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優弥と美姫と超能力と  作者: 一 一 
一章 入学と波乱と能力者と
22/24

21話 過去と能力者と


~~・~~・~~・~~・~~


『さあ、ここが今日から君の部屋だ』

 声が、聞こえる。

『……ちがうもん。あたしのへやじゃないもん。おとうさんは? おかあさんはどこ?』

 幼く高い声と、低い視点で、周りを見回す。

 そこは子ども部屋。配色はピンクを基調としていて、ぬいぐるみや人形が整然と並んでおり、女の子の部屋といった印象が強い。幼い声の主は少女だった。

『お父さんとお母さんは無事だよ。まだ、ね。

 大丈夫だよ。そんな心配そうな顔をしないでくれ。君が我々のお願いを聞いてくれている間は、君のご両親には一切手を出さない。約束しただろう?』

 振り返り、声がした方を仰ぎ見る。

 一歩分離れた場所にいたのは、白衣を着た男性。光の具合か、どうしても男性の表情は見えない。

『あたしと、おとうさんたちをおどして、あたしをつれだしたくせに、どうやってあなたたちとのやくそくをしんじろっていうの?』

 瞼が絞られ、幼い声は男性を睨みつける。両手はスカートを握りしめ、着衣にいくつものシワが走る。

『……くくく。君はすごく賢いんだね。精神の根本はまだ歳相応だが、知能がずば抜けているという報告に間違いはないらしい。楽しみだよ』

 粘つくような、聞いていて不快な笑い声。

 男性は幼い声の主の背中を押し、部屋の中へと入れる。

『忠告をしておくが、逃げ出そうなどとは考えないことだ。君の両親は我々の監視下にある。それ以外にも下手なことをすれば、即座に殺す。脅しではなく、事実だと思ってくれ。

 たとえ君の両親も、君のような化け物と同類であっても、君たちは人間だと言い張るのだろう? ならば、つけ入る隙はあるはずだ。君が両親の身を案じて、自ら我々の研究に協力してくれたように、ね。

 安心してくれたまえ。君の身の安全と健康は保証しよう。そうでなければ、君のような化け物の研究ができなくなるからね』

 言いたいことを吐き捨て、冷たい声の男性は部屋の扉を閉め、鍵をかける。

『…………』

 残された少女はしばらく扉を睨みつけ、小さな手が真っ白になるまでスカートの布地を握りしめる。

 やがて、少女は部屋の隅に座り込み、抱えた膝に額を押しつける。

『……おとうさん……おかあさん……』

 広い部屋に、少女がすすり泣く音だけが響いた。


~~・~~・~~・~~・~~


 場面が変わる。

『へぇ。君が父さんの言っていた女の子かい?』

 病院のように無機質な廊下を歩いていた人物が、振り返る。

 声をかけてきたのは、中学生くらいの少年。平素からそうなのだろう、人好きのしそうな笑顔を張り付けている。

『……何?』

 発せられた声音は、無感情。声変わりが終わったらしい少年よりも高い声は少女のものだが、抑揚がなく平坦な話し方には何も感じ取ることができない。

『聞いていた以上に綺麗な子だね。驚いたよ。

 ああ、僕は明日、君と父さんの実験の被験者になるんだ。知っているだろう?』

『…………』

『ダンマリか。つれないね。ついでに言うと、このまま行くと僕は君の未来の旦那様だよ? もう少し愛想良くしてもいいんじゃない?』

『…………』

 少年を完全に拒絶し、少女は視線を前へと戻す。

『色々と話には聞いているよ。僕と同い年らしいじゃないか。

 すごいよね。父さんの実験の一環で、何人の男に抱かれたのかな?』

 少女の足が止まる。

『父さんが着手している『能力者研究』のパトロンへの慰安と称した乱交会、だっけ? 酷いよね。研究対象である能力者も、まだ君一人だっていうのに。

 初めては初潮もまだだったんだろう? 変態オヤジどもに好き勝手されて、すっかり心を閉ざしたって聞いたよ。元々心を開いていたわけじゃないらしいけど、君の様子を見る限り、相当深刻だね』

『…………』

『あんな変態どもと比べれば、同い年の僕が相手なら、多少は精神的にマシなんじゃない? ま、すでに調教済みなら、僕みたいなガキの相手は不満かもしれないけど』

『…………』

『あ、そうそう。『能力者研究』は順調だよ。君と同じ化け物が次々と生まれてきてる。君と同じくらいの力を持った能力者は、残念ながらいないみたいだけど、それでもすごいよね。能力者という人種は。

 昔は君らに羨望と嫉妬を抱いた時期もあったけど、明日でそれともおさらばできるとなると、僕も感慨深いよ』

『…………』

『……あのさぁ、僕が一方的に話してもつまらないじゃないか。君も何か喋ってよ』

 少年は呆れたように肩を竦める。無言でたたずむ背中を見つめ、少女の言葉を待つ。

『……一つ、訊いてもいい?』

 少しの間を空け、少年に答える声。

『ん? 何?』

 反応が返ってきたことに気をよくしたのか、幾分機嫌が良さそうに首を傾げる少年。

 そして、少女は再び少年の瞳を眺める(・・・)

