やくそくの、樹
空気まで凍ったかのような冬の夜、雪の積もる道を歩く二つの影がありました。あまりにも空気が冷たくて遠くまで見晴らしがよいのです。空は冴え冴えと澄み渡り、星々が美しくまたたいています。
二つの影は親子のようでした。大きな影が小さな影を励まし励まし雪の道を進んでいましたが、とうとう歩みが止まりました。ひとつ息をするたびに、ほわりと湯気のような吐息が空気に震えては消えていきます。
少女が母親に訴えます。
「母さん、寒くて熱いよ……」
「まあ、ひどい熱。どうしましょう、村まであと少しだそうだから頑張れる?」
「ふらふら、ふわふわするの」
母親は少女を背負って歩きだしますが、雪に阻まれていくらもいかないうちにこけてしまいました。
さいわい雪が積もっているので怪我はしませんでしたが、その雪は憎らしい存在です。それでなくても日が落ちる前に村に到着する予定が大幅に狂い、夜道を親子二人で歩く危険を冒す羽目になったのです。
親子の目的地ははるか遠く、これまでも結構な時間を旅してきて二人とも疲れ切っていました。
母親は道の脇の窪地のようなところに少女を連れて行きます。まだやわらかい雪を掘り、風よけの雪の壁を作りました。二人でぴたりと寄り添い束の間の休憩を取りましたが、少女の熱はあがる一方です。
来た道を戻ることもできません。二人で行くのも難しくなっていました。
母親はしばらく考えてから少女の肩をだき、胸に引き寄せた頭を撫でました。
「ここは風が防げるし、雪の壁の中は結構温かいの。ここで待っていてくれる? 母さんは村まで大急ぎで行って、助けを呼ぶか薬をもらってくるわ」
「……母さん」
少女は熱のために潤んだ眼差しを母親に向けました。母親はもう一度少女をかき抱いて、自分の外套も着せて少女をくるみます。
「待っていてね。約束よ」
「やくそく……きっと帰ってきてね」
「もちろんよ」
母親は微笑んで立ちあがり、雪道を再び歩き出しました。少女は母親の外套を胸元でかき合わせて、ずっと独り言を呟いています。
「きっと帰ってきて。早く帰ってきて。やくそくよ、かあさん――やくそくよ」
少女の呟きを聞いているのはきん、と冷えた空気と遠くの星々のみでした。
どれほど時が経ったでしょう。少女の頭にもうっすらと雪が降り積もっています。
頬は赤く息は荒く乱れています。ひどく喉がかわいて、少女は雪を一握り口に含みました。
かあさん、と小さく呟いて少女は目を閉じます。少女に眠気がおそってきていました。寒くて熱かったはずなのにだんだんと何かふわふわした気持ちになっています。
「かあ……さん、やくそく……よ」
目蓋の裏に母親を思い浮かべながら、少女はゆるゆると眠りにおちていきます。
雪は横倒しになった少女をふんわりと覆い、母親の作ったくぼみも埋めて白一色に染め上げました。
例年になく降り積もった雪がようやく溶け始めて、道にも人が行き交います。
ある村人が村はずれで母親を、そして窪地で少女を見つけました。雪の季節に出歩くなんて無謀な、と帽子を胸の前にして首を振ります。
ただよそ者は村の墓地には埋葬できません。どんな厄災を持っているかわかったものじゃないからです。病気持ちだったら村に被害が及びます。母親と少女はその場に埋められました。
墓標があるわけもなく、すぐに人々の記憶から親子は消えました。
窪地に小さな芽が顔を出しました。つやつやとした緑色の芽は日の光を浴び、ゆっくりと大きくなっていきます。時間をかけて樹は高さと太さを増していきます。
成長した樹は道沿いに木陰を作り出しました。旅人や隣の村に用のある村人の、格好の休憩場所になりました。体を休めて、さあまた頑張ろうと立ちあがるのです。
反対の方向に行く旅人達が、ほんの一時樹の下で言葉を交わします。
