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優弥と美姫と超能力と  作者: 一 一 
一章 入学と波乱と能力者と
21/24

20話 救助と能力と


「はっ、はっ、はっ」

 出火したマンションの隣。

 隣が火事であるためか、エレベーターは稼働していなかったため、優弥は階段をひたすら上る。

 優弥が飛び込んだマンションは二十七階建て。少女が取り残されたマンションと比べて三階層分低い。優弥一人の力ではとてもではないが飛距離が足らない。

 それでも、優弥は一人で階段を上る。

「はっ、はっ、はっ」

 そして、息が上がりつつも屋上へと続く扉を開けた。

 少しの間、膝に手をついて息を整え、煙とともに焦げくさい臭いを運んでくる建物を睨む。

「はぁ、はぁ、はぁ。っ、よし」

 額ににじんだ汗を振り払い、優弥は背筋を伸ばす。

 屋上を見回し、十分な助走距離が稼げることを確認。隣のマンションと反対方向の縁へ歩きだし、軽いストレッチで体をほぐす。

「……優弥!」

『ユウ君!』

 そこに、優弥を追いかけてきた柚子と美姫が扉から顔を出す。柚子は多少息が上がりつつ、幼なじみの元へと駆ける。

「二人とも、来てくれたんだね」

「ったく。止めたって、聞きやしねぇのは、お前だろ。他に、妙案があるわけでもなし、優弥も覚悟を決めてんだ。やるだけ、やってやろうじゃねぇか」

『私の力が必要なんでしょ? ユウ君にあそこまで頼まれたら、私には断れないわ。時間がないでしょ? 行きましょう』

 三人は言葉少なに意思を確認しあい、頷く。

『まずは、柚子の肉体、並びに精神の補修を行うわ。時間がないから、今回は部分憑依で行くわよ。ユウ君、柚子の肩に手を』

「……うん、了解。柚子ちゃん、ちょっと肩に触るね」

「ああ」

 美姫の指示で優弥は柚子と向かい合い、両肩を掴む。

『私の精神による『万象改変』の補助がないから、私の体だけの半端な能力になる。だから、ユウ君もできる限り『万象改変』を扱うイメージを頭で構築して。詳細な能力の設定は私が部分憑依したときに補うから』

「わかった」

 部分憑依とは、憑依を体の一部分だけに施すこと。優弥の腕と美姫の腕を同一化することで、美姫の精神そのものを介さずとも『万象改変』のみの発動を可能とする。

 そうすることで『霊感体質』の時間消費を抑えられるだけでなく、『万象改変』の発動速度も速い。しかし、その代わり完全な『万象改変』の発動はできない。が、今回のように柚子の肉体の治療のみなら特に問題はない。

 美姫は優弥の背後から抱きすくめるようにして、優弥の両腕を自分のそれで上から包む。さらに、『霊感体質』が及ばない肉体には触れないため、美姫は優弥の肉体と自分の霊体を重ねる。

 一方、優弥は『万象改変』による結果を強くイメージする。いくら美姫の、情報系の能力者の脳であるとはいえ、優弥本来の能力とは違う能力を使うのは非常に困難。幾度か美姫に体を貸し、間接的に能力を使っている経験をなんとか形にしようとする。