『私が望まないのに、私の前に現れる人間に、どうして望む返事をしなければならないの?』

 振り向いた少女は声音同様、何の感情を浮かべていない顔を少年に見せる。すべての表情筋が固まり、ガラス玉のように光を宿さない目。人形や仮面の方が豊かだと思えるほど、少女の表情は死んでいた。

『私はもう、私の帰りを待ってくれている家族を除いて、誰も信じないことに決めた。誰がどんな善意で私を構おうが、誰がどれだけ私の体を汚そうが、誰がどんな感情で私のことを化け物だと言おうが、もう、すべてにおいて興味がない。

 だから、私はあなたへ抱く関心も、何一つ持ち合わせていない。私を妻にするならすればいい。私を抱きたいなら抱けばいい。私の能力を利用するならすればいい。

 私はあなたたちに対して、何の抵抗もしない。家族を守るために。

 でも、その代わり、私はあなたたちに対して、何も提供しない。怒りも、悲しみも、恨みも、殺意も向けない。肯定も、否定もしない。だって、私はあなたたちに対して、何も感じないのだから』

 合成されたような生気のない音を口から発する少女。視線を合わせているはずの瞳は、少年の一方通行であり、少女のそれは何も映していない。

 少年の笑顔は凍り、無意識に少女から離れようと、一歩下がる。

『最初にあなたに反応したのは、そうしろとあなたの父親に命令されたから。今私が話しているのも、あなたが何か話せと言ったから。

 これでいい? あなたの気は済んだ?

 …………私と会話する気がないなら、もう行くから』

 少年の無遠慮な言葉の数々にさらされ、神経を逆なでされたはずの少女は、結局感慨を示す仕草を見せずに少年に背を向ける。

 少女が歩くときの靴音が、壁に大きく反響していた。


~~・~~・~~・~~・~~


 また、場面は変わる。

『…………そうか。あの実験も、失敗か』

『はい。残念ながら。それも、最も忌避すべき事態が起こってしまいました』

 複数の円筒の水槽のようなものを前に、二人の白衣を着た男性が話していた。水槽にはいくつもコードが伸び、複数の機械に繋がっている。何本もある水槽の中には女性が膝を抱えて眠っており、時折口元から気泡を吹き出している。

 暗い声を出すのは中年くらい、比較的明るい声だったのは成人手前と若い。

『しかし、彼女の肉体は残っています。死体の細胞からでも、引き続き研究することはできるでしょう』

『それも限界があるがな。DNAデータはすでに取り尽くしている。それ以外の点から、何か新しい発見ができればいいが』

『まあ、死滅しつつある細胞が無理なら、以前採取して保存してある細胞を使えばいいことです。まだまだ研究はできますよ』

『……そうだな』

 淡々と話す二人の研究者らしき人物。

 そして、彼らの背後には一人の少女。学校の制服を着込み、光を失った無機質な瞳を彼らに向ける。少女の容姿は、水槽にいる女性たちと似た顔立ちをしている。

『それで、失敗作はどうした?』

『ああ、それなら彼女の実家に送りました。あれだけ子どもに拘ってたわけですし、丁度いいんじゃないですか? 僕にあんな失敗作を保護する義理はありませんしね』

 二人の男性は、背後の少女に気づいた様子はない。まるで、その場には自分たちしかいないかのように振る舞う。

『そうか。それならいい。最近は能力者の数も増え、多少の人権が認められている国もあるからな。当初のような処理では、能力研究発祥国といえど、非難は免れないだろう』

『確かに。まあ、能力研究の素体に使っていたとしても、最低ランクの能力者に使い道があるかどうかは疑問ですがね。かさばるだけの生ゴミにしかならないですよ』

 少女は動かない。前髪で隠れた目元の奥から鋭い眼光を飛ばし、実体のない肉体で、ただ、たたずむ。

『それは皮肉か? 劣等能力を身に宿してしまった、私への?』

『いえいえ、滅相もない。健康な肉体というものも、うらやましい限りですよ? 僕らの中には超虚弱体質になる者もいますから』

 軽口を叩く若い男性を睨む中年男性。

 にわかに空気が張りつめてきたとき、部屋の扉が乱暴に開けられた。

『しっ、失礼します!』

『何事かね、騒々しい』

 入ってきた人物も白衣をまとっている。研究員の一人だろう。見た目だけは二人よりも年をとっている研究員だが、畏まった態度をとっており、実質二人の部下。顔は蒼白になり、焦りを隠せていない。

『死亡した被験体の、貴重なサンプルがっ……』

『彼女の遺体がどうした?』

『消えましたっ!』

『なんだとっ!』

 研究員の報告に表情を一変させる二人。

『どういうことだ!』

『そ、それが、我々が防腐処理を終え、冷凍保存しようとしたときに、肉体がひとりでに自壊し始め、数秒でただの砂の山となってしまいました。おそらく被験体の能力が関係していると思われ、我々の干渉ではどうしようもなく……』