「では、またお目にかかりましょう」
「ええ、お元気で」
そんな口約束を交わす旅人の頭上で、樹は枝を揺らします。
村の人が増え、新しい耕作地が必要になりました。村人はどんどん村の周囲を耕して畑や牧草地にしていきます。道の途中の樹も村人が毎日のように立ち寄り休む場所になりました。
遠くからでも一目でわかる樹は、待ち合わせの目印になりました。
親に連れられた子供が遊びに夢中になってはぐれてしまっても、泣きそうな顔でたどり着けます。親も子供を叱りながら諭します。
「いいかい、お腹がすいたり眠くなったらこの樹のところに戻っておいで」
将来を誓い合った恋人達にも、樹は最高の舞台でした。ちらちらと揺れる木漏れ日は賛美する恋人を美しく見せ、葉ずれの音もたいそう雰囲気を高めてくれます。
「待った?」
「ううん、全然」
はにかみ微笑んで、恋人達は寄り添い腰をおろします。夢中で話しているうちにあっという間に時が過ぎます。一緒に帰ると噂になってしまいます。恋人達は時間差で樹から離れました。
「次は三日後に会おう」
「約束よ。楽しみだわ」
手を振り小さくなる恋人を見送るその上で、樹も優しく夕日を受けています。
長い時が経ち、この樹の下で再会を約束すれば巡り会えるという、そんな噂が立っていました。
村は発展して町になり、かつての畑や牧草地も家や店に変わっています。広場の一角に樹は立っています。周囲が賑やかになっても、樹は静かにそこにいました。
遠い街に商用で出かける父親を、母親と小さな子供達が見送ります。
「おとうさん、はやくかえってきてね。おみやげたくさんでかえってきてね」
「ああ、帰るとも。いい子にして待っているんだぞ」
父親は帰り道で追いはぎにあいましたが、身ぐるみはがされる寸前に助けが入りました。
大事なお金も珍しいお土産も、なにより大切な命も無事に持って帰ることができたのです。子供達はお土産のおもちゃを手にして、樹の下で遊びます。木漏れ日が子供達の髪の毛を明るく照らしました。
親の反対で結ばれない恋人の、一人が町を出ることになりました。
二人は樹の下でかたく抱き合います。
「離れたくない」
「仕事を見つけて成功して帰ってくる。どうか、待っていて欲しい」
「絶対よ。絶対に帰ってきてね」
彼女は涙で塩辛い水を根元に落とし、恋人は去って行きました。彼女は彼を待ちます。
いくつ季節が巡っても待ち続けました。くじけそうになると樹の幹に額をおしつけて話しかけます。
「約束したもの。また会おうって……」
それでも諦めかけた頃、彼女は樹のところに人影を見いだします。
持っていた籠は地面に落ちましたが、気づきもせずに彼女は目を見開いています。
急いで旅をしてきたのか、疲れた様子の、ただ懐かしい笑顔が彼女に向けられました。
「遅くなってすまない。迎えに来たよ」
「……ほんとうに、あなたなの?」
「一緒に来てくれるか? それとも、もう、誰かいい人がいるのかい?」
嬉し涙がぽたぽたと頬を伝わります。不安そうな恋人の胸に飛び込んで、離れまいと抱きしめます。
「そんな人はいない、親に呆れられても……待っていたの」
「ああ、ああ」
胸で泣きじゃくる恋人の背を撫でながら、彼は涙を零すまいと顔を上向けます。
木漏れ日がぼんやりと滲み、光がちらちらと舞っています。まるで、祝福のようでした。
冬も深まった夜、人は寝静まります。またたく星と冷たく光る月と、どこまでも凍てつく空気が町を支配しています。
樹は葉も落ち、淋しげな風情で佇んでいます。
――……さん。
冬の夜空に声なき声がかすかに響きます。それを聞く者は誰もいませんでした。
さらに長い時が過ぎて、町は発展し街になりました。緑はどんどん少なくなっていましたが、約束の樹として樹は大切に守られています。