「じゃあ、お姉ちゃんが僕に合わせて」

『ええ』

『万象改変』へ意識を集中させるのに精一杯な優弥に、美姫が優弥の動作と合わせる。

「それじゃあ、柚子ちゃん、力を抜いて」

 優弥に一つ頷き、柚子は瞳を閉じて肩の力を抜く。

「ふぅ、……じゃあ、やるよ!」

 一度頭の中を整理するようにため息をつき、優弥は両腕に『霊感体質』の力を集中させる。

『んっ!』

 そして、優弥の発動と同時に美姫が部分憑依を受け入れ、腕のみ優弥と同化。確実に美姫の霊体と接続できたことを確認し、優弥は『万象改変』を発動。

「…………くっ!」

『落ち着いて。能力はちゃんと発動してるわ。……いいわ、切って』

 数秒後、美姫の指示で優弥は耳にかけたものは残し、腕の『霊感体質』を霧散。疲労以外により吹き出た汗を拭う。

「…………柚子ちゃん? 大丈夫?」

 柚子は目を開け、両手を何度か握ったり開いたりを繰り返す。

「ああ。問題ない。能力もちゃんと使えそうだ。サンキュー」

 ニカッ、と笑顔を浮かべた柚子に、優弥は深い安堵のため息をつく。

「どうした?」

「心配したんだよ。自分でやったこととはいえ、お姉ちゃんとの憑依をあんな半端な状態で、かつ『万象改変』までしたことなかったもの。『万象改変』は、少しでも設定を間違えると、取り返しのつかないことになりかねない能力だから、さ」

『万象改変』は美姫だけに許された、人知を超えた能力。優弥が扱おうとすると、まず『万象改変』に必要な情報量に圧倒される。

 美姫は何気なく能力を使っているが、『万象改変』には発動前に微細な能力の設定が必須。少しでも大まかなイメージを残してしまうと、設定していない部分が何も変化されないままになってしまう。

 例えば、『万象改変』でネズミからウサギを創る場合、生物であることと、ウサギの外観だけを想像して能力を発動すると、見た目は完璧なウサギ。が、生命維持に必要な内蔵、骨格、肉体を構成する細胞の一つ一つがネズミのまま、ウサギの形だけが再現される。

 結果、ウサギのようなネズミは、肉体にそぐわない体内部構成のせいで生命活動を維持できず、すぐに息絶える。

 つまり、ウサギのような生物へ存在を改変しただけであって、ウサギそのものを創ることには失敗する。

 このように、『万象改変』はパソコンのプログラミングのように、すべての指示を入力しておかないと、本当に能力者の望む結果が得られない。

 要するに、汎用性が高いが恐ろしく融通が利かない能力なのである。

 それは人間の治療でも同様。少しでも見落としがあると、治療前の状態と治療後の状態が入り混じり、最悪能力を使う前よりもひどい状態になることもある。

 優弥は美姫の肉体と頭脳を持っているだけの、肉体系の能力者。他の情報系の能力者でも荷が勝つ作業を、間違いなく、短時間で行えというのが無理な話。優弥が憂慮するのも当然。

『大丈夫よ、ユウ君。私がついているんだから、失敗なんてあり得ないわ。部分憑依は確かに完全じゃないけど、不安定じゃないでしょ? ユウ君と繋がったところから私もきちんと干渉できるし、もっと信頼してもいいのよ?』

 さらに存在感を薄めた美姫が、優弥を励ます。優弥の背後で抱きしめるようにしているが、耳にしか『霊感体質』が残っていないため、声しか届かない。それでも、美姫が優弥を想う気持ちは強く伝わってくる。

「あんま考えすぎるなよ、優弥。別に俺はお前になら何やられても文句は言わない。美姫さんとお前がいるなら、後でどうとでもなるしな。

 それに、まだ俺たちは何もしてないんだ。ここでビビってる場合じゃねぇだろ」

「……うん、そうだね、ありがとう。二人とも、やるよ」

『ええ』

「任せろ」

 三人は頷き、優弥は目と耳と足に『霊感体質』を、後の憑依に負担がないよう集中させ、美姫はマンション同士の間の空間へ飛び、柚子は優弥と離れて反対側の縁へと駆ける。

「いいか、優弥! 助走のスピードは落とすなよ! お前を飛ばすとき、そのスピードも上乗せして、体に無理をかけないギリギリの物理エネルギーを渡さなきゃ、届かねぇからな! だから、遠慮せずに俺を踏み台にしていけ!」

 離れた優弥へ聞こえるように声を張る柚子。

「…………ふっ!」

 一度大きく首肯を返して、優弥は全力で柚子へと走り出した。足に込めた能力で走力を上乗せし、柚子との距離を瞬く間にゼロへと近づける。

「お願いっ!」

 柚子の手前で大きく踏み切り、跳躍。優弥は自分を正面から見つめる少女へと突っ込む。

「ぶっ、とべええぇぇ!」

 自身の肩と、腰のあたりで組まれた両手に着地した優弥へ、すぐさま柚子は『力点収束』を発動。自分の体へとふりかかる優弥の体重、踏ん張る柚子を突き飛ばそうとする慣性、その他ありとあらゆるベクトルを、優弥を隣のマンションへ送り届けるためだけの力へ換える。