 しどろもどろになりつつ、研究員の口から詳細が語られる。

 そして、被験体の能力、という言葉に反応し、二人は眉間にしわを集め、声を荒げる。

『くそっ! あの女! 最後の最後で逆らいおって!』

『何の抵抗もしない、という言葉はやはり嘘だったか。最後まで僕たちの都合のいい人形のままでいればいいものを』

 苦虫を噛み潰したかのような表情をする二人の元に、新たに二人の男女が転がり込んできた。

『研究長!』

『大変です!』

『今度は何だ?』

『被験体の遺伝子データがすべてクラッキングプログラムに変化し、データを保存していた情報端末がすべてやられました!』

『こちらは保存していた細胞の資料が一つ残らず爆発物に変化し、対処する間もなく起爆、誘爆しました! 幸い人的被害はありませんでしたが、保存施設が大破してしまい、復旧は絶望的です……』

『くそっ!』

 若い白衣の男性が壁に拳を叩きつけた。中年男性の方も怒りに顔を歪ませ、右手で髪の毛をかきむしる。

『……いや、まだ遺伝子データには希望があるのではないか?』

『と、言いますと?』

『お前たちは能力によって、常人よりも記憶力がずば抜けているはずだ。データのすべてとは言わずとも、部分的に記憶できているだろう。そこから繋ぎ合わせれば、遺伝子データだけは抽出できないか?』

 中年の白衣の仮説で、少しだけ希望を取り戻した他の研究員たち。彼の言う通り、情報系の能力者であれば膨大な情報をほぼ劣化させずに脳内に記憶できる。

 すぐさま額に手を当て、記憶を掘り起こす情報系の能力者たち。中年の白衣の男性以外はすべて情報系の能力者であったようで、みな一様に記憶の再生を試みる。

『…………っひぃ!』

『うっぷ……!』

『……あっ、あああぁぁぁぁ!』

『うっぐ!』

 すると、突如全員が膝を着き、悲鳴を上げたり、口元を押さえたり、頭を押さえて叫びだしたり、一斉に苦しみだした。

『何だ? 何をしている?』

 困惑する中年男性に、一番早く返答できたのは若い白衣の男性。顔は血の気が引いて蒼白、全身は細かく痙攣し、見るからに衰弱している。

『む、無理です。どうやら、僕たちの、記憶までも、操作、されています』

『どういうことだ?』

『該当する、遺伝子データの、記憶が、すべて、自分を、主体にした、強姦の、記憶に、すり替えられて、いますっ!』

 情報系の能力者たちにフラッシュバックしたのは、身に覚えのない記憶。年齢問わず、何十人もの男たちに羽交い締めにされ、性的暴力を受け続けている自分。

 泣こうが喚こうが、愉悦のみを浮かべた男たちに欲望のはけ口にされている、改竄された忌まわしい経験。それらが一気に目の前に押し寄せ、言いようのない屈辱と恐怖が、研究員たちを襲っていた。

『……ヤツめ、我々に対する当てつけのつもりか!』

 無様に床へ転がっている部下たちの姿を見て、再び怒声を響かせる中年男性。この部屋で無事に立っているのは、中年男性と、一人の少女。

 すると、事の推移をずっと見守っていただけの少女が、不意に右手を部屋の壁へと向ける。

 刹那、轟音が彼らの鼓膜を蹂躙した。

『……っな!』

 立て続けに起こる事件に混乱がピークに達していた研究員たちは、前触れもなく攻撃を受けたように見えた壁へ視線を向け、絶句する。

 そこには巨大な鉄球でもぶつかったかのような亀裂が走り、見るも無惨な状態。

 だが、それ以上に彼らに驚愕を覚えさせたのは、ただ無造作に作られたはずの亀裂の一部が、明確な文字になっていたこと。

 余りに不自然な(ひび)には、英語でこう書かれていた。

『All of me that nothing passes to you belong to me.』

 お前たちに何も渡さない。私のすべては、私のものだ。

 死した少女のメッセージは彼らに届き、誰もが口をつぐむ。

 そんな彼らを眺めていた少女は、やることは終わったとばかりに、彼らに背を向けた。

 振り返ることもせず、一言も発さず、少女は壁をすり抜け、立ち去った。

 静寂に包まれた研究室の中、水槽の中にいたはずの女性たちはいつの間にか消え、代わりとして水槽の底には砂の山が形成されていた。


~~・~~・~~・~~・~~


「…………ぅん」

 緩やかな微睡みを振り払い、目を開けた優弥。

「ん~……、知らない、部屋?」

 ぎこちなく動く首で周囲を確認すると、見たことがない一室で寝かされていると判断。優弥が寝ているベッドの周りはカーテンで仕切られており、優弥のすぐ横には点滴が置かれ、チューブと繋がっている。

 さらに、左腕は包帯とギプスでガチガチに固定されており、指一本動かすことができない。加えて、声も幾分か掠れている。体の固さや倦怠感からも、長時間眠っていたことを悟った。

「お姉ちゃん? いる?」

 静かな部屋に違和感を持った優弥は、美姫を呼ぶ。しかし、返事は返ってこない。能力の使用を意識しても、体に変化は見られない。

「ってことは、あれから二十四時間は経っていない、と。

 ……それにしても、よく生きてたな、僕」

 眠る前の自身の行動を思い返し、優弥は呆れと感心を込めたため息をもらす。

 足を踏み外した深結を救うため、三十階のマンションの屋上付近から加速をつけて飛び降りを敢行。左腕一本で能力を発動し、地面をクッションへと変化させ、衝撃を殺して着地。

