Ⅰ <邪視> 第一章 世界の扉 3
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どれほどの距離を無我夢中で走ったことだろうか。最初は早歩きだった足が気付いたころには加速していた。いつの間にか目の前にはすでに見慣れた黒色の扉があった。自分の家にたどり着いたのだ。アパートの一室の前に扉と同じくらい見慣れた表札が立てかけられている。勢いに任せて走っていたせいだろうか息が上がり、鍵を握る手が震え、足に力を入れていなければその場に崩れそうなほど疲労の色が表面に出ていた。
「ユキメちゃん、だよねェ?」
声をかけられ驚き顔をあげその主の方へと目を向ける。自分の学校の教員ではない、この近所でも見慣れない厳つい男が立っていた。耳にはジャラジャラと重い金属製のピアスをつけ、メッシュが入った髪は逆立っている。軽率そうであるというのが正直な印象と言っていいだろう。それだけならばまだ何とか会話さえ成立させられそうだったが、彼の手にはナイフがちらついており、背筋が凍る。私は鍵をポケットにしまい首を横に振ることしかできなかった。
「え、違うの?じゃあコレ見つかっちゃったし逃がすわけにはいかないかなァ」
男はナイフをちらつかせながらじりじりと私に近寄り、切りかかろうとその手を高らかにふるいあげた。
「ユキメちゃんってこっちの世界じゃちょーっと有名なコだからさァ、わざわざ探しに来たのになァ!ねぇ、ホントにユキメちゃんじゃないの君ィ?」
「ひっ……!」
恐怖から私は迫りくる男の刃から目をそらしたくて仕方なかった。私が本人であることを告げたら一体どうなるのであろうか。
屈強な男の力はあまりにも大きく私の身はあっさりとその身を倒される。全身を伝う痺れにも似た痛みは駆け巡る血の流れさえ止まってしまったのではないかと錯覚してしまう。
「そんじゃその眼帯取っ払っちまおうかねェ!」
こめかみを冷たい刃が風を纏うようによぎった。閉じた目を開いた瞬間、男の表情はどこか呆気にとられていたような気がしたが、そんなことを考える余裕はどこかへ消え、いつの間にか目の痛みが強く、声さえ発する間もなく『消えた』。刃もろとも男が、家の前で崩れ、焼け焦げたかのような物体と化していた。
自分のしたことを率直に言うなら殺人、それもナイフを所持していた相手とは言え、手出しをされたのかそうでないかのラインからも正当防衛にしてはいさかか行きすぎていると思う。コンクリートの地に焦げているが冷たくなっただろう青年の亡骸は自宅の前であまりにも不自然な終焉を迎えていた。その光景を目撃された様子は幸いなく、ズキズキと痛む右目が再び彼の死骸を映すと更にそれは砕け、黄昏時の空の向こうへ、誘われて消えた。
焦げた砂が遠くへと運ばれ気がついた時には既に影が闇に呑まれていたかのように何もそこには存在していなかった。身体にまとわりつくような生ぬるい風が無意識のうちに流した涙の粒さえ乾かし、先刻のような光景が白昼夢だったかのような非現実という名を与えるに値するほどここには何も残っていなかった。
私は救った命があったにもかかわらずこの目の犠牲を再び生みだしたのだ。その奪った命は形すら残ることなくこの目に喰われた。いや目が喰ったのだ。この戦慄をどう表現すればよいのだろうか。身体の力も目に喰われたのか、支えていた脚が力なく扉の前ですくみ引きずられるかのように膝をついた。ただ、この混乱した思考の中で駆け巡るのは逃げ出すこと、ただそれだけだった。