 そして、超常の力の流れを乗せ、優弥は空へ打ち出された。

 人の筋力では到底出せない速度で空を切る優弥の体。燃えているマンションに近づくにつれ、背後へ通り過ぎる風に混じり、炎による熱波が皮膚をなでる。

 押し返そうとする風の勢いに押され、目も開けていられない状態だが、優弥はなんとか薄目を開ける。

 ぐんぐん近づくマンションの屋上。しかし、柚子に飛ばされた勢いが突風により阻まれ、速度が徐々に落ちていく。

 このままでは、屋上へは届かない。

『ユウ君!』

 優弥が冷静に判断した時。視線を少し下げると、そこには柚子と同じような姿勢で待ちかまえる美姫。

『この距離なら一回のジャンプで十分だから、私が補助するわ!』

 優弥は反応する余裕すらなく、しかし美姫が作ってくれた薄い足場へ意識を集中。一度の跳躍での飛び移りが不可能と判断、空中で姿勢を整え、美姫の力を借りるために方向を調整。

「……っ!」

 目に施した『霊感体質』が弱いため、油断すると美姫の姿を見失いそうになる。かといって、これ以上目に能力を集中させると、足に維持した『霊感体質』が作用しなくなり、美姫の配慮が無駄になる。

 煙と突風が視界を遮り、その上ほとんどの色彩を奪われた霊体を捉えるのは難しいが、優弥は不安定ながらも美姫の元へと近づく。

『いっけぇ!』

 雲のようにフワフワとした不定形な感触を足裏に感じ、優弥はもう一度大きく踏み出す。

「っ、届けええぇぇ!」

 虚空を踏みしめ、跳ね上がった優弥。

 美姫の叫びを後押しに、屋上の縁へ右腕を伸ばした。

「……よしっ!」

 跳躍で浮いた最頂点で、ピンと張った腕が建物の端を掴む。すぐさま優弥は足に集中していた『霊感体質』を右腕にかけなおし、腕力に補正を加えて体を支える。

 あまりに強い風にあおられる体を何とか踏ん張り、優弥はその身を持ち上げて屋上へと投げ出した。

「はぁ、はぁ、はぁっ、よし! 第一関門、突破!」

 大きく安堵のため息をもらし、休む間もなく優弥は即座に跳ね起きた。

『火の勢いが強くなってきたわ! 急ぎましょう、ユウ君!』

「うん! 誘導は任せたよ、お姉ちゃん!」

『こっちよ!』

 一足先に屋上へと降り立っていた美姫が先導し、優弥は走り出した。

 扉を蹴破り屋内へ入ると、すでに通路は煙で充満。視界が真っ白に染められ、手を伸ばすだけで手のひらを見失ってしまいそうになる。

 煙を吸い込まないように姿勢を低くして、優弥は通路を駆ける。階段を下りきったあとも走る速度は普段と変わらず、壁や障害物にぶつかることもない。

『この道をまだ真っ直ぐ。あと三部屋を通り過ぎて、右側の扉が取り残されたモブ子の部屋よ』

 視覚を封じられた状況で迷いなく進めるのは美姫の指示があるため。優弥は『霊感体質』を主に耳にかけて美姫の声を聞き、目にもかけることで前を浮遊する背中を追う。

「一つ、二つ、三つ……ここだ!」

 間もなく美姫が指定した部屋の前へとたどり着く優弥。ドアノブに手をかけ、開け放とうとするが、鍵がかかっているらしく抵抗を受ける。

「鍵が、かかってる。どうしよう、鍵なんて、持ってない。『万象改変』は、保険のためにも、使えないし、僕の、身体能力じゃ、このドアを、破るなんて、できない、だろうし」