 我ながら命知らずな事をしたものだ、と目元に右手を当てて優弥は苦笑。何も考えずに飛び出してしまったあのとき、一瞬でも何かを違えていたら、こうして生きてはいなかった。

「本当に、運が良かったなぁ」

 日頃の行いのおかげかな、と考えつつ、のどの渇きを覚えた優弥は、ナースコールのようなボタンを押した。


 しばらくして、部屋の扉が開く。

 そういえば、この島に病院なんてあったっけ? と今更ながらに疑問を覚えていた優弥。

 誰が来たのだろうか? と首を傾げ、靴音に耳を傾ける。

 そして、カーテンが引かれて現れた人物に、優弥は目を丸くした。

「やあ、意識が戻ったみたいだね。大丈夫かい?」

「……はい?」

 優弥を訪ねてきたのは見慣れぬ人物。柔和な表情で笑みを浮かべる、眼鏡をかけた男性。スーツの上に白衣をまとっており、一応は医者のような印象を受ける。

 親しくはない、しかし見覚えのある男性に、優弥は自分の記憶を探る。そうして、一度だけ、目の前の男性を目にしたことがあることを思い出した。

「あ、博野、教授……」

「そうだよ? 思い出してくれたかな?」

 ニコニコとしたえびす顔で、博野政史はカーテンを閉めた。

 入学式で能力指導長として、新入生に祝辞を述べていた人物の中にいた事を思い出し、目の前の男性がすぐに政史だと思い至らなかった優弥は愛想笑いで誤魔化そうとする。

「教授は、どうしてここに?」

「君がそのボタンを押したからだよ。この部屋は大学の一室で、緊急で搬送された重傷の人間の為に用意された部屋でね。ボタン一つで医療に特化した能力者や、僕に連絡が行くようになっている」

「え? ここ、大学の構内なんですか?」

「そうだよ。この島で一番の治療環境を約束された場所、といえばここだからね。ひどい怪我のせいか、君は丸一日眠っていたが、気分はどうかな?」

「ええ。とりあえず、今は鎮痛剤が効いているようで、特に痛みはないですね。筋肉が固まった感じがする以外で、不調はありません」

「それはよかった」

 ベッドの横にあった丸イスを引き寄せ、政史は優弥の隣へ腰掛ける。相手の警戒心を自然と緩める表情に、何故か優弥は警戒心を覚える。

 漠然と、優弥の記憶に引っかかる笑顔。明確な理由はないが、決して信用してはならないと、脳はずっと警鐘を鳴らしている。

「それにしても、久しぶりだね。君とこうして話をするのは、かれこれ十五年ぶり、ということになるのかな?」

「……?」

 すると、さも懐かしそうに、政史が奇妙なことを口走る。

 優弥はまだ高校一年生。十五年前はちょうど優弥が生まれた年である。優弥とまともな会話などできるはずもない。

「あのときは君にしてやられたよ。まさか君が自作自演で自身の死を偽って僕らの認識を狂わせ、去り際にあんな置き土産をしてくれるなんてね。大変だったんだよ? サンプルもデータもすべて吹っ飛んだ今、能力研究はずっと停滞したままだ。少しは責任を感じてもらいたいんだけど、ね?」

 柔和な笑みの背後に威圧感をまとい、政史は優弥へと詰め寄る。が、語られた内容は優弥にとって、何もかもが身に覚えのないこと。何を責められているのかが理解できない。

「ま、そんなことは今はどうでもいい。過ぎたことだ。現に、君は名と性別、さらには年齢や人格まで偽って、こうして僕の目の前にいる。君にとっては造作もないことだったな、神田優弥君?

 頭のいい君が、僕がいることを知っていたにも関わらず、この島へ来たという事は、僕らに向ける感情に変化があったのだろう? 安心していい。君ならいつでも歓迎するよ」

 だが、すぐに不穏な空気を散らし、政史は優弥の右手を両手で握りしめる。

「歓迎、ですか?」

「ああ、僕の前では取り繕わなくてもいいよ。君のことだ、高校生として入学した自分が、教授である僕にタメ口を叩くのは体裁が悪い、とでも考えているんだろう? 今は僕らしかいないから、気にしなくてもいいよ。監視もしていない。

 ……先に僕の気持ちを吐露すれば、僕はずっと、君を必要としていた。確かに、僕たちが君にしたことを考えれば、許されないことはわかっている。だが、僕の前に現れてくれたということは、少なくとも話し合いの余地くらいはあると思ってもいいのだろう?」

 困惑しきりの優弥を置き去りに、政史は懇願するように優弥の右手にすがりつく。

「『万象改変』。君の力が、必要なんだ」

 真顔となった政史の瞳に、濃縮された狂気が混じる。どろどろとした欲望がたぎり、優弥を人として認識していない、気持ちの悪い目。

 優弥は危険を感じ、政史の手を振りほどく。政史を目にしたときから鳴っていた危険信号が、最大の音量で優弥の頭を駆け巡る。

 産毛が逆立ち、背中にじっとりと脂汗が流れる。自然と瞳孔が拡張され、政史を見返す視線は険しさを増す。

「何の、話ですか?」

 政史との会話から、おそらく自分のことを美姫だと勘違いしているとは気づいた優弥。しかし、美姫からは生前の話をほとんど聞いたことがないために、政史がどのような繋がりで美姫と知り合っていたかは不明。

 そして、政史の尋常じゃない様子から、優弥は話の続きを聞くことを戸惑ってしまう。純粋な害意の固まりのような視線に射竦(いすく)められた状態では、どう転んでも愉快な内容になりはしないと踏む。

 言いしれぬ恐怖で萎縮しそうになる心を必死に奮い立たせ、優弥は真正面から人の皮をかぶったナニカと対峙。もはや優弥には、目の前の男が人間として判断していいかどうかもわからなくなってきている。

「……驚いた。君ほどの能力者が、まさか忘れたのかい?

