Ⅰ <邪視> 第一章 世界の扉 7
虚空で飛び交う黒い影の飛距離は、人ではなく、喩えるならば肉食獣のようであった。獅子や狼と言ってもいいだろう。更に言うならばこれはゲームではなく、映画でもない。正真正銘の、ノンフィクションの「戦い」だった。それも目の前で繰り広げられている。互いのまなざしはまっすぐ一点に伸びていて、補足する目の色は見えないもののその動きから武具を使用した喧嘩とは言い難い一線を超えた次元での「戦い」を目の当たりにしていた。
その互いの悠然たる躱しは舞いを思わせるほどしなやかで、振るう大鎌も長いリーチを活かした突きや、空中で大きな風車の如き回転を見せる。それに対するローブの青年であろう彼の動きもまた力強く、踵から放つ蹴りからの跳躍は鎌の描く弧に沿うように軽々とその上に軌跡を描く。
幾度と無く繰り返し、ようやく互いに街灯の狭い足場にその足を止めると、出方を伺うように睨み合っていた。
先に動いたのはローブの男で、フラフープのような輪を構え、くるくると回し始める。彼の目の前で挑発をしているかのように見受けられる。思わず声が漏れかけたが、大鎌を持つ死神のような青年の背後には私の目の前にあったはずのベンチが空中に浮いていた。この間にこんな事をするなど、一体どういうからくりを使ったのだろうか。椅子に乗せられた見覚えのあるキャスケット帽ごと、手を一切触れることなくあの重いベンチを浮かせ、その絶妙なタイミングを見計らっている。ベンチごとあの青年は彼を潰しにかかっているのかもしれない。
あのベンチにもし彼が当たってしまえば命に関わることは間違えない。あのベンチを壊さなければ。迷っている暇などない。
破壊の対象となる存在はベンチ、人間を殺すことではない。これで殺人の罪を払拭するなど、さすがに甘い考えだろうが、今救える命を見逃すなど、それこそもう一つの殺人だろう。
私は意を決し右目の眼帯を外した。紐に震える指をかけ、境界から解放する。少々の痛みが右目に走るが、閉じた右目の奥で疼く感覚はいつもの壊す時の痛みであった。今、この眼に閉じ込める対象はあのベンチだけである。その意識から深く息を吸い込んだ。
大鎌をもつ青年はローブの男に接近した。挑発に乗せられたのであろう。しかしその時を待ちかまえていたかのように、ついにベンチが彼をめがけて落ちていく。私は右目にしっかりと対象を捉えた。止めた呼吸、そして右目に走る激痛はこれまで以上に重く、私自身もその反動に全身が硬直した。その時だった。虚空から砂塵が舞い降りたのだ。間違いなく、あのベンチが壊れたものだったのだ。大鎌を持つ男は無傷である。私はそれに安堵し、腰を抜かしてしまったが私の元にまで降り注いだ砂塵と、ネジの断片は間違いなく私が壊したのだ。その様に驚きを見せたのはローブの男の方で、空中で旋回する飛行機のように後方に引き下がる。砂塵が彼の目に入ったのだろうか。
しかし電光石火のごとくその間を駆け抜けたのはおなじ色のローブの影だった。第三者の姿であった。ローブの男よりも小柄であることのみが私にはわかる。そして気付いた時には二つの影は瞬く間に輝きを発し、消えたのだ。
手に握りしめた眼帯を再び右目に当てる。左目だけの、いつもの視界がまた世界を映した。キャスケット帽はどうやらベンチごと消えてしまったようで、布切れ一つ見当たらなかった。