この頃には国同士の争いが激しさを増し、とうとう若い人は兵隊に取られるようになりました。毎日のように出発する兵隊さんを見送る日々になりました。
「これ、お守りだから」
差し出されたのは樹の葉を紙に貼り付けたものでした。兵隊になった若者は真面目な顔で受け取ると、そっと幹に手を当てました。ずっとずっと前から立っていた樹です。
この樹が、この街が、この国が焼かれないように戦うのです。
「ありがとう」
「怪我や病気には気をつけて。銃や大砲にも気をつけて、戦車にも……」
「僕は遊びに行くんじゃないんだよ。でも、ありがとう……行ってくるよ」
「ここで、必ず会いましょう」
こくりと頷いて若者は軍帽をぐい、とかぶり直しました。くるりと背を向けて足早に樹から離れていきます。頑張れと励ましの声は響きますが、樹のざわめきが悲しげにかぶさります。
辛く、長い、冬の時代が続きました。新聞は戦争一色だし、ラジオだってそうです。
人々から笑顔が消え、街に重苦しい空気がたちこめます。遠くで戦っている家族を、友を、知り合いを思い、樹の下で手を組んで残った人は祈りを捧げました。
早く戦争が終わりますように。早く大切な人が帰ってきますように。
――また、会えますように。
約束の樹の話はある新聞記者によって大々的に伝えられました。昔からこの地に根をはり、人々の暮らしを見守り、不思議なことに樹の下で約束すれば再会がかなう噂をもっていると。記事はこう締めくくられました。
『この地のみならず全ての人の再会の願いが果たされるように、我々はせいいっぱい努力しなければならない』
新聞を手に人々が樹に集まります。戦争が終わるまで、樹の下は祈りの場所になりました。
冬も必ず去って行くように、ようやく苦しい日々が終わりを告げました。
鉄道で、バスで、車で、そして徒歩で……街に若者が戻ってきます。皆、悲しい光を目に宿しています。人として大切なものを戦争は奪い、痛めつけます。死が身近にあり、武器を手に戦う日々は心に重石を投げ込みます。
そんな風に疲れ果てていた若者は、広場に生い茂っている樹を目にします。静かに、それでもしっかりと生きている樹です。
緑は姿を隠すものとしてしか考えられなかったのに、樹の葉はただひたすらに優しく穏やかに心を凪いでいきます。
「――僕は、帰ってきた。僕は、生きている」
震える手で幹に触れると、帰りを待ちわびていた家族や友人にもみくちゃにされます。
みんな、泣いています。若者も泣いています。それは再会の約束が果たされた瞬間でした。
人の一生ならば何度巡るか、長い長い時を生きた樹にも終わりはやってきます。
その時は、冬の夜でした。とうに葉はおち、枝ばかりが淋しげに夜空を突き刺すようにのびています。手を広げているようでもありました。
風もないのに、枝が揺れました。そしてかすかな囁きが冬の空気を震わせました。
――かあさん。
――遅くなってごめんね。迎えにきたの。
――かあさん、かあさん。
――やくそく、したものね。さあ、いらっしゃい。
そうして、樹は静かに立ち枯れていきました。
人々は樹が枯れたのを惜しみました。根が樹を支えていたように、樹は人々を支えていました。根が水を吸うように、人々は樹から勇気や信じる強さや思いやりを吸収していました。
ただ手をこまねいて樹とさよならするつもりはありません。
人々は樹との再会を決めていました。
樹の落とした実から、枝から。
もう長い間、樹はその分身を国中に広げていました。
約束の樹を自分達のところにも。そう願う人々に苗木は分け与えられ、樹は少女も樹自身も知らない土地に根を下ろします。
元の広場にも若木が植えられています。
人の背丈より低い、頼りない細い幹です。それでも人々は嬉しげに樹に話しかけます。
「やあ、また会えたね。再会できて嬉しいよ」