 君が嫌というほどやってきた『能力者研究』だよ?

 君の『万象改変』によって凡人の肉体構造を変質させ、能力者特有の遺伝子を高確率で子孫に残せる、繁殖力の高い人工の能力者を作り出す。後の第二世代と呼ばれる能力者たちを生み出す実験だ。

 その節では稼がせてもらったよ。研究という名の人体実験が始まった当初、能力者のスペックを示してやったら、世界中の資産家が食いついてきたなぁ。

 誰よりも優れていたい、という虚栄心を満たすのに、超能力はまさに適任だったというわけだ。それに、僕らは活動資金が稼げてまさに一石二鳥。お互い利益のある、実に良好なビジネスだったよ。

 ま、研究初期は君の能力設定も確立されておらず、能力者になった奴らは数年と経たずにバタバタと死んでいったが、現在の安定した能力者たちを生み出すための尊い犠牲になれたんだ。彼らも草場の陰で喜んでいるだろう。

 実験が軌道に乗ったところで、君のクローンを使った能力者研究も進んだよ。うまいことランクの高い能力を残せず、失敗作となった半端者たちも、様々な実験で死んでいったがね。

 でもそれらのおかげで、能力者の持つ基礎身体能力も解析することができたのだから、感謝はしているよ。死体の処理には君も協力してもらったよね? いやはや、肉の塊を金塊に変換できる君の能力は素晴らしいよ。

 そうそう、パトロンだった彼らには金の他にも、人工能力者たちの精子と卵子を提供してもらっていたんだ。これは僕の発案でね、大した金も持たない中流階級にも能力者を大量繁殖させるために、安価で請け負う人工授精をビジネスにした企業を立ち上げたんだ。

 表向きには、不妊治療の新たな一形態の提唱だとか、少子化対策の試金石だとか、より優秀な遺伝子を後世へと残す確実な手段、とでも嘯いてたかなぁ。

 結果は君も知っての通り、数十年で能力者の人口は着実に数を増やしてきている。今や会社は全世界に支社を構え、優秀な能力者たちの精子や卵子は飛ぶように売れているよ。

 弊害としてシングルファザーやシングルマザーが急激に増えたことは一時期社会問題にもなったが、いずれ能力者が台頭する世界になれば、片親も一般的な家庭形態の一つになるだろうから、問題にならないだろうね。

 このままいくと、能力を持たない貧弱な凡人たちは、自然と淘汰されていくだろう。ま、何の力もないクセに数が多いだけでいきがっているバカどもは、滅びて当然だろうけどね。

 しかし、君が死んでからは能力者の繁殖スピードが極端に落ちてしまってね。やはり、即席で創り出せる第二世代とは違い、第三世代以降は成長を待たねばならない。仕方のないことだろうけど、もどかしいよ。

 無能力者である持たざる者の卑しい反発は、数年でもみ消せると考えていた僕も、僕の父も、とても困っていたんだ。

 未だ数の利を得て有利でいるつもりの愚か者どもを黙らせるためには、まだこちらの数的優位性が足りない。だから、君にまた協力してほしいんだよ。能力者を創り上げる設計図は、君の頭にまだ残っているだろう?

 僕たち能力者の、新人類の明るい未来のために、ね?」

 よどみなく流れる政史の舌からは、聞けば聞くほど気分の悪くなる話ばかり。優弥は吐き気を堪えながら、知らず拳を握りしめていた。

「あなたは……」

「ん?」

「あなたは、そのことに何の罪悪感も抱いていないのですか?」

 答えが返ってくるとは思わず、優弥の口からはそんな言葉が漏れる。

 たくさんの人を騙したことに対して。

 人の命をもてあそんだことに対して。

 そして何より、家族の、美姫の人権を踏みにじったことに対して。

 非人道的な行為を繰り返し、美姫に残酷なことをやらせてなお、笑顔で美姫に近づくことができる、政史の精神や人間性が、優弥には到底理解できなかった。

「罪悪感? 何のだい?」

「……っ」

「我々のような選ばれた人類の発展のためには、多少の犠牲は不可避だろう? むしろ、能力者の基礎能力の発見にクローンや生ゴミを使ったのは、とても人道的な行為だったと思っているが?」

 頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を覚える優弥。

 何故、そのような当たり前なことを聞くのか、といった顔で政史は告げた。

 不快感を我慢して政史の瞳を凝視していた優弥は、彼の言葉が本心であると分かってしまった。

 優弥は目の前の人物と、これ以上一緒の空間にいたくなくないと感じた。彼の言動で察せられた本性や、美姫の肉体が告げる本能的危機感が、今すぐ政史から離れろと訴えてくる。

