3話 柚子と朝と
『んぅ~~…………へぶっ!』
「……おはよう、お姉ちゃん」
『ふぉふぁよぉ、みゅ~くん(おはよう、ユウ君)』
学生男子寮。四階の角部屋。
窓から差す光は淡く、室内はまだ暗い。微かに漏れ聞こえるのは鳥の鳴き声。空気はひんやりとして、春とは思えない冷気が肌を舐める。
ついさっき起床した優弥。眼前に迫る美姫の顔を右手で押し返す。
「くぁ~……、朝早くから、お姉ちゃんは絶好調だね」
『みゅ~くん、ひろいよ。わらしのあいをこびゃみゃにゃいでぇ~!(ユウ君、ヒドいよ。私の愛を拒まないでぇ~!)』
顔全体を覆われつつバタバタと手を振り抗議する美姫。
優弥はもう片方の手で頭をかく。
「拒むつもりはないけど、寝込みを襲うのやめてよ。おかげで『変な気配がしたらすぐに起きれる』なんて、マンガみたいな癖がついちゃったじゃないか」
愚痴からも察せられるように、優弥は幼い頃から美姫に寝込みを襲われていた。
小学生くらいから起床すると美姫に体をホールドされ、傍から見ると金縛り状態に会うことが日常。
中学からは貞操を奪われそうになったこともしばしば。
そのような日々を過ごすうち、優弥が身につけたのが、人の気配を感じると深い眠りからでも瞬時に覚醒することができるという特技。
能力以外で自慢できそうなのが、自衛のために身に付いた体質であるのは、どこかもの悲しい。
『むぱぁ! だって、おやすみ中のユウ君の寝顔が破壊力抜群なのがいけないのよ! 比喩なしに食べたいくらい可愛いんだから! もちろん、性的な意味で! むしろ、睡眠が必要ない幽霊の私が、一晩中お預けをくらっても朝まで襲撃を我慢してた事実を褒めてください!』
「いや、そんなこといわれても困るんだけど」
おはようのディープキスを諦め、優弥の拘束を振り切った美姫は大きな声で力説する。
優弥は背筋に寒いものを覚える。実家にいる頃は美姫が余りにひどい行動に出た場合は他の家族に相談し、抑止力となってくれていた。が、現在二人暮らし。久しぶりに貞操の危機が色濃くなる。
「とにかく、学校の準備しないといけないから、まず僕の上からどこうか?」
『……はぁ~い』
馬乗りになっていた美姫に降りるよう説得。
渋々ベッドから離れ、美姫は優弥の顔が見える位置で浮遊する。
ようやく体の自由を取り戻した優弥は大きく背伸びをし、またあくびを漏らす。
入学式の後、気絶しているものが大半の教室から柚子とともに学生寮へと向かった優弥。入寮の最終手続きを済ませ、荷物の整理が終わった頃に疲れて寝てしまっていた。
そのため、優弥の腹の虫があくびの声をかき消すくらいに鳴ってしまったのは仕方がないといえる。
「お腹減ったなぁ。朝ご飯、作ろう」
優弥たちの学生寮は料理をしない・できない生徒のために食堂もある。
しかし、長年家事を家族に仕込まれていた優弥は自炊派。
昨日の道すがらに買ったささやかな食材で、トースト、目玉焼き、ベーコン、サラダと簡単な朝食を二人分作る。
「ゆうやぁ、ゆうやぁ~」
最後にコーヒーをいれていると、玄関から酔っぱらいのような声と近所迷惑なノックが聞こえる。
早朝から急な来客。優弥は慌てるでもなく、ドアをガンガン鳴らす張本人を出迎えた。
「おはよう、柚子ちゃん。お隣さんとかに迷惑だと思うから、とりあえず入って」
「ん~」
指示通り、おぼつかない足取りで優弥の部屋へと入る柚子。寝間着姿のまま、肩には大きめな鞄。いつもはポニーテールにしている髪は腰まで流れてボサボサ。身だしなみすらしていない。
別に酔っているわけではない。柚子が極端に朝に弱いだけ。
以前はいくら起こしても、布団から意地でも出なかった柚子。
ある時期から実力行使で朝食を食べる習慣をつけさせたところ、半分眠っていても食事を求めて起きてくるようになった。
