10
義信の実家とも関わりの深い病院の廊下を、義信と由実は歩いていた。
この病院にも慣れたものだと嘆息したくなるのを、義信は堪える。
兄妹の母親がこの病院に入院していたのはいい。
問題は自由がここに運ばれるのが、義信が知っているだけでこれで三度目であるということだ。
三度目の正直、ということわざが頭に浮かんで、義信はあまりにも洒落にならないとその言葉を頭から追いやった。
仏の顔も三度まで。……用途が少々異なっているが、三度目までは、大丈夫なはずだ。
そうでなければ、義信がわざわざ自由が倒れるのを見越して車と治療室を用意しておいて、すぐにここまで運ばせた甲斐がなくなってしまう。
――恩人に死なれては、寝覚めが悪いからな。
自由を恩人とはあまり認めたくないことであるし、自由も別にそんな風には思っていないようだが、義信が自由に借りがあるのは確かなことだった。
義信も、自由の力に助けられた一人なのだ。
義信と自由は同じ高校に通う同級生だった。
クラスもずっと同じだったが、しかし、実を言えば「その時」まで、二人は親しい会話をするような仲ではなかったのである。
義信は成績優秀、文武両道で誰からも憧れられるような存在であり、そんな彼の周りにいたのは同じように優秀な者だったり、人望ある者だった。
一方の自由は平平凡凡な生徒で、やはり同じように平平凡凡な友人関係を築いていたのだ。
二人は傍から見て相容れるようには見えなかった。
しかしそれは、高校三年生の冬に起こる。
大学受験センター入試、直前のことだった。
何という不運か、雨で廊下が滑りやすくなっていたその日、足を滑らせた他生徒の下敷きになるように、義信は階段から転がり落ちてしまったのである。
その階段をたまたま自由も上って来ていたのだが、彼は二人が落ちてくるのを見つめることしかできなかった。
さすがの自由もこの時は顔色を変えて二人に駆け寄り、目を回している生徒を義信の上からまずどけた。
重傷だったのは下敷きになった義信の方で、自由に支えられ何とか上半身を起こす。
『……っ』
『だ、大丈夫? えっと、あれ、こういう時って起こさない方がいいのかな?』
予期せぬ出来事に焦る自由の前で、義信は身体中の痛みに顔を顰めた。
特に一番下になった右腕が、激痛を訴えている。
『……折れてるかもしれんな、これは。おい、落ち着いて、職員室に行って先生をまずは……』
指示しかけて、義信は一旦言葉を切った。
目の前でクラスメイトが、自分に向かって手のひらをかざしているのである。
『……何やってんだ、お前』
『え、いや、急に起こしちゃったせいで頭が悪化したりしてたらこう、悪いし、治しちゃえばいいかなって……。受験前だし、健康体じゃないと困るデショ』
『……頭が悪化ってなんだ。大体、そんなんで治るなら……、』
言いかけて、義信は言葉を失った。
――さきほどまで堪えていた激痛が、全くなくなっている。
『痛み、なくなった?』
『お前……、』
何をした、と義信が唖然と口を開いた、次の瞬間。
『――ごめん、倒れる』
そう言い置いて、自由は本当に義信の前でぱたりと意識を失ってしまった。
『は!? おい、お前!?』
階段から落ちた二人は無事で、落ちていない自由が倒れるという、よく分からない展開に、さすがの義信も冷静さを欠かした瞬間だった。
結局、その後三人とも病院に運ばれ、検査を受けた。
義信をクッションにした生徒は当然として、義信にも何の異常もなし。
自由だけがあれから目覚めず、数日を病院のベッドの上で過ごした。
自由が眠っている間に、義信は自由の母親から、自由の力について聞いたのである。
そして、どうかこのことは秘密にしておいてほしいと、頼まれた。
義信はそれに頷いた。
義信の意思も聞かずに力を使ったのは自由だが、受験前に腕の骨を折ってその治療をしなければならないなど、考えたくもないことだ。自由の行動は、正直有り難かったのである。義信は大企業グループを統括する父親を持つ、その後継だ。こんなところで躓きたくなどない。その可能性を回避してくれた恩を、仇で返すような真似は、したくなかった。
だが、恩を感じるからといって、自由に対する罵倒が口から出てしまうのは、少なくとも義信にとって仕方のないことで。
『……馬鹿かお前は』
病院のベッドの上で目覚めた自由に、感謝より何より先に義信は罵った。
『自分が倒れると分かっていて他人を助けるな、アホが』
『うわァ、起きてすぐまさかの毒舌攻撃。……母さんに聞いたんだ?』
『ああ。心配なさっていたぞ』
『うん……』