『そうね、チェーンもかかってるみたいだし、こっちからは無理そうね。こうなったら、呼び鈴連打よ! この中のモブ子はまだ寝てるから、起こして中から開けさせるしかないわ!』

 視界ゼロになるほど煙で覆われた場所で長居すると、いずれ優弥も危険。とれる手段が思いつかないため、優弥はチャイムを連続で押し、扉を大きく叩きまくる。

「……ゴホ! ゴホ!」

 しかし、一分ほどしても何の反応もない。相当深い眠りなのか、目覚めた様子は微塵もない。

『ああ、もう! さっさと起きなさいよ、ノロマがっ!』

 だんだん焦れてきた美姫は扉をすり抜け、部屋の中に侵入。いまだ幸せな寝息を立てている少女を見つけ、蹴り飛ばしたい衝動に駆られつつ、美姫は『万象改変』を展開。

『いい加減気づけ! 死にたいの!』

 少女に聞こえないだろうことを承知で大きな悪態を吐き、空気を何度も破裂させる。その一つ一つがマンションを襲う小爆発並の音響を誇り、部屋中を音の暴力で包む。

 美姫が起こしたのは、いわゆるラップ現象。何の要因もないのに、いきなり音が響くという心霊現象の一つ。規模が少々おかしいが、美姫が優弥以外の人間に存在を誇示できる数少ない方法の一つ。

「っ、きゃああっ! え? え? なに? なんなの?」

 さすがにこれにはたまらずベッドから跳ね起きた少女、金井深結。自分の部屋から爆発音が断続的に発せられ、外からはそれ以上に急かすように呼び鈴が何度も鳴り、扉が乱暴に殴られる音。

「こわっ! なにこれ新手のホラードッキリ? 私が寝てる間に、何が起こってるのよ!」

 情報が何もない状態で、いきなり理解不能な現象が立て続きに起きたため、深結の頭は混乱状態だった。

 部屋の中に煙があればまだ状況を理解できただろうが、幸か不幸か、深結の部屋には煙はない。その上、カーテンが閉め切られているため、外の様子も確認できない。

『ああもう、イライラする! コイツ、情報系の能力者のクセに、どんだけ間抜けなのよ!』

 目を覚ましても一向に行動を起こさずオロオロする深結に、半ば以上キレかけている美姫。

『こうなったら、煙でいぶりだしてやるわ!』

 最初から深結を丁寧に扱う気のない美姫。新たな強硬手段として、深結の部屋の窓の空間に『万象改変』を集中。先ほどのラップ現象さながらに、ガラスを破壊する威力を保有する空気の振動を起こす。

 乾いた破裂音と、甲高い破砕音。

「きゃあ!」

 いきなり前触れもなく割れた窓ガラスに、いよいよ恐慌状態に陥りそうになる深結。しかし、割れた窓から押し寄せてきた大量の黒煙に、行動を起こさざるを得なくなる。

「ゴホゴホ! 何、この煙……、もしかして、火事? やっば! 早く逃げないと!」

『遅いのよ! こっちはずっと待ってんだから、早くしなさいよね!』

 ようやく事態を把握できた深結は慌ただしく貴重品を整理し始める。後ろでは、早くしろ、死にたいのか、むしろ殺してやろうか、等と急かす美姫。深結には聞こえないという事実は頭から抜けてしまっている。

 最低限の荷物だけ持って、深結は部屋のドアを開け放った。


~~・~~・~~・~~・~~


「…………やく、起きて! ここは、危険です!」

 廊下を走って玄関に近づいたところで、ようやく深結は外から呼びかける女性の声に気づく。

「だ、誰かいるんですか!」

 窓から入った煙はもう室内に充満し、すでに自分以外は避難しているだろうと思っていた深結。人の声を聞いたことにひどく驚き、急いで玄関に向かう。

「あなたを、助けに、ゴホッ! きました! 外は、ゲホッ! すでに、煙で、いっぱいです! 早く、逃げましょう!」

 律儀に返ってきた声は苦しげにせき込む。

「すいません! 今出ます!」

 壁を隔てて救助にきてくれた女性が、どれほどの間自分を待ってくれていたのかと考えると、深結は申し訳ない気持ちで一杯になる。何も知らず熟睡していた数分前の自分を叱りたくなる。