「ああ、君が作り上げた人格は、凡人どもが作った下らない倫理観に忠実なんだね。僕からいわせれば、そんなものはすぐに捨てた方がいい無駄なものだよ。

 僕らは能力者。既存の倫理観などに縛られない、崇高な人種だ。僕らのルールは僕らが決めればいい。君も、いずれ僕らに共感する日が来るだろう」

 表情から嫌悪感が出ていたらしい優弥。それを感じ取った政史はすかさず言葉を挟むが、余計に優弥の癇に障っただけ。

「さあ、共に行こう『万象改変』。君さえよければ君を僕の家族に加えてもいい。僕の家はそれなりに資産も持っている。神田の家とは比べものにならないくらいにね。受け入れる準備もできている。どうだい?」

 優弥は限界だった。

 政史の口にするすべても、美姫をモノとして扱う態度も、自分本位で身勝手な提案も、醜い本性を隠してもはや空虚に見える表情も。何もかもが、優弥と相反する存在だったから。

「お断りします」

 優弥は政史にはっきりと否定を述べる。

 ここで弱みを見せたり引いたりしてはいけないと、理解できない者に対する怯えと震えを隠し、表情筋を引き締めて、己の意志を白衣の男に向ける。

「これ以上あなたと話したくはありません。正直、あなたと一緒の空間にいることが不愉快です。話が終わりなら、退室してくださいませんか?」

 目を丸くする政史に、畳みかけるように口を開く優弥。鋭い眼光で政史を射抜く姿は、優弥の知らない在りし日の少女の姿と重なる。

「……僕の誘いを断る、その理由を聞かせてもらえるかい?」

 政史は相変わらずの笑顔。しかし、よく観察すれば口角が微妙に痙攣している。

「あなたは博野雅さんを知っていますか?」

 問われた優弥が口にしたのは、一人の同級生の名前。思い出すのは、母親だという琴葉との短いやりとり。

「雅? 僕の娘だが?」

「僕が事故に遭う前に、彼女は僕の担任である博野琴葉先生に注意されていたんです。『学校では先生と呼びなさい。ここはあなたの家ではありません』と」

「それが、どうしたというんだ?」

 いきなり関係のない些事を出されて、台詞に苛立ちが混じる政史。

「このやりとりを聞いて、またあなたの反応を見て、正直なところ僕は博野雅さんの家庭で生まれなくてよかったと思いました。家族とは、あのような冷たい他人行儀な関係ではないと思っています。

 厳しくも愛の溢れる温かい家庭で育ち、家族との繋がりを大切にする自分にとって、あなたの家族の形は間違っていると思います」

 母からの叱責を受け、俯きうなだれる少女の姿。

 優弥は雅の寂しそうな背中を見て、同情すると同時に胸をなで下ろしてもいた。

 父のように厳格で、周りの子どもとは違う『能力者』として生きるための心構えを教えてくれた義雄。

 母のように優しく、時に義雄よりも苛烈に、柚子と共に自分を立派に育ててくれた公江。

 ある時は妹のように、ある時は共に切磋琢磨するライバルとして、頼りになる親友でいてくれた柚子。

 そして、いつも傍で見守ってくれた、どんなことがあっても自分の味方でいてくれた美姫。

 決して裕福でなくても、彼らの笑顔に囲まれた十五年の歳月は幸せで一杯だった。

 対して、目の前の男の家庭に、温かさを微塵も感じない。血縁である事実のみがある、形だけの繋がり。それを家族の姿だと、優弥は思いたくなかった。

「それに、あなたはお姉ちゃんに許されざる過ちを犯した、と仰っていましたよね。これ以上の詳細なんてもう聞きたくもありませんが、そのようなことを平気で行える人と歩む道など、持ち合わせていません」

「……ふ、ふふふ。君はまだ分かっていないだけだ。いずれ僕の示す道が正しいものだと気づく。今は分からなくてもいい。だが、僕と一緒に来てもらう。僕とて余裕がないのでね」