クラスメイトとはいえ、あまり交流のなかった者同士。
それでも自由の独特な雰囲気と、義信の気質が、まるで長い時間友人関係であったかのような会話を成立させていた。
『分かっているなら無暗に使うべきじゃない。しかもあんな、誰に見られてもおかしくないところで』
『あー、そうですね、はい……』
『目の前で倒れられる相手の身にもなれ。助けられた方はこうして素直に感謝もできなくなる』
素直でない義信の言葉に、自由は苦笑を浮かべた。
『分かってるんだけどねェ……』
『それなら実践しろ』
『うーん、でもさァ……、それなら』
自由は義信の方を見ずに、ぽつりと呟いた。
『それなら、なんでこの力はあるのかなァ――』
義信の心に、その言葉は知らず知らず、こびりついて、剥がれなくなった。
言葉を失う義信の前で微笑んだ自由を、彼は記憶からいつまでも消せないでいる。
自由は考えなしの馬鹿ではない、と義信が自由を認めた瞬間でもあった。
『……まあ、少なくとも、今健常体でいられることには感謝しているがな』
『え、』
『もう二度とお前に怪我を治させるようなへまは犯さん。病気にもかからないようにする。もし万が一怪我、病気をしてもお前の力は拒む。それだけは覚えておけ』
これ以上お前のようなアホに助けられるなど、死んでもごめんだ。俺の沽券に関わる。
義信はそう、続けた。
その後、自由は何事もなかったかのように退院し、学校に戻った。
といっても、高校三年生の冬だ。受験生である彼らは自由登校となっていて、例えクラスメイトでも義信が自由を見かける回数は決して多くなかった。
義信は二次試験対策のため学校へ通っていたが、自由はその時既に製菓学校への入学を決めていて、定められた日以外来る必要がなかったのだ。
そのまま二人は卒業式の日を迎え、義信は第一志望の大学に無事入学した。
自由との再会は、それから少ししてからのことである。
進学先が別れてしまえば二人に接点などなかったが、義信は自由に借りがあることを忘れず、何かあれば手を貸せるようにしていた。
そして、その情報が義信の元に届けられたのである。
自由の母親が、倒れて入院することになったと。
自由に助けられた時に顔を合わせた、彼の母親の顔を義信は思い浮かべた。
穏やかで、優しそうな女性だった。自由に対する慈しみを隠さない人だった。ずっと昔に夫を亡くしてから、たった一人で子ども二人を育ててきた、とても強い女性。
生まれが生まれということもあって、義信は他人を調査することに躊躇いはない。自由たちのことも、もしかしたら本人以上に知っていた。今回の情報を受け取るのにも躊躇しなかったが、恩を返す機会だと、喜ぶことなど当然できるはずもない。
迷ったが、義信は見舞いの品を持参し、自由の母親が入院している病院へ向かった。
そこには、学校帰りの自由がいた。彼は、病室の向かいの窓から、外を眺めていた。
義信が母親の見舞いに来たことに、彼は驚いたようだった。それもそうだろう、自由と義信の接点は、ほとんど会話のないクラスメイトという点を除けば、あの時のみのものだったのだから。
義信は自由の疑問の表情に何も答えることはなく、見舞いの品を差し出した。
『……直接渡したかったが、今は差し障りがありそうだな?』
『ああ、わざわざ、ありがとう。うん、ごめん、今、寝てたから。俺も、起こしちゃ悪いと思って……』
へらりと自由は笑った。高校の時と変わらない笑みのように見えたが、その顔色は悪い。
義信はどう切り出したものかと思いつつ、告げる。
『あまり、よくないと聞いたが……』
自由は口元をもごもごとさせ、それに肯定ともつかない曖昧な返事を返した。
『……ちょっと、ここでは』
神妙に義信は頷き、自由はふらりと、しかし慣れた様子でその階の小さな休憩スペースに入る。
母親に万が一にでも話を聞かれたくなかったのだろうし、例え聞かれることがなくても、すぐ側では話をしたくなかったのだろう。
義信はそこの自動販売機でコーヒーを買い求め、自由には彼の希望でジュースを奢ってやった。
『あまり長くはもたないだろうって言われた』
あっと言う間に紙コップを空にした自由の言葉は、とても率直だった。
『……お前たち親子は、事実を隠さず言うな』
母親が自由の能力のことを包み隠さず告げた時のことを含めて、接点の少なかったクラスメイトにすることではないだろうと、心配と非難を込めて義信は言った。
似たもの親子だと眼差しでも告げる義信に、自由は少し笑ってみせる。
『あれでもね、母さんは人を見る目があるんだよ。父さんの力のことで、昔色々あったみたいだし、』
