Ⅰ <邪視> 第一章 世界の扉 5
なぜこんなに美しい音に気付かなかったのか、それすら考える間もなく、奏者の姿がすべり台の裏から見えた。つやのある赤茶色の髪がさらさらと風になびいている。服装や雰囲気がなんとなくではあるが私と同じくらいの歳の青年だろうとわれるのだが、顔ははっきりと見えない。その影の方へ、手招きするかのような調べに導かれるがごとく私は自らの足で彼の方へと近寄る。その奏でられる音色が次第に耳に大きく響き、心地よい音色に夢心地だった。その音が止まっていた瞬間。まるで砂時計の砂が全て落ちたようなその空白に残された余韻が現実と夢の区別を曖昧にする。先ほどと大きく違うことといえば、目の前にあったのは、先ほどまで月の光を受けていなかった彼の顔であった。黒子一つない鼻筋の通った顔には、切れ長で力強い紫色の瞳があった。その雰囲気はどこか少々幼さも感じられると同時に、生きているのかを疑ってしまうような、まるで氷の彫刻を思わす美しさも兼ね備えていた。初めて会ったはずなのに、まるでどこかで会ったことあるかのようなデジャヴを彷彿とさせる奇妙な感覚もある。私とは程遠い世界、テレビなどの画面という境界を挟んだ世界越しに見ていたのだろうか。
骨格も家の前で会った男とは違う、細身ながらも骨の造りというのが、肉質の硬さと言っていいだろうか、ジャケット一枚羽織っていてもただ華奢というわけではないのが構えていたバイオリンの手つきからよく分かる。スラリと伸びた手足は長く、ひときわ目立つ風貌は本当に今ここに、現実という世界に居るのかどうか存在を疑うほどだった。
暫く彼を眺めていたわけだったようで、鋭さが増した瞳に気付き私は邪魔をしたことにようやく気付いた。彼はこの場でバイオリンの練習をしていた。演奏家が外で演奏をすることなど珍しいことではないはずである。つい見とれてしまったが、曲が止んだ時点で気付かないほど私も気が緩んでいたのだろう。挙句顔をずっと眺めているなど随分初対面の相手に失礼なことをしてしまっていた。
「あの……!ごめんなさい。邪魔してしまって……本当にごめんなさい……」
私は彼に一礼し、その場から去ろうと身を翻す。しかし彼は演奏を再開させず、一瞥すると不自然なことにずっと右目の眼帯を見つめていた。怪我をしていたりするのなら珍しいものでもないが、私の場合においては別である。この目は異常なのだ。隠しているからにはこの能力がばれているわけがない。そのはずなのだが、まじまじと目だけ見られると焦りも生じる。逆にあえてここでその力を使ってしまったらどうなるだろうか。今この目はじりじりと痛みを伴いながらも餌を欲している。眼帯の奥で牙を剥く瞬間というものを伺っているのだろう。鈍い痛みが持続的に身体を苛む。
彼はその鋭い瞳の奥に一体何を思っているのだろうか。あれだけの時間顔を見ていたのだ。変な少女だと思われただろうか。外套に帽子という身なりの怪しさがどう考えても今更だが、典型的な逃亡中の罪人の装いである。疑われてもおかしくはない。ただ、水、いや、季節外れの霰でもふるのか、秋の夜にしては異常なほど凍りつきそうな冷気が生身の脚には鞭を打つかのようだった。この公園の空気全体が冷凍庫のように身を凍らせる勢いで容赦なく風が吹く。ふと私がもう一度彼の方へと身体を向けたその一瞬だった。あと一歩でも歩んでいたら私は恐らく命を落としていただろう。黒光りする刃が、目の前にはあったのだ。私の肩幅よりも大きく広がるそれは、首元にあたりそうなほど近くにあった。身動きなど取れるはずもない。こんな大きな刃に首をはねられたら命があるわけない。それこそ「死」しかないのだ。