入寮したときにお互いの部屋を確認し、荷物整理の手伝いをしたため、ほぼ初めての場所でも優弥の部屋を特定できた。
「女子寮からここまで来て大丈夫だった?」
「ん~? ……うん」
半無意識とはいえ、ここまで動けるように仕込んだのは優弥。柚子の来訪を予想して二人分の朝食を作っていた。が、男子寮を徘徊させるのは流石にマズイかと少し心配になる。
「とりあえず、ご飯食べよっか」
「ごはん? たべるぅ」
精神年齢が若干退行した舌足らずな柚子。手を引いて誘導し、食卓に着かせる。
「お姉ちゃん、柚子ちゃん来たよ」
『……本当に来たんだ。同居してたときは同じ家の中だから納得できたけど、ここまでくるともはやもう一つの超能力ね。
それにしても、柚子をこんな無防備な格好で、しかも男子寮の中をうろちょろさせてよかったのかしら?』
「あはは、まあ、それはおいおい相談しよう。
とりあえず、いただきます」
『いただきま~す』
「ます」
三人は手を合わせ、食べ始める。
「はい、お姉ちゃん。あ~ん」
『あ~ん』
美姫は幽霊であるため、食事など必要ない。だが、せめて雰囲気でも味わおうと、食事に毎回参加している。
目玉焼きを租借し、優弥の体に触れることで味覚と嗅覚を得、食事を楽しむ美姫。租借も形だけで食べ物の原形はそのまま残る。
当然消化もできないので、美姫が満足すると優弥が食べる。
柚子は半分寝ている薄目で獲物をとらえ、次々に口の中に放り込んでいた。手に持つ箸の動きはとても意識がはっきりしていないとは思えないほど、機敏で正確だった。
「「『ごちそうさまでした』」」
食事を終え、優弥は二人分の食器を流しに持っていく。食器を洗ったあと、自身もまだ寝間着姿のままのため、着替えようとクローゼットに手をかける。
「優弥。ちょっと頼みたいんだがいいか?」
優弥が自分の制服をとろうとした時。
水洗いの音をBGMにして、完全に目を覚ました柚子に先を越される。脇で鞄の口がぱっくり開き、柚子は中を探っている。
「だいたい予想はつくけど。なに?」
「胸が邪魔だから、またサラシ巻いてくれ。ほい」
優弥は柚子から投げ渡されたものをキャッチ。
手の中にはロール状に巻かれた白い布。
『柚子ったら、また? ダメよ、ユウ君! ユウ君は私の体だけを見ていれば……』
「別にいいけど、柚子ちゃんは女の子でしょ? 小さいときからずっと一緒だったけど、男の前でそんな無防備に、その、胸を出すのってどうなの?」
割って入った美姫を黙殺し、優弥は柚子に訊く。その顔はほんのり赤く染まっていた。
「ずっと一緒だったからこそ、今更だろ? 心配しなくても、胸が育ってからは、優弥以外の男に見せたことねぇし、見せようとも思わねぇよ。それに、優弥がしてくれた方が上手いし、しっくりくるんだよ」
「ブラジャーとかしないの?」
「それこそ今更だ。なかなか合うサイズねぇし、あれ着けると汗かいたらかゆくなって気持ちわりぃし、何よりサラシの方が慣れてるから動きやすい。それに俺のはまだ育ってる節があるし、あんなもんするだけ無駄だ」
『あ、少し分かるかも。夏とか蒸れるんだよね~』
「そんなものかな? でもそんなに邪魔なら、ちゃんと自分でできるように練習してよ? いろんな意味で、結構大変なんだからさ」
「わぁ~った、わぁ~った」
ずいぶんなおざりな柚子の返事に憮然とする優弥。
幼い頃から柚子は大ざっぱで面倒くさがりな性格だったことを知っている。優弥の小言も右から左。とりあえず、自分でやる気がないことは伝わった。
話している最中も柚子は自分の制服やらを取り出し、床に並べる。そして優弥に背を向け、パジャマのボタンをすべて外し、躊躇なく脱いで肌を露出させた。
『相変わらず、柚子は豪快ね』
あまりの漢らしさに呆れる美姫。
「ほら、準備できたぞ。やってくれ」
「……柚子ちゃん、思い切りよすぎ。せめて最初は自分で隠してよ」