『……お前の父親も、お前と同じようなことが?』
『うん。……底なしにお人好しで、力の使い過ぎで死んじゃったけど』
自由の口調は軽かったが、その内容はひどく重かった。
絶句する義信の前で、自由は続ける。
『母さんが力のこと隠さず話したっていうなら大丈夫。隠し事なんかしなくても』
信頼されたらしいことが分かって嬉しいが、同時に複雑な気持ちにもなる。
義信は苦くコーヒーを呑み干した。
『そういうわけだから、もし、よかったら、また来てくれると、母さんも喜ぶと思う。お見舞いに来てくれたの、俺たち兄妹以外じゃお前が初めてだし』
のんびりした口調で、自由は言った。義信が重く感じないように意図したことなのかは分からないが、さらりと流してしまえるような、世間一般の決まり文句のような言い方だった。
だが、そこに自由の願いが込められているように、義信は感じた。彼は、母親のためにはきっと何だってしてやりたいのだ。飄々として見える自由なのに、義信は痛切にそれを感じ取ったような気がしたのだった。
自由の母親が、兄妹を育てるために必死で働いてきたのを、義信は書面上に書かれた事実として知っている。だがそのために、彼女には親しい友人がいないのだ。自由の言葉から察するに、職場の人間も、見舞いには来ないのだろう。親戚との付き合いも希薄なようだ。
彼女が喜んでくれると言うならば、許される限り足を運ぼうと、この時義信は決めた。自由へ恩を返したい気持ちももちろんあったが、元クラスメイトの母親に、義信は人として好感を抱いていたのだ。
『また時間が空いたら来よう。今回は無難な菓子を見繕ってきたが、好物を聞いておいてもいいか?』
『お菓子なら何でも好きでいつも美味しそうに食べてるよ。果物も』
できればなんとか店の、と自由が言い出したので、義信は彼の頭を軽くはたいてやった。それは明らかに、自由が食べたいものだったからだ。
二人は再会の後、そんな風に他愛ない会話を交わして笑って別れた。
それから義信は、授業が終わった後やその合間の空いた時間に、病院を訪れるようになった。自由だけでなく由実とも、その中で親交を深めるようになったのである。
彼ら親子との時間は義信にとって楽しいものであったが、それだけにその時間があまりにも短く限られているという事実が、彼の胸を苦しませた。
兄妹の母親の病状は刻一刻と深刻化していき、とうとう彼女の好きな菓子が食べられなくなった時など、彼らのショックは計り知れないものだった。
特に自由は、自らが菓子を作るのも食べるのも好きというのもあるが、製菓学校に入りパティシエを目指しているのは、母親のためでもあったので、相当に落ち込んでいたようである。
ようである、というのは、ほとんど彼がそんな様を見せなかったからだ。彼はいつだって、のんびりふんわりと生きているようで、母親の病状をすっかり受け入れているのか、よく分かっていないのかさえ、普段は分からないくらいだった。
それでも義信がそうと知っているのは、自由が弱音を吐いたからだ。ぽろぽろと、いつになく本音を分かりやすく零したからだった。
『……ずっとね、無理してるのは知ってたんだよ。でも、もう少しで楽させてあげられると思ってた。これまで苦労させちゃった分、幸せにって思ってたんだ。その矢先って、ひどいよねェ』
普段の自由をよく知っている者からすれば、そののんびりした口調でも、彼が思い詰めているというのは察せられた。
義信はそれに、大きな懸念を覚え、慰めるより何より忠告を口にする。
『……お前、だからって自分を犠牲にして病気を治そうとか考えるなよ』
『あー、それは大丈夫』
力なく、手をひらひらとさせて自由は義信の言葉を否定した。
『俺には治せないから。母さんだけは、俺に治させてくれないんだ』
あ、ノブも治させてくれないって言ってたっけ。
ふにゃっと笑った自由に、義信は眉を顰める。
『どういうことだ、それは』
『うーん、俺としては確信してるわけじゃないんだけど、絶対この力を受け付けないって思ってたり、俺が嫌いで俺の手なんか借りるもんかって思ってる人に対しては、この力使えないみたいなんだよね』
『……そんなことがあるのか?』
『何回か試したけど、母さんのこと治せなかったし。父さんもそうだったみたいだから』
『治そうとしたことがあったのか!?』
義信の剣幕に自由は、あ、やべ、という表情で首を竦めた。
『まあまあ、未遂だったわけだし……』
『未遂じゃなかったら今頃お前は棺桶の中だ、馬鹿! 彼女の病気の重さを考えたら……、』
言ってしまって、ちっ、と義信は舌打ちした。
