3
長い睫毛の下、黒い宝石のような瞳が、サナを映していた。少女は眠りから覚めて、目の前にいるサナをきょとんとした顔で見つめた。そして小さく首を傾げて、少し血で汚れた唇を動かした。
「…あなたは、だれ?」
少女の美しい声が、サナのぼんやりする頭に響いた。つややかな黒髪が肩から流れる。サナは必死にひきつる喉を動かして、声を発しようとした。しかしまるで歯車が錆び付いてしまったかのように、上手く機能しない。やっとの事でサナは声をしぼりだした。
「…サナ」
サナの言葉に、少女はじっと彼のことを見つめた。サナは震えた声で、言葉を続けた。
「…君は、だれ?」
すると少女は大きな瞳でぱちりと瞬きをすると、優しい声で言った。
「わたしは、アイコ」
「アイコ」
サナはやっとのことで、ただただ彼女の名前を繰り返した。すると、アイコはその大きな瞳を細めて、愛らしく微笑んだ。そして、その美しい唇で彼の名前をつむぐ。
「サナ」
名前を呼ばれたとたん、サナの胸の歯車はまるで外れてしまったのではないかと思うほど大きくはねた。どうしてだろう、アイコと話をすると、どんどんと自分の体が故障してしまうような気がした。サナは数歩じりじりと彼女から後ずさった。アイコは木箱の前に座ったまま、サナの行動を不思議そうに見つめている。
サナはもう一度、アイコに聞いた。
「君は…どうしてミシマの時計塔にいるの?」
「時計塔?」
アイコは首をかしげてサナの言葉を繰り返した。
「わたしは、時計塔にいるの?」
今度はサナが驚く番だった。サナはまた一歩、アイコに近づいた。
「そうだよ。ここは町の中心にある、時計塔。きみは、この町の人?家はどこ?」
「家」
アイコはぽつり、と言葉をもらすと、まっすぐな瞳でサナに言った。
「ここが、わたしの家よ」
「ここが?…家族は?」
「家族…」
アイコはしばらく考えてから、ふるりと首を横に振った。
「わからない」
「わからない?」
「わたしは、アイコ。そしてここは、私の部屋。…それ以外の事は、なにも、覚えていないの」
少女はそう言って、目を伏せた。サナは驚いたまま、アイコをただただ見つめていた。覚えていない。
彼女には、記憶がないのだ。
サナはどうしていいか分からず、黙ったままでいた。その時、静かな部屋にぐう、と腹の鳴る音が響いた。サナのものではない。
「…お腹、へってるの?」
サナの言葉に、腹をおさえて恥じらうようにアイコは顔を赤らめた。そしてこくりと小さくうなずく。
「…うん」
「わかった」
サナはそう言って立ち上がった。アイコは驚いたようにサナを見上げる。
「サナ?」
「ちょっと、待ってて」
サナはそう言うとアイコの返事を待たずに部屋を出た。階段を早足で駆け下りる。薄暗くて足下は見えなかったが、サナは気にしなかった。それよりも早く、早くと、サナは故障してしまったかのようにただただそれだけを思って、じめじめした時計塔から飛び出した。
扉を抜けると暖かい日差しがサナの体を包んだ。中央広場はサクライのようなきっちりした服を着込んだ商人や、よごれたツナギを着た工場の人間、そして実用型オートマタが行き交っている。さっき路面電車がきたせいだろう、時計塔の横にある駅は特に人ごみが激しかった。町の外からやって来た人たちは、こぞって大通りのアンティークショップに押し寄せている。
サナは大通りにある数少ないパン屋へと足を運んだ。町の汚れた空気に負けないように、そのパン屋も香ばしい香りを広場に運んできている。サナはエプロンに入っていたなけなしの金で、店頭に並んでいたデニッシュを一切れ買った。甘い香りに、デニッシュ生地からのぞく赤いイチゴジャム。まるでアイコの唇のようだ。