 なおも食い下がろうとする政史。言葉通り、なかなか首を縦に振らない優弥に焦れ、片足を小刻みに震わせていた。

 冷たい鋭利な視線を最後に、優弥は重たい体を無理矢理起こした。ゆっくりとベッドの縁に手をかけ、布団から太股を投げ出し、自分の靴に足を通す。

「おい? 何をしている?」

 ベッドの反対側で、ふらつきながらもしっかりと自分の足で立ち上がった優弥。何も語らず動いた背中に、政史は眉根を寄せた。

「あなたが、出ていく様子が、ないので、自分から、出ていこうと、思います。体調は、もう、大丈夫ですので」

 優弥は腕についていた点滴の針を乱暴に外す。余りに雑な外し方だったため、点滴の痕から血が滴る。

 しかし、優弥は構わず歩き出す。

「馬鹿を言うな。君の怪我はたった一日で治るものではない。大人しくしていなさい」

 政史の言うとおり、優弥の歩調は安定せず、すぐにでも転んでしまいそうなほど。ベッドや机などを支えに、何とか立てている状態。

「あなたの、心配など、無用です。あなたも、能力については、知っているでしょう?」

 交わらない視線を疎ましく思いながら、政史は小さく舌打ちをする。

『万象改変』は万能であり、全能。自分の肉体の治療など、他人に任せるよりも完璧に行える。再度政史を拒絶した少女は、暗に政史の援助はいらないと切り捨てた。

「いいのか? ここで僕の誘いを断ると、また君の家族に危害が及ぶかもしれないぞ?」

 苦々しげに、されどいやらしい笑みを浮かべて呟く警告。

 優弥の脳裏で、先ほど見ていた夢に出てきた白衣の人物と、政史の姿が重なる。

「生憎ですが、今の神田家(ぼくたち)は、あなたが思うほど、弱くはありません。あまり、なめていると、痛い目を見るのは、あなたの方ですよ?」

 一度だけ振り返り、嫌悪と侮蔑を込めて見下ろす優弥。驚愕を顔に張り付け、口をポカンと開けている男を一瞥し、すぐに目を逸らす。

 優弥は手すりになりそうな場所を手繰りながら、仕切りのカーテンをくぐる。

「待て! 君は……」

 背後から聞こえてくる声を無視し、優弥は静かに病室の扉を閉める。

「君は、神田美姫では、ないのか?」

 政史の疑問は空気に解け、誰も拾うことはなかった。


~~・~~・~~・~~・~~


 病室を出た優弥は壁に手を着きつつ、ゆっくりと歩く。後ろから白衣の男が追ってくることはない。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 大したことのない動きだが、すぐに息が上がっていく。ただ歩を進めることが、今の優弥にとってはとてつもない重労働となっている。

「うぐっ!」

 案の定、足がもつれてつまづき、転倒。とっさに左腕をかばったものの、全身に伝わる衝撃は普段の何倍も重い。

 蝕む痛み。固まる体。

 優弥はすぐに立ち上がることができない。

「うっ、うぅぅぅ」

 地に這いつくばり、消えない痛みに耐え、小さく呻く。

 すると、優弥の体に膜が包むような感覚が生まれる。

『……ユウ、くん』

 耳朶を打つのは音ならざる声。

「お、ねぇ、ちゃん」

 初めに目の前に飛び込んできたのは靴。

 優弥はゆっくり視線を上へ辿る。

 少し透けた白い足。

 膝上で揺れるスカート。

 優弥から距離を取るように、若干仰け反る上体。

 口元を押さえて隠すように組まれた、震える両手。

 そして、最後には、涙でグシャグシャになってこちらを見つめる、美姫の顔。

『っ! ゆぅ、くん。…………私、……わたし……っ』

 声はひきつり、徐々に明確な言葉にならなくなっていく。

 不安と恐怖に染められて、濡れそぼった瞳。

 眉は情けなくハの字に下がり、とめどなく溢れる涙が手の甲を伝う。

 視線が直線上に繋がり、美姫は一歩後ずさる。

 まるで、優弥に怯えて、逃げるように。

「お姉、ちゃん……?」

『霊感体質』が戻った優弥はすぐさま美姫の異常に気づく。いつも溌剌(はつらつ)としていた美姫が、優弥を避けるような行動をとるのは初めてのこと。

 いぶかしむ優弥の顔を見れなくなった美姫は、顔を背けてうつむく。

『あいつから、きいた、よね? わたしの、むかしの、こと……。わたしがした、ひどい、こと…………』

 大きな過ちを懺悔するように、美姫は自分の体を抱き、口元を引き結ぶ。腕の震えは、いつしか肩を経由し、身体の全体にまで及んでいる。

『わたし……、……わたし、ね? わたしの、のうりょくで、たくさんのひとをね、くるわせたんだ。いっぱい、いっぱい、かずなんて、かぞえきれないほどの、ひとを、いっぱい……っ!』

 こめかみを握り、乱雑に頭を左右に振る。

 乱れた髪が美姫の表情を隠した。

 涙声は続く。己を責めるように。己を傷つけるように。

『ほんとうは、いやだった……。でも、いやだっていえば、おとうさんが、おかあさんが、ひどいこと、される。だから、おとうさんたちを、まもるためには、やらなきゃだめだったの……』

 優弥が生まれたのとほぼ同時期に死んだ美姫。

 意識を持って過ぎ去り、人生を経験した時間は優弥よりも長い。

 しかし、優弥の目の前には、とても幼い少女がいた。

 存在しない声帯が()れ、言葉の合間にしゃっくりが漏れる。

『わたしの、こんなっ……、ゆうくん、だけにはっ、しられたくっ、なかったのにぃっ……!