それを言葉にしたくない、認めたくない己を自覚する。
誤魔化すように、義信は自由へ叱責の言葉を重ねるのを中断した。
それに関してはもうひとつ懸念事項があったので、眉を寄せて義信は確認する。
『……自由、由実ちゃんはもしかしてそのことを知らないのか?』
『……うん』
『どうして言ってやらない。由実ちゃんは……、お前が治すことを期待しているぞ。とうの母親が絶対禁止というから、それを言わずにいるが……』
『それについては、母さんも俺もどうしようかと思っててさ……』
自由は眉を八の字にした。
母親のことは治せない。それだけでも伝えれば、由実はいずれ迎えなければならない母親の死を、「納得」できるだろう。
今、彼女は期待している。縋りたく思っている。兄の持つ奇跡の力に、死の回避を願っている。このままその時を迎えれば、由実は兄に裏切られたと感じるだろう。母親の死を、受け入れ難く感じるだろう。
『でも俺、由実が肺炎起こしかけたのを治したりして、二回くらい病院に運ばれてるんだよねー。由実にねだられたこともあったし。……今後絶対力使わなくても、俺、由実より確実に早死にするからさ。自分のせいとかって泣かれるよりは……、憎まれてた方がまだ、いいかなって』
義信は言葉を失った。
この馬鹿は、そういう重いことを軽い調子で言うのだから!
とにかく自由はそういう理由で、由実に力の制約について話さないと決めているらしかった。拒む人間に使えないというのも、それを話してしまえば、そこまでしてどうして母親がその力を拒むのかと、由実に気付かれてしまうかもしれない。だから言えないと。
自由が決めたことに、母親も少なくとも反対はしなかった。彼女も決めかねたのだろう。そして、親子が決めたことに、第三者の義信が口を出すことなどできるはずもなかったのだった。
そして、あっけなく日々は過ぎた。
兄妹の母親の命は、医者が告げたよりもずっと長くもったが、それでも入院から二年も経たずに、彼女は逝ってしまった。
由実はそれに、涙を隠すことをしなかった。体が一回り小さくなってしまうのではないかと心配になるくらい、彼女はしばらく泣き暮れていた。そんな由実の側にずっとついていたのは、兄の自由ではなく義信だった。自由はこの時全く役に立たなかった。彼は母親に巣食った病魔より余程、妹に憎まれていたのだ。その病魔を母親から退けなかったために、彼はしばらく妹の前に姿を見せられなくなったのである。自由が目の前に現れた時の由実の荒れようときたら、兄だけでなく本人も深く傷つくようなものだったから。
その間に自由はあまり変わらない様子で淡々と諸々の処理を済ませていたが、彼が菓子のこと以外でそこまで真面目に何かをするというのは珍しいどころのことではなかったので、やはり相当に自由も打ちのめされていたのだろう。母親の死と、妹の憎悪と。それらを簡単に、受け流せるわけはないのだ。だが結局、本人としては真面目でも、義信からすればもたもたとしていて危なっかしいことも多かったので、義信がしゃしゃりでるシーンも多々あったのであるが。
由実の側についてやり、自由のことも支えてやり、義信の貢献度合いといったら、大層な給料をもらってもいいくらいであった。それなのにその上彼は、母親の入院や葬儀に関わる費用を、家計の苦しい家族のために負担してやっていた。さらに言えば、自らの本業である学業でも彼は優秀な成績をキープし、実家の企業にも貢献していた。
後日、義信は多忙な身の上で良かったと皮肉っぽく思ったものである。彼とて兄妹の母親の死に落ち込んでいたのだが、兄妹の面倒を見て自分の面倒を見て、悲しみに打ちひしがれるような暇はなかったから。逆に、悲しみに浸ることもできなかったのだが。
嵐のような時は過ぎ去り、過ぎた時間は悲しみや嘆きを和らげた。
生活は元に戻った――けれど家族が欠けた、それでも変わらない自由のだらしなさに、由実は憎しみをひとまずおいて、彼を教育することにしたらしい。母親がいなくなった今、兄を少しでもまともにするのは自分しかいないと奮起したのだ。
自由の振る舞いが天然なのかわざとなのか、義信にすら判別は難しかったが、少なくとも見かけ上は兄妹が以前と同じように過ごし始めたので、義信は安心した。由実は以前より兄に厳しかったが、それでも彼女が落ち込んだままだったり、元気がなかったりするよりはその方が良いと感じたのだ。