優弥は筒状から伸ばしたサラシを柚子に渡した。視線はなるべく柚子へと向けないように注意を払う。
「面倒くせぇなぁ。別に見られて減るもんじゃなし、何で優弥はいっつも顔逸らすんだよ?」
「僕は思春期の男の子なんです、察してください」
「はぁ? 意味わかんねぇ。
っと、できたぞ。後は頼んだ」
『分かんないのは柚子だけだって。一応思春期の女の子なんだし、あって当然の羞恥心は持ちなさいって』
本気で分からない、といった顔をして柚子は白布を数回胸に巻き付け、残りを優弥に交代する。
口にするかしないかは別にして、柚子に対する突っ込みが止まらない優弥と美姫。
「分かったよ。じゃあ、もう巻き付けてある方の端を持ってて。先に少し強めに締めとくから」
「おう」
柚子が布の先端を掴んだのを確認し、優弥は強めにサラシを締める。豊満な乳房は圧迫され、その分だけ小さくなる。それでもそれなりの大きさを残した膨らみの上に、サラシの布を重ねて巻き付けていく。
「はい、できたよ」
「サンキュー、助かった。明日の朝もヨロシク」
「自分で巻く練習してってば……って!」
『ユウ君! 見ちゃダメ!』
小さくなった胸に満足した柚子。そのまますっくと立ち上がり、そのままパジャマの下に手をかけた。
優弥は驚き、慌てて部屋から出て扉を閉める。美姫も優弥の視界を体全体で塞ぎながら後に続く。
「ん~? 優弥、どうした?」
「どうしたじゃなくて! いきなり何やってるんだよ柚子ちゃん!」
「何って、着替えんだよ。先に制服出してただろ?」
「だからって、何で僕がいる前で着替えようとするんだよ!」
『そうよ! まだユウ君には刺激が強すぎるわ!』
「別にいいだろ? さっきも言ったが減るもんじゃないし、優弥に見られて困るもんなんてねぇよ」
「柚子ちゃんがよくても僕がよくない! 少しは気にしてよ!」
「変なやつ。ガキの頃は毛ほども気にしてなかった癖に……」
心底不思議そうな柚子の声音に、扉越しで頭を抱える優弥。
「ガキの頃って、いつの話だよ……。柚子ちゃんはあまりにも僕に対して無防備すぎる」
『これは本気でお説教が必要じゃない? このままだと、柚子ならいつかお風呂まで平気で入ってきそうだし』
「否定できないところがビックリだよ……」
朝から多大な疲労感を覚えつつ、優弥はどのようにして柚子に説得と注意をするか考える。そんな彼を生まれてから見守ってきた守護霊は、隣で肩に手を置き慰めた。
今後の生活に早速不安の種が芽生えた優弥であった。
しばらくして衣擦れの音が止み、柚子が着替えを済ませて部屋から出てきた。
「終わったぞ」
「そう、じゃあもう自分の部屋に戻ってよ。さすがに鞄の中は着替えしか入ってないんでしょ?」
「まぁな。でも最後に、これ頼むわ」
屈託なく笑って柚子が優弥に握らせたのは、少し古いプラスチック製の櫛と赤色の髪留め紐。幼い頃、優弥が誕生日プレゼントとして柚子に贈ったもの。少々古めかしさはあるものの、大切に使われていることはわかる。
「髪も僕がセットするの? 毎日は辛いなぁ」
「安心しろ。明日からは飯と胸の世話だけしてくれりゃあいいからさ」
「ご飯はともかく、サラシは自分でしてってば」
愚痴を吐きつつ、優弥はところどころ跳ねた柚子の長髪を櫛で梳く。寝癖が直ったところで紐を使い、一本で縛った。
「はい終わり。気に入らなかったら自分で鏡見て直してね」
「了解、了解。じゃ、準備ができたら寮の前に集合な」
「うん」
満足そうな表情で優弥の部屋を出た柚子。
玄関で見送った後、思わず漏れたため息。
「はあ。これじゃあ、僕は柚子ちゃんの保護者みたいじゃないか」
『板についてたわよ、ユウ君』
「やめてよ、お姉ちゃん。全然嬉しくない」
自活能力の低い幼なじみの将来を憂いつつ、優弥も登校の準備をするため部屋へと戻った。