 深結は素早く靴を履き、チェーンを外して鍵を開ける。

「ゴホ、ゴホッ!」

 扉を開けたところで外から襲ってきた何倍もの白煙を顔で受け止めた。とっさに姿勢を低くし、大きくせき込む深結。

「ケホ、ケホ、だ、大丈夫ですか?」

 すると、しゃがみこんだ深結に近寄り、背中をさすってくれる人物。涙目になりながら介抱してくれる少女に視線を送り、硬直。深結は状況を忘れて、少女に見とれていた。

「コホ、え、えと、あなたは?」

「それは、後で。今は、時間が、ありません。早く、ここから、脱出、しましょう。煙を、吸うと、危険ですから、姿勢を低くして、着いてきてください」

 こちらを見つめて戸惑う深結。少女は彼女が不安を感じているのだろうと判断したらしい。深結からかかった誰何を切り、一刻も早く火事の現場から立ち去ろうと、深結の手を取る。

「え? え? あの、」

「僕が、手を引いて、いきます。絶対に、僕の手を、離さないで」

 煙で遮られた視界ではぐれたら面倒だと、少女は深結の手を引いて先導。困惑する深結に構わず、少女はまるで通路が見えているかのように、迷いなく歩を進めていく。

(誰だろう、この人? すごく綺麗……)

 深結は小走りで手を引く少女へ必死に着いていきながら、ちらりと見た(かんばせ)を思い出す。

 避難し損ねた自分を、おそらく命がけで助けにきてくれた少女。行事などの数度しか見たことのない、数分前に電話で会話した生徒会長と勝るとも劣らない美貌。制服も自分と同じものであることから、高校生で同年代であることも気づく。

 しかし、深結は目の前の少女のことを見たことは一度もない。カンナと同じレベルの美少女が、たとえ能力強度が低かったとしても、今まで噂の一つにもならなかったことは不自然。

 四月から肉体系のクラスに、二人の転校生が来たことは深結も知っている。うち一人が女性だとも。だが、彼女が転校生の一人なら、それこそ転入当初からゴシップの的となっていてもおかしくはない。

 深結はその手のネタにさとく、自らも積極的に情報収集しているほど。故に、自分の目はおろか、耳にすら入っていないのはおかしい。

(本当に、誰だろう?)

 そして、それ以上の違和感。

 深結は、少女の顔に既視感があり、見覚えがあった。

 少女本人ではなく、別の誰か。

(わからない、どこで見たんだろう? この人は、誰?)

