4
サクライは、サナに時計塔の鍵を渡した事をすっかり忘れているようだった。サナは次の日も、そして次の日もその次の日も、サクライから預かっている鍵を使ってこっそりと時計塔に忍び込んだ。アイコはいつも退屈そうに、木箱の上に座って小さな窓から町を眺めていた。そして昼過ぎにやってくるサナの姿を見た瞬間、その顔はふにゃりと嬉しそうに笑うのだ。
サナとアイコは、いつものように一緒に木箱に座って町を眺めた。アイコの部屋は薄暗くほこりっぽかったが、サナもアイコも気になどしていなかった。
「サナの右手は、とってもかたいのね」
アイコは興味深そうに、サナのブリキの手をにぎった。サナはどきまぎしながら、少しアイコから距離をおくように、そっと握られた手を引く。アイコの白く滑らかな指から、鉄色の手がするりとすり抜けた。アイコの手は、サナの手よりも少しだけ大きかった。けれどその指は細く、少し力をいれただけで壊れてしまうのではないかとサナは思った。
「ぼくは、君たちとは違うから」
「違うって、なにが?」
「ぼくは人間じゃないんだ」
「どういうこと?」
アイコは不思議そうに、大きな瞳でサナをじいっと見つめる。サナは、自分の右手をコツコツと左手で叩きながら言った。
「ぼくは、オートマタなんだよ」
「オートマタ」
アイコはサナの言葉を繰り返した。
「なあに、それ?」
この町に住んでいる人間だというのに、オートマタを知らないなどということはありえない。アイコはすっかり記憶を無くしてしまっているらしい。サナは、ここが機械産業の町だということ、人間と同じように動きまわる鉄の固まりがたくさんいることをアイコに教えた。
「じゃあ、サナも中身は鉄の骨とオイルでできているの?」
「そうだよ」
「でも、見た目は私とそっくり」
「そういう風に作られているからね」
「じゃあ、私の中身も鉄とオイルで出来ているかもしれない」
「ちがう、君は人間だよ。リアル・オートマタの製造はもう禁止されているんだ」
それに、こんなにやわらかいものがオートマタであるはずがない。サナはこっそりと、そう思った。さっきまで触れていたアイコの手のひらと、そして唇の感触を思い出して、サナはたまらず彼女から目をそらした。
「じゃあ、わたしはサナとは違うのね」
少し寂しそうにアイコは言った。サナは不思議に思って首をかしげた。
「アイコは、オートマタになりたいの?」
「ううん。サナと同じだったら良かったのにって、思っただけ」
「どうして?」
「だって、サナと同じものになれたら、もっとサナのことを知る事ができるもの」
きらきら光るような笑顔で、アイコはそう言った。サナはぱちくりと瞬きをして、彼女の顔を見つめることしかできなかった。人間の考える事は、わからない。しかしアイコはそんなサナのとまどった表情を気にすることなく、にこにこと笑うのだった。
アイコはサナより少しだけ背が高かった。けれどその知識は、十歳のモモよりも頼りない。サナはアイコが興味を示すものをひとつひとつ、丁寧に教えて言った。時計塔。車。煙突。市壁。
「あれは?」
中央広場の真ん中を分断するように滑り込んできた寂れた車体を見て、アイコが小さな窓から身を乗り出した。サナはアイコの肩越しに広場を見下ろしながら答えた。
「あれは、路面電車。町の外に行けるんだ」
「外に…」
アイコはぽつりとつぶやいて、市壁の向こうを見た。そびえ立つ煙突から煙が町の外へと流れ出ている。町の外はこの時計塔から見ても、果てしなく続く荒れ地が続いているだけだった。
「…何があるの?」
「え?」
「外には、何があるの?」
「外には…」
サナは言いかけて口をつぐんだ。答えられなかったのだ。サナも作られてから、町の外に出た事はない。あの壁の向こうに、その荒れ地を超えた先にどんな風景があるのか、オートマタであるサナが知るはずがなかった。
「…サナ?」
「ごめんね、わからない」
さっきまですらすらとアイコの疑問に答えていたサナの言葉に、アイコは驚いたように彼の顔を見つめた。
「サナにも、わからないことがあるのね」
「うん」
「一緒ね、わたしと」
アイコの微笑みに、サナはためらいがちにうなずいた。
「あ、サナ」
西区に戻ると、自分の身長よりもかなり長いデッキブラシをもったモモがサナに声をかけた。相変わらず、くしゃくしゃの黒髪には寝癖がついている。モリタ・モーターサイクルの磨りガラスの引き戸の向こうから、ケイゴが電話で接客している声が聞こえてきた。
サナはモモの様子を見て、首を傾げた。
「掃除?」
「そう」
モリタの店の前は水と石鹸と機械油がまざった液体が広がっていて、異様な光景になっていた。モモはサナの靴に水がはねるのも気にせず、ブリキのバケツをひっくりかえす。中に入っていた洗剤入りの水が石畳に広がり、溝の間を伝って流れていく。モモがブラシをこするたびに、泡がふわふわと彼女の頭上に舞い上がった。
「ついでに、ミシマの店の前も洗っておこうか」
「本当に?」
「代わりに、今度はサナに掃除をしてもらうけど」
モモはすらりとそう言って、いっそう腕に力をいれた。かたいデッキブラシがこすれるジャリジャリという音と共に、店の前に長年こびりついていた汚れや油がマーブル模様になって浮かび上がる。モモは体も小さいし、年も、小さい。けれど、サナにとってはミシマやケイゴと同じ存在だった。モモはサナの中で手助けするべき『人間』という大きいくくりにいるけれど、『子供』の中に分類されていない。自分よりも頭三つ分以上小さいけれど、モモはサナよりも、誰よりもきっと、ずっと大人だった。
