Ⅰ <邪視> 第一章 世界の扉 4
震えた手でポケットから無理やりしまいこんだ扉の鍵を出し、鍵穴へ差し込みその奥の空間へと倒れ込むと、外以上に広がる暗闇が更に恐怖へ陥れられた。この暗闇に呑まれてしまう、一枚挟んだ扉の向こうから殺人犯である私を探す者が現れるかもしれない。それ以上に殺してしまったことにより混乱が更にこの目を動かし、部屋の家具や食器を壊した。映るものが音もたてることなく壊れていく。深みにはまっていくその恐怖は割れた鏡の破片に映る自分の姿でさえも簡単に傷つけた。首に走ったその切り傷から血がゆっくりと滴り始め、その痛みからようやく落ち着きを取り戻し始めた。衝動的に破壊行動を繰り返していたが、ようやくそれもおさまった。救急箱から予備の眼帯を取り出し、忌まわしい右目をその奥へ追い込む。傷ついた首には消毒をし、絆創膏を貼ったがこうしてみると眼帯に絆創膏にとあまりにも無様な姿となっていたことにため息がこぼれた。傷の治療はできても、こんなにもすさんだ自分の心には消毒さえできないのだ。
割れた食器を片づけたあと、壊れた家具を直すことなく私はトランクを取り出す。少しの間ここを離れたいという気持ちだった。託された生徒会の引き継ぎなど、頭の片隅にもなかった。無責任かもしれないが既に手は止まることなくあれこれとトランクへと詰め込んでいた。この場に居ることが自然と不安の海に溺れそうで怖かったのだ。
タンスにしまっていたコートを羽織る。制服から着替えることを忘れてただ上に羽織っていた。長く煩わしいほど胸元辺りまで伸びた焦げ茶色の髪を無造作にキャスケット帽へと押し込み私の姿は闇に同化するかのような、上から下まで黒一色だった。季節の変わり目であることが唯一の救いだった。明らかにもう少し時期が早ければこの外套は違和感しか生まない。ただ、残酷に流れる時間は考える余裕さえ全く与えない。今は行動が最優先であるのだ。扉を開き、いつものように鍵をかける。
アパートから離れ、通い慣れた住宅街を進む。集合住宅地の迷路を近道代わりに通る。オフィスの明かりも見慣れた商店街のネオンも何一つ変わっていないのにただ妙にまぶしさを増していたような気がした。ただその変わらぬ風景の中、いつも以上にのしかかる大きな孤独感が、不安で満ち溢れる心に更なる重圧をかける。まるで息の根を止めようとしているかのように見えない手で喉をしめられているかのようだった。殺人の罪の重さがあまりにも大きかった。次第に人ごみを避けるように歩き無意識のうちにまた寄り道した公園へと戻っていた。この場で夕方、一つの命を救ったのだ。それは間違いなく事実で、壊した車が衝突したであろう電柱が傾いていた。とにかく今は命を奪ったという事実から自分が殺人犯であることを認めたくないという逃げでここへたどり着いた。事実とは裏腹に、悔しさや悲しさという感情も消えたのか、それとも自分の中の涙がもう枯れてしまったのか一滴も零れ落ちることはなかった。
一方眼帯の奥で疼き続ける右目は、飢えた獣のように次の破壊の対象となる餌を求めていた。また人間を、草花をあのような姿に変えなければ、仮にありとあらゆるものをあのような無残な姿へと、終焉へと強制的に幕を下ろすことでこの疼きが止むのだろうかという疑問が脳裏に駆け巡る。並ぶ木々も、ブランコも、砂場も何もかも壊したとして疼きは止まるのだろうか。
錆びついたおもちゃのロボットのように重くなった身体がベンチに向く。身を委ねるように腰掛け頭を抱えた。その重みは思考回路を痛みと共に鈍らせる。
何もかも無かったことになればいいのに、むしろこの目がなければこんな惨事が招かれることはなかったと嘆き、忘れたい一心で目を閉じる。天罰がくだるまでの猶予に思いが叶ったのだろうか、空虚に心を浄化するような優しい旋律が響き始めた。バイオリンの甘美な音色がどこからか響いている。繊細だがどこか強ささえその音から伝わっていた。