて慌てて言った。


「あっ、ノブさん、私、着替えてきます。すぐに戻ってきますから、待っててもらえますか?」

「ああ。そんなに急がなくていいよ」

「いいえ! すぐに着替えてきます!」


由実は張り切って首を振り、カウンターの後ろの扉から住居スペースへと駆けこんで行った。


「恋する乙女はカワイーねェ……」

「そう思うんならもっと彼女に小言を言わせない努力をしろよ。お前は全く……」

だらしない姿勢のままでいる自由に、義信は冷たい視線を向ける。


「――しばらく連絡も取れなかったが、調子はどうだ?」

「んー、お店の方は、今はこんなだけど、割と順調よ? 家賃はちゃんと払えるって」

「家賃未払いの心配なんかするか! 俺が聞いてるのはこっちの方だよ」


義信は自由の手を指した。

それに少しだけ自由は眉を八の字に下げる。


「まァ……、ぼちぼち?」

「この間、依頼があったと聞いたぞ。どこから漏れた」

「それは聞かなかったなァ……」


のらりくらりと返事をする自由に苛々して、義信はその耳たぶを思い切り引っ張ってやった。


「ひでででででで!」

「ふん、自業自得だこの馬鹿! いいか、とにかくいつもいつもいつも俺も由実ちゃんも言っているんだから、その言いつけくらい守れこのミジンコ頭! 分かったな!」

「いひゃい……」

ばちん、と耳たぶを離してやると、一層自由はカウンターに垂れた。


「ノブさん、ごめんなさい、お待たせしちゃって」

可愛らしくおしゃれをしてきた由実は、耳の痛みにしくしくしている自由のことなど気にも留めずに、義信の隣でにっこりと笑う。


「いや、早かったよ。ああ、やっぱりその服、良く似合っていて可愛いね」

「あ、ありがとうございます……!」

由実が着替えてきたのは、少し前に義信とのデートで購入した服だった。義信が覚えていてくれたのと、褒めてくれたので嬉しくなって、由実は頬を赤く染める。


「それじゃあ自由、行ってくるが、ちゃんと良い子で店番してろ。お前のとこで働いてくれる貴重なバイトを困らせるなよ。帰ってきた時にちゃんとしてなかったら土産もやらんからな」

「土産はお菓子でよろしくー」

「食いつくべきはそこじゃないだろう……」


義信は由実には決して向けない、呆れた冷たい目で自由を見やる。

時折、何故自由と親交を結んでいるのだろう、と自分でも不思議に思う……、というより真剣に悩んでしまう時がある義信だった。


「じゃあ、行ってきまーす」

「行ってらっしゃーい……」


義信と手を繋ぎ、上機嫌で出ていく由実を、ぶらぶらと手を振って自由は見送る。

いつもあんなんだったら可愛いのに、と思うが、彼女が自由の前で常に目を吊り上げているのは自由の態度のせいであって、どちらかと言えば被害者はそれで恐い顔と言われてしまう由実の方だろう。


「まァ、幸せそうだし、平和だし、良いことだよねェ……」


懲りずにカウンターに懐きながら、自由は呟く。

その瞳が見上げるのは、右手の壁にある、小洒落た小さな窓。

窓の枠の中に、青い空がいっぱいに広がるその風景は、まさに平穏無事――。


しかし、この時にも確実に、自由たちの平和は損なわれようとしていたのだった。




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