焼きたてのデニッシュを入れた袋をかかえて時計塔に戻ると、アイコはさっきとそのままの体勢で木箱の前に座っていた。不安げだった表情が、サナの姿を見たとたんにぱっと晴れる。
「ああ、よかった。帰ってきてくれた」
安心した様子のアイコに、サナは買ってきたばかりのパンの袋を差し出した。アイコはきょとんとそれを見つめてから、されるがままに袋を受けとる。そして中身をのぞいて、サナに驚いた表情をみせた。
「これ、わたしに…?」
サナがうなずくと、アイコはとろけるような笑顔をサナにむけた。
「ありがとう、サナ」
その言葉に、サナは全身のオイルが沸騰してしまいそうな感覚に襲われた。こんなの、はじめてのことだった。帰ったらミシマにみてもらおう、そう思いながら、サナは念のためにアイコから数歩離れた場所に腰掛けた。胸の歯車は相も変わらず、いつもと違うリズムで音を立てている。
アイコは夢中でデニッシュをほおばった。ほこりっぽい部屋に、甘く香ばしい香りが広がってサナの鼻をくすぐる。ちらりと横目でみると、アイコは唇にぺとりとついたイチゴジャムをぺろり、とその赤い舌ですくいとった。サナのオイルも一緒に、アイコの腹の中へと入ってしまっただろうか。
じっと見つめていたせいだろう。アイコがちらりとサナをみつめて、食べかけのデニッシュを差し出した。
「…サナも、たべる?」
宝石のような色をしたイチゴジャムが、食べかけのデニッシュ生地の間からきらきらとのぞいている。サナはその赤に吸い寄せられたまま、小さく首をふった。
「大丈夫。帰ったら、ミシマがご飯を用意してくれているから」
「ミシマ?」
アイコが首をかしげ、そのときになってようやくサナは我に返った。今は何時だろう。十二時の鐘が鳴り、サクライと分かれてからだいぶ時間がたっているはずだ。サナはあわてて立ち上がった。
「そうだ…帰らないと」
「帰る?」
「うん。ミシマが待ってる」
すると、アイコが少し寂しそうに眉をさげた。サナに差し出していたデニッシュを自分の口元にもどし、サクリとまた一口かじって飲み込む。
「…また、きてくれる?」
アイコが小さな声で、ほとんどつぶやくように行った。サナは彼女の言葉に全身のオイルが熱くなるのを感じた。きっとアイコの唇よりも、そのイチゴジャムよりも、自分の体に流れているオイルは赤くなっているに違いないと、サナは思った。
「明日も、また来るよ」
「本当に?」
「ほんとうに」
「約束よ」
アイコはそう言って、すっと小指をさしだした。真っ白な陶器のような肌に、すらりとした指先。サナは少し迷った後、ブリキでできた右手の小指をそっとアイコの指にからめた。鉄で出来た指先に、アイコの暖かい体温がほのかに伝わった。
アイコは、ふふっと形のいい唇を弧にして笑い声をもらした。
「サナの右手は、不思議な形をしているのね」
ミシマ・オートマタに帰ると、コンソメの香りが充満していた。店の奥、唯一ミシマとサナが一緒に過ごす小さな部屋のダイニングテーブルの上に、二つの皿が並べられている。ミシマは丁度キッチンから二切れのパンをもってくるところだった。
「遅かったな」
ミシマは責めるでもなく、いつもの口調でぼそりと言った。サナは小さくあやまると静かに食卓についた。湯気のたつ皿の中には、おいしそうなポトフがよそってあった。ごろごろとしたジャガイモや人参に、よく煮込まれたベーコンのピンクがサナの食欲をさそう。
サナとミシマは無言のまま手を合わせると、しずかに昼食をとり始めた。サナのブリキでできた右手が鉄のスプーンとこすれるカチャカチャという音だけが、静かな部屋に響きわたる。ミシマは静かにパンをちぎって口にはこんでいた。必要以上の会話がない、いつも通りの昼下がりだった。