だが、自由がその力の制約について黙っていることが正解なのかどうか、義信にはその時になっても判断がつかなかった。由実が自由に反発して元気に過ごすならそれはそれで良いのだろうが、母親を亡くした時の彼女の荒れようを思い出せば、簡単に肯定できない。しかし、もし由実が知って、母の死に兄妹二人で涙し、二人で支え合って過ごしたとして……、将来、自由までいなくなってしまったら――。
溜め息がめっきり多くなってしまう義信であった。それもこれも、自由のせいである。
母親の存命中、病院の中でも、おそらく外でも、自由は力を使わなかった。あれだけ困っている人に囲まれても、自由が心を揺らすことがなかったのは、自由が元気でいることが母親の望みだったからだ。何より、自由は最後まで母親を助けることを諦めていなかったのだろうと、義信は思う。母親のために、他人に力を使うことを良しとしなかったのだ。それも、結局は叶わなかったのだが……。
母親の死後、その点において自由は変わってしまった。彼は力を使うようになった。義信の怪我を勝手に治したように全く使わないわけではなかったが、頻度が増えた。
といっても、義信や由実がそれを全て把握できていたわけではない。それでも確実に自由が気だるそうにしている時間は増えたし、彼は短い期間であっと言う間に若白髪を増やしていった。そしてその若白髪があったからこそ、義信は気付いた。いつだって気だるげな姿勢の自由だったから、それがなければ義信とて気付かなかったかもしれない。
気付いてから、義信も由実も口うるさく自由を止める言葉を言うようになった。だが自由はへらりと笑い、ふわふわとして二人の阻止をかわすのだ。
一体彼の中で何が起きているのだろうかと、義信は考えていた。
――それなら、なんでこの力はあるのかなァ――
そう言った、自由。
彼は今でも迷い続けているのかもしれない。答えを出すために、力を使っているのかもしれない。
もしくは、迷いが晴れたのか。答えが出たから、力を使っているのか。
だが、力を使うことは、母親の望みに反することのはずだった。妹を置いていく時期を、早めてしまうだけはずだった……。
義信が神経を尖らせる中、自由が教師に勧められて参加した洋菓子のコンクールで優勝し、フランス留学に誘われるということがあった。素晴らしいチャンスだった。
だが、自由はその誘いを蹴り、製菓学校を卒業したら店を出したいと、義信に告げた。由実をここにひとり置き去りにしないための選択と分かり、義信は自由のそれを支持した。躊躇いなく義信は金を出してやり、店を出す手伝いをした。その甲斐あって、店は順調に続いている。店を手伝うことで、由実もさらに生き生きとしていた。
義信は自由がここに残ることを選んだことで、少し安心した。油断も、していたのかもしれない。簡単に由実を置いていくつもりは、自由にないのだと、この時はそう、思ったのだ。
だが、早くもこうして自由は死の淵にいる。
最初から自由に監視をつけておくべきだったかと、義信は思った。だが、自由の力を知る人間は、その力を隠したいならば、少なければ少ないほどいい。義信は人を使うことを躊躇した。
それを今、義信は後悔している。自由の力のことなど誤魔化しようはいくらでもあった。何人でも使って、自由を止めるべきだった、と。
集中治療室の中で、自由はいつ鼓動を止めてもおかしくない状態でいる。何とか一命を取り留めているが、いつ状態が急変してもおかしくはない、そんな彼の白い顔を、由実と並んで義信は見つめた。
あの時――。
苦しみ倒れながら、自由は空を見上げていた。
――ようやく……父さん――
そう、唇が囁くように動いたのを、義信は見逃すことができなかった。
お前は、ずっと追いかけたかったのか。
父親のことを。
母親のことを。
死んだ人間が空にいるなんて、そんな幻想を信じていたから、いつだってお前は空を見上げていたのか。
青い空を、飽きずに見つめていたのか。
由実ちゃんの側に残ったのは、彼女を置いていくまいとしたのではなく、最後のその時まで彼女を見守っていようという気持ちだったのか……。
最初からお前は、生きようとなどしていなかったのか。
だが、そんなことは許されないと、義信は自由を睨みつけた。
――お前はもっと責任を取ってから死ぬべきだ。
自由は義信に金を返していないし、それができないのなら極上の洋菓子で義信の献身に報いるべきだった。
何より妹を泣かした責任がある。これから功居もきっと泣くだろうから、その尻拭いも自分ですべきだ。
彼らの涙は、自由がこれから五十年生きても責任など取れないほどの、悲しみだ。
そう、義信は断じる。
だから、自由は、少しでも長く生き続けなければならないのだ。