「最近、サナ、この時間にいつも出かけているね」
作業をするモモがサナに背中を向けたまま言った。
「どこに行ってるの?」
「時計塔」
「時計塔?またあの人形、故障した?」
「そうじゃないけど」
「ふうん。あんな寂れた時計塔にのぼるの、楽しいんだ」
「ううん、アイコに会いに行っているんだ」
「アイコ?」
モモが手をとめてサナを見つめた。大きな目が不思議そうにサナを見つめている。
「アイコ…って、ミシマのお客さん?」
「ううん、時計塔に住んでる女の子だよ」
すると、モモはぽかんと口をあけた。
「おどろいた。時計塔に住んでるって、本当に?」
「うん。最上階に近い部屋に、いつも一人でいる」
「そのこと、ミシマは知ってるの?」
そう言われて、サナははじめてミシマを意識した。アイコと話をしていると、そこがミシマが管理している時計塔だということをすっかり忘れてしまう。ミシマはアイコの存在を知っているのだろうか。もし知らなかったとして、彼女の存在を知ったら、ミシマはどうするのだろう。
「…知らないみたいだね」
サナの表情を見て、モモが結論を下した。
「ねえ、モモ…アイコのこと知ったら、ミシマ、どうするんだろう」
「あいつの考える事はわかんない。いつも無表情だし。でも、勝手にミシマの塔に住んでいるんでしょ?その子、昔のわたしみたいに、追い出されるかも」
「そんな」
サナは体を流れるオイルが一瞬で冷たく冷えていくのを全身で感じた。
「アイコは記憶も、なにももっていないのに」
「その子、記憶がないの?」
「うん」
「それで、かくまってるのね」
モモは難しい顔で悩み始めた。サナはじっと待つ。モモはいつだって、サナに正しい選択をおしえてくれるからだ。
「…まあ、黙っておいてあげるよ」
モモはいつもの口調でそう言うと、再びデッキブラシを握り直した。
「ミシマにばれたときは、知らないけどね。でもばれなかったとしても…ずっとそのまま塔に居続けるのも、どうかと思うけど。その子はなんて言っているの?ずっと時計塔にいたいと思ってるわけ」
ちらりとモモはサナを見る。サナは、さっき別れたばかりのアイコのことを思った。彼女は毎日のように、塔の中でサナがやってくるのを待っている。一人でいる時、彼女が何をしているのか、何を思っているのか、サナには全く想像つかなかった。人間の考える事はわからない。
アイコはずっと、あの薄暗い部屋にいたいのだろうか。サナと一緒に。
「モモは…」
サナは、足下を流れていく石鹸水を見つめながらつぶやいた。
「モモは、どうなの」
「どうって?」
「ずっとケイゴの店に居候し続けるの?」
「ずっと町にひきこもってるのなんて、ごめんだよ」
モモはぷくりと頬をふくらませた。その鼻の先を、虹色のマーブルの膜がゆれるシャボン玉がかすって上へと上っていく。
「わたしはお金をためたらね、旅に出るの」
「旅に」
「そう。故郷にいくのよ」
モモの言葉を理解できずに、サナは首を傾げる。モモはいたずらっぽくサナに笑いかけた。
「わたしはね、海にいくの」
「俺のバイクを盗んでか?」
その時、小さなモモの上に大きな影がおおいかぶさった。彼女の背後から大きな人影が現れたのだ。
「ケイゴ」
ごつごつしたリングをたくさんはめた大きな手で、ケイゴはモモの頭を軽くこつんと叩いた。モモは大げさに驚いたふりをして、空をあおぐような恰好でケイゴを見上げる。
「やめてよ、ちゃんと仕事してるじゃん」
「だったら手を動かせ、モモコ」
ケイゴがぴしゃりと言うと、モモは再びぶすっとした表情になって仕事をはじめた。ジャリジャリと地面をこする音。
その時まるでそれに会わせたように、ふいに遠くから耳障りな音がきこえて、サナ達は顔をあげた。
ミシマとモリタの店のある通りに、大きなオートマタがギャタ、ギャタと音をたてながら姿を現した。長身のミシマの頭三つ分は大きいだろう。肩幅も、サナの二倍ほどもある。
円柱型の顔は、丸く形成された目玉と無表情な口だけで作られていて、サナと同じような実用機械人形であるものの表情は固定されているようだ。まるでガラクタをかきあつめて組み立てられたようなごつごつした大きな体は緑青で真っ青に染まり、腕や肘の関節部分の隙間から、ガタガタと回る無数の歯車がむき出しになっていた。
「見たことのないオートマタだね」
モモが手を止めて言った。青錆だらけのオートマタは、自分の足下を流れていく石鹸水を気にする事なく踏みしめて、サナ達の目の前を通り過ぎていった。歪でギザギザした大きな足跡が、乾いた石畳に残っていく。
オートマタはサナ達に脇目もふらず、まっすぐにミシマ・オートマタの扉を横に引いた。そして低い入り口に頭をぶつけないように体をかがめながら、中に入っていった。
「…入ってっちゃった」
「あいつ…見た事がある」
ケイゴはオートマタが消えていったミシマ・オートマタの引き戸を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「あれは、ミシマが作ったオートマタだよ」
「ミシマが?でも、ぼく、あんなオンボロのオートマタ、見た事無いよ」
「当たり前だ、もう何年も前…俺がガキの頃の話だ。サナは、その時まだつくられていなかったからな」
そう言うケイゴの顔色は悪い。もともと悪い目つきで、にらむように引き戸をみつめている。モモは少し心配そうに問いかけた。
「…ケイゴ?どうかした?」
「いいや。ただ…」
ケイゴは静かにサナの方に視線を映して言った。
「めんどうなことに、ならなきゃいいが」