雪狐と人
「行ってしまうのですか?」
そう問う声は、多分震えていたのだと思う。
「あぁ。親が決めたとはいえ結婚しなくてはならない。それに、俺の年齢だと、ここに来るのは、もう無理だろう?」
問いかけではなく、確認の言葉。彼の年の数を両の指で数える。十九……その数字の表す意味を知り、ぎゅと、雪狐は、自分の衣の裾を握りしめた。
「はい」
口からこぼれたのは、感情を押し殺した機械的なまでの返事。「また」「元気で」そのようなやり取りは、なかった。
なぜなら、再びこの地を踏み入れることが彼にはできないのだから。別れの言葉を口にするのが、怖かった。引き留められない己の無力さをかみしめながら、遠のく背中をただ見つめる。
彼が再びこの地に足を踏み入れることはない。その事実が、胸に痛みを与える。
もう彼の背中は見えない。夜霧に姿を隠してしまったのだから。
「わしの忠告をお前さんはちゃんと聞いていなかったのか?」
後ろから深みのあるしぶい声が、かかる。
「忠告無駄にしちゃいました。すみません、長老様」
震える声。衣を濡らすのは、朝露に似た何か。
「傷つくのは、いつもこちら側じゃ。向こう側は、時がたつとわしらの事なぞ忘れてしまう」
「はい」
「雪狐。お前さんは、あの人間のことを好いていたのか?」
「……わかりません」
着物の布越しにふれあうたびに胸の奥底でろうそくの炎が揺れた。その感情の名前を雪狐は知らない。
「どうして……どうして、人間は、大人になるとこの山に入れなくなってしまうのでしょうか?」
「人間にとってここは夢に似た場所じゃ。大人になっていくにつれて人は汚れていく」
「汚れ……そのせいでこの森に入れないのですか? でも、あの人は!」
「少しずつだ。流れに身を任せて、大人になっていくのじゃ。進んで大人になろうとするもの。あがいても、時の流れは等しくその年を連れてくる」
「私はあの人の傍に居たい。でも、無理なのですね」
「人間には、大切な何かを踏み台にしてでも、手に取りたいものがあるのじゃ」
名誉や地位、金、時にそれは異性だったりもする。この森の住民にとっては、何の価値もないもの。それに、人間は固執するのだと、長老様は言う。だけど、雪狐にはどうしても思えなかったのだ。やさしく雪狐の銀の尾を梳きながら、ふもとの世のことを語る彼の心を満たすものが、そんなくだらないものだとは思いたくなかった。この森で一番大事なのは生きることを楽しみ感謝すること。たくさんの奇跡の重なりで出会ったものを大切にしあうこと。思い合うことだ。
人間になってはいないから、妖である雪狐たちと合い話すことができる。なぜなら、その時期の人間はまだ何でもないからだ。妖と同じ。何かであると同時に何でもない状態。あいまいで不確かな存在。
「ふもとへ降りたとしても、もうあの人は私を見つけられないのですね」
「あぁ、人に成ってしまうからだ」
「人に成る前。なんにでもなれて、でもなんにでもなれない存在。また、そういう存在がこの山にやってくることはあるのでしょうか」
雪狐の問は、ふわりと空気の中に溶けだした。
一〇年後、雪狐の問の答えはやってきた。
すっかり習慣となってしまったふもとの様子を探る行為。そんな雪狐の下に一人の幼子が駆け寄る。
「おねえちゃんが、お父さんの言っていたユコ?」
頑是ない幼子は、舌っ足らずの口で雪狐の名を呼ぶ。癖のある濡れ羽色の髪、猫のような大きくてくりくりとした瞳。それは、あの日の背中の持ち主に瓜二つだった。
「えぇ。あなたのお父さんは、この森に入ったことがあるのね」
「うん。お父さんが教えてくれたの。とってもきれいで優しいお狐様がいる森で、よもぎと遊んでくれる
んだって」
「そう」
「あ、これね。ユコにあったら渡してって頼まれたの?」
あの人にそっくりな子供から渡された手紙。そこには、あの人がまだ子供だった時雪狐に教えてくれた
文字で一文書かれていた。その文字を、雪狐は何度も何度も目で追うと、よもぎを抱きしめ瞳から暖かな
しずくをこぼした。
課題作品です。「もしも、私―――――――たら、ここに迎えてくれる?」と同じ世界観です。だけど、ちょっと昔のです。テーマは、「19歳」。だけど、書いていて、テーマがどこ行ってしまった!って感じです。




