Ⅰ <邪視> 第一章 世界の扉 6
風を斬るように刃先が私の頭上を通り過ぎる。キャスケット帽が虚空を舞ったのが見えた。一体何が起きたのだろうか、まったく理解ができない。風に舞う花弁のように帽子は公園のベンチに落ち、無造作にしまいこんだ髪が露わになる。
そもそも今日だけでなぜ二度も命を狙われているのだろうか。現状での推測は、先刻の自分の家で待ちぶせていた男と同じように、彼も私を知っている可能性である。その目的は分からないが、私という人間を標的としているのは間違いない。
思い当たる節があるとしたら、夕方の車両事故である。それが現状での最も有力な説だ。あの距離で目が引き起こした車両横転事故はタイヤを全て壊した。この目が破壊した瞬間というものを目撃された。そうであれば命が狙われるのもまだ理解できるが、同時に鳥肌が立つ。今度こそ本当に殺される恐怖、それが更に右目の疼きを加速させる。
この状況は良好とは言い難い。痛みと共に疼く目が今この場を変える術なのだろうが、再び赤の他人命を奪ってまで自分の身を守るというのが正義なのだろうか。疑問が行動を封じる。私は大きな刃の前でただただ動けずにいた。バイオリンの奏者であった彼がなぜ、バイオリンを手放し、身の丈をも超える大きな刃を私につきつけたのか。
力なく立ちすくむ私の目の前に徐々に近寄る刃、そのほんの数センチの空間の中で自分の想像をはるかに超えた痛みが走るのであろうと思うと、恐怖で目を閉じ、その広がる黒一面の世界の中にうずくまるかのように身をこわばらせた。
何もかも完全に終わる。ここで生が閉じる。何もかも投げ出して逃げるなど考えた自分を責めるしかない。逃げ出さなければこんな事にはならなかった。家の中で眠りについていれば、明日がいつも通り訪れて、学生としての生活を送る。こんな咎人のように黒ずくめの帽子と外套を纏って逃げるなど、その間に見る「夢」のようなものなのだ。
呼吸を荒げながらも自分の早まる鼓動を脳内で反響させ、ここが現実であるということを否定しようとしていた。
「珍しいな、一人で来るとは」
低く威圧感のある声が私の真後ろから聞こえた。彼の声だろうか、少しだけ目蓋を開くと黒いフードに長いローブに身を包んだ影が自分の真正面にあった。背丈は先ほどバイオリンを奏でていた彼と同じくらいだが、顔が見えない。ただ青いフラフープのような輪を持っていたのが妙に不自然であった。
「一つ忠告だ。 その少女は――」
「お前の忠告は不要だ。 普通ではない事くらい見れば分かる」
高めの声だが、どことなく青年らしい雰囲気を醸している。恐らく目の前のローブの影の主から発せられた声であろう。しかし普通じゃないというのは一体どういったことなのだろうか。謎の青年の話から視線は私の方に向く。その鋭い目の恐怖に私は硬直した。普通ではない、とはどういうことかと問う余裕などこちらにはあいにく持ち合わせていない。
彼のポーカーフェイスからは何も分からない。そもそも初めから、この地でバイオリンを奏でていた時から知っていたのだろうか。普通を騙る私が異質な目を隠し持っていることを。
風ひとつ吹かないこの空間で、先に動き始めたのは紛れもなく彼であった。先ほど自分の首元に当てられていた刃は鎌だったことをこの時理解したが、その姿はまるで死を告げに来た死神のようだった。 片手でその柄を持ち直し私の前に出ると刃先は対峙した青年に向けられる。
「お前のような小賢しい魔術士相手に無駄な時間を割きたくない。ただちにこの場から消え失せろ」
「上等だ。 その言葉が二度ときけなくなるくらい後悔させてやる」
月光の下に二つの影が跳躍と共に浮かぶ。その俊敏な動きは大鎌を持っているとは思えない軽快さだった。対する青年も長いローブを纏っているはずなのに、悠然と鎌を回避する。遊具や街灯に度々足を止め、その僅かな面積を常人離れした跳躍力で次々と足場を変えては、武器を振るう。