「…サクライに品はきちんと届けられたか?」
低い声でミシマは言った。彼が口にするのはいつも仕事のことだけだ。それは食卓の席でも変わる事はない。
「うん。サインももらってきたから、あとでファイルにはさんどく」
サナはそこまで言って、あ、と言葉をもらした。
「そう、それで、時計塔の人形をついでになおしてきたよ。だから、遅くなったんだ」
「…時計塔の?」
ミシマがスプーンをとめてサナを見た。サナは小さくうなずいて答える。
「うん。あの、アコーディオンをもった男の子の人形…動きがおかしかったんだ。歯車が少しいかれていただけだったけど」
「そうか…他には、」
ミシマはそこまで言ったところで言葉をとめた。ぱらぱらと、乾いたパン屑がミシマの手から落ちる。サナは不思議に思ってミシマを見た。しかし、ミシマはいつも通りの顔で、小さく息を吐いた。
「…いいや、なんでもない」
ミシマはそう言っていつものように黙りこくった。じっと何かを考えているようにも、ただぼんやりしているだけにも見える。きっと誰よりもサナは彼と一緒に過ごしているのに、ミシマの考えていることが分かったことは、彼には一度もなかった。静かに口にパンを運ぶ、ミシマの不格好で痛々しい右手を、サナはじっと見つめた。
ミシマの両手は普段、作業用の軍手に隠されている。それを外すのは寝る時や風呂に入る時、そして食事の時くらいだろう。それだけ彼は作業場にひきこもって出てこないのだ。だから、彼の右手がひどく不格好なのを知っている人間は少ない。
それは、五年前。ミシマがサナの右手をメンテナンスした時のことだった。
ミシマは修理をすると言って、特殊なオイルをサナに飲ませて彼を眠らせた。次にサナが目覚めた時、サナの右手はむきだしのブリキになっていた。そしてミシマの右手もまた、まるで肉をこねくりまわしたかのような、歪な形になってしまっていたのだ。
誤って劇薬を手にこぼしてしまったのだと、ミシマは言った。その証拠に作業台の上には、溶けて穴だらけになった軍手の切れ端が落ちていた。軍手の上にこぼれた劇薬は、その生地ごとミシマの肌を焼いたのだろう。ミシマの肉片が糸に絡まるようにして軍手にへばりついているのを見て、サナは吐き気を覚えた。
『ぼくのせいで、ごめん』
ミシマはサナの修理の途中で右手を溶かした。サナが故障していなければ、ミシマの右手は無事だったはずだ。彼の役に立つために作られたはずなのに、他でもない彼自身の体を傷つけた。サナはその時オートマタとしての強い罪悪感をおぼえた。しかし、ミシマはやっぱり無表情のまま答えたのだった。
『別にかまわない』
それでもやはり、その焼けただれた真っ赤な右手に慣れるには時間がかかったらしい。サナの右手のメンテナンスの後、ミシマは簡単なオートマタの制作でも今までの三倍の時間がかかるようになった。そして、作業途中に鉄切りばさみが、ハンマーが、ドライバーが、コンクリートの床に落ちて大きな音を立てることが多くなった。
しかしミシマは異形のような形になった手でも、毎日のようにオートマタの制作に打ち込んだ。サナの新しくなったブリキの手がゆっくりと彼に馴染んでいくように、ミシマも右手の感覚をとりもどしていった。サナの修理から五年が経った今では、ミシマはすっかり道具を取り落とすこともなくなり、作業の早さも事故が起こる前と同じくらいになっている。
しかし、どうして自分はあの時に修理を必要とされていたのか。サナはついに、思い出す事が出来なかった。
ミシマがパンの最後の一切れを口に運んだ。サナはその赤黒い手をじっと見つめた。焼けただれてから固まった、まるでつぶれた果実のような手の甲。
アイコの口からのぞくイチゴジャムとその赤い唇を、サナは思い出した。