 ……うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』

 膝が折れ、ついに泣き崩れる美姫。

 人目もはばからず。

 無防備に。

 ただ、泣きじゃくる。

「…………」

 逆に、優弥は力の入らない両足を奮い立たせ、壁や膝に手をついて、何とか立ち上がる。

 一歩。

 一歩。

 とても近くて、とても遠く感じる距離。

 それでも、足を止めない。

 ゆっくりでも。

 確実に。

 自分にしか聞こえない慟哭を。悲嘆を。恐怖を。

 授かった名の如く。

 少女の不安のすべてを受けとめ。

 許すために。

「……お姉ちゃん」

 ふわり、と。

 すでに失った小さい体を、温かな感触が包む。

「大丈夫だよ」

 泣き声が、止む。

「たとえ、お姉ちゃんがどんな惨いことをしていたとしても」

 震えは未だ止まらない。

「たとえ、どんな酷いことをされていたとしても」

 しかし、ゆっくりと顔を上げて、自分にそっくりな顔を見上げる美姫。

「最後まで、僕はお姉ちゃんの味方だよ」

 鏡で映したような、二人の少女。

 片方は涙の跡で真っ赤に腫れて、今にもどこかに消えてしまいそうな表情で相手を見上げ。

 もう片方は相手の何もかもを包み込み、誰もが見惚れる聖母のような微笑みで見下ろす。

 対照的な二人は、抱き合い、向かい合う。

「僕は絶対にお姉ちゃんを拒絶しない。裏切らない。傷つけない」

 無意識に発動した『霊感体質』に乗った言葉が、死した少女の魂を震わせる。

 強大な力を宿し、脆弱な心を強くあろうとした、か弱い少女。

 彼女は一度まぶたを瞬かせ、一筋、涙をこぼす。

「僕はどんなことがあっても、お姉ちゃんを嫌ったりしない。

 だから、泣かないで?」

 幼子をあやすように背中をさすり、苦しくない力加減で抱きしめる。

 笑顔の少女の腕の中にすっぽりと収まった泣き顔の少女。

 優しい温もりに守られた少女は、声も出ずに涙腺を緩ませる。

 忌避すべき事実を知られることで、誰よりも愛おしい少年からの拒絶を受けることに怯えていた少女は、もういない。

 ただ、今は。

 とてつもなく広くて、心地よい優しさに。

 ずっと、少しでも長く、身を預けていたかった。


~~・~~・~~・~~・~~


「……落ち着いた?」

 胸に押しつけられた嗚咽が、段々と小さくなる。震えは止まり、質量を持たない体は身を任せるように寄りかかる。

 しばし慰めるように美姫の背中を撫でていた優弥。頃合いを見計らい、腕の中へと声をかける。

『…………うん』

 返答は、短く小さく、掠れている。

 しかし、憂いが晴れた、軽やかな声。

「行こうか。寮に帰ろう。柚子ちゃんも、きっと待ってるから」

『ぁ、……うん』

 優弥が抱擁を解くと、ほとんど聞こえないような吐息を漏らす美姫。一瞬の間をおいて、顔を隠すように首を縦に振る。

「よし、じゃあ……、っ!」

 目尻を垂れさせ、優弥が立ち上がろうとした。しかし、足にうまく力が入らず、美姫に覆い被さるように倒れ込んだ。

 上から迫る優弥に、美姫は人ならざる動きで立ち上がり、さっきのお返しとばかりに優弥の頭を胸の中に受けとめる。

 そして、接触と同時に『万象改変』を展開。全快した『霊感体質』に染み渡り、優弥の体を作り換える。

「っとと。ありがとう、お姉ちゃん」

 顔を上げた優弥の姿は、少女から少年へと変化していた。着衣も男子の制服となり、左腕に巻かれた包帯は消失。怪我は完治し、優弥本来の肉体へと戻っていた。

『ううん、こっちこそ、ありがとう、ね』

 淡く笑みを浮かべ、優弥を立たせる美姫。静かに横に並んで、優弥の手を握る。

『帰ろっか』

「うん」

 ほぼ一日寝たきりであったが、優弥に不安定な足取りはなく、二人は軽快に廊下を歩く。

 初見の道を行く優弥とは違い、手を引く美姫は迷いなく誘導する。長い廊下を進み、途中エレベーターで一階まで降りる。そして、美姫の先導で歩いた先に、ロビーのような場所へと出た。

「だからぁ! 優弥の病室はどこだよ! さっさと教えろ!」

「俺らは優弥の関係者だろ! どうして何も教えてくれないんだよ!」

「ですから、何度もご説明している通り、博野教授の指示で、今は面会謝絶です。また後日お伺いください」

「俺たちは優弥の家族だぞ! 病室の場所くらい教えてくれてもいいだろう!」

「しかし、……規則ですので」

「柚子、新崎君、それに、お父さんも。今日は無理みたいだから、諦めましょう」

 そこで、言い争いをする集団が目に飛び込んできた。

 受付の女性にすごい剣幕で迫るのは柚子、隆也、義雄の三人。一体どれだけの問答を繰り返していたのか、受付の女性は涙目になっている。

 最後に三人を窘めたのは、ここにいないはずの公江。義雄とほとんど変わらない年齢のはずだが、美姫の姉と言われてもおかしくない外見。

 公江は肉体系Dランクの常時発動型の能力『若時停滞(ヤンガー・エラ)』を持つ。常に能力者の副作用以外の筋力強化がかかり、肉体の老化速度が著しく遅くなる効果がある。

「……ちっ!」

 かなり若く見えても実は義雄と同年代な公恵の鶴の一声で、三人はカウンターから身を引いた。柚子だけは大きく舌打ちを残し、受付の女性を威嚇。

「心配させちゃってたみたいだね」

『当たり前よ。私も、すっごく心配したんだから』

 苦笑を浮かべて隣を向く優弥と、拗ねたような上目遣いで優弥を責める美姫。

「……えっと、ごめんなさい」

『ユウ君が無事だったら、それでいいの。父さんたちにも、ちゃんと謝りに行こうか?』

「うん」

 頷きあった二人は家族と友人の背中を追いかける。

 優弥と美姫の手は、離れることなく、しっかりと、握られていた。


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