 Dランクとはいえ情報系の能力者。記憶力には自信があった深結だが、思い出せない。喉に刺さった魚の小骨のごとく、どうしても気持ち悪い感覚が抜けない。

「この階段を、上れば、出口です。がんばって」

 と、思考の渦に飲み込まれていた深結に、少女の声が聞こえる。

 少女にならい視線を前へ向けると、煙に紛れて見える数段の段差。少女の言葉通り、階段までたどり着いたらしい。

「えっ? こんなに、早く?」

 ハンカチで口元をかばいつつ、思わずこぼした驚愕。

 人越島で生活し始めてからの住まいである、このマンションとの付き合いも長い深結。当然、建物の構造は頭に入っている。

 しかし、そんな深結でも、この煙の中ではここまで早く目的地へ着くことはできない自信があった。火事の煙は視界だけでなく、方向感覚までも狂わせている。

 だというのに、少女は幾ばくの逡巡もせずに通路を駆けた。

 少女に対する謎が深まる深結。

「それに、上る、んですか?」

 その上混乱に拍車がかかったのが、少女が口にした避難先である、屋上。脱出するためには階下へ降りる、と思いこんでいた深結の頭は疑問符で埋め尽くされる。

「はい。上ります。時間が、ありません。説明は、後で。早く!」

 困惑する深結に構わず、少女は階段を上り始めた。未だ手を引かれた状態の深結は少女の行動に従うしかない。

 深結は屈んだまま小走り。無理な姿勢であるためか、体力の消耗が激しい。加えて煙のせいで呼吸が浅くなり、息が上がるのが早い。

 普段から運動などをほとんどしない深結。屋上までは二階分を上る必要がある。しかし、その半分しか上っていない現状でも、深結の足は止まりつつあった。

「はぁ、はぁ、はぁ」

「がんばって、もう少し、ですから」

 反面、深結の前を行く少女には余裕が見える。筋肉のつき方から情報系の能力者だと当たりをつけていたが、少なくとも深結よりも体力はあるらしい。

 限界に近づいた体力のしぼりカスを引き出し、深結は何とか走る速度を変えずに少女についていく。

「外です!」

 少女の言葉が鼓舞から歓喜に変わる。

 同時に顔を上げた深結が見たのは青空。背後の扉からは煙が吹き出し、上空へと逃げていく。

 それらを確認し、ようやく深結は屋上に着いたことを理解。安堵から腰が抜け、その場に座り込む。

「はっ、はっ、はああぁぁぁ! し、しんど……!」

 荒れる呼吸を深呼吸で徐々に戻していき、乙女が出しては少々まずい声音で肩を落とす。

「大丈夫ですか? ごめんなさい、無理をさせたみたいですね」

 いきなり巻き込まれた二度目の大きな厄介事への愚痴を吐き出しそうになったところで、深結の前に美少女が出現。

 本来は白磁のような美しさを持つだろう肌は、ところどころ(すす)で黒ずんでいる。それさえ色気に見えてしまう少女に、深結は慌てて出かかった言葉を飲み込む。

「い、いえ! わっ、私の方こそ! あなたが助けに来てくれなかったら、今も寝てただろうしっ!」

 不意打ちを受けて動揺していた深結。言わなくてもいいことを口にしてしまい、羞恥心が沸き上がる。よくよく考えればその前の女として終わっている声も少女に聞かれていると気づき、恥ずかしさで一気に赤面。

「……ふふふ、さすがにそれはないでしょう。でも、僕がお節介をしたことでお役に立てたのなら、嬉しいです」

 目をパチクリさせてきょとんとした表情を見せた少女は、一瞬後、小さく吹き出して笑みをこぼす。

 深結は人をとろけさせるような少女の笑顔を至近距離で見つめた。

 深結は胸を打たれた。こうかはばつぐんだ。

「でも、安心するのはまだ早いですよ。僕たちの足下はまだ燃えています。今度はこの建物から離れなければいけません」

 数秒間笑っていた少女はすぐさま表情を切り替え、真剣な様子で深結と向き合う。少女の言葉で深結は現状認識を改め、首を縦に振る。

「それはそうですが、私たちは屋上に来てしまいましたよね? ここからどうやって建物から退避するんですか? このマンションはどんな能力であっても、容易に飛び降りれる高さではありませんよ? それに、

今日は風も強いみたいですし、ほぼ不可能と言っていいのでは?」

「わかってます。だから、隣のマンションに移ります。着いてきてください」

 少女は立ち上がり、屋上の縁へと歩いていく。深結も少女に続くが、少女の言葉に目を丸くする。

「ちょっ、待ってください! 隣に移るって、どうやって?」

「僕たち(・・)の能力を使います。空中に足場を作りますが、僕の状態からして、能力の維持時間は短いでしょう。ですから、僕が通る場所を、全力で駆け抜けていただくことになります。よろしいですか?」

 よろしくない! と、よっぽど叫びたかった深結。しかし、前を行くピンと伸びた背筋が、場を和ませるような冗談ではなく、本気の提案であると暗に語る。そんな姿に、とても無理だとは言いづらかった。

「お~い!」

 屋上の端まできたところ、隣のマンションの屋上から別の少女の声が聞こえる。

 深結は少しだけ身を乗り出すと、そこには活発で気が強そうな少女が大きく手を振っていた。次に目がいくのが、振られる腕とともに揺れる巨乳。発育不良だと自負している深結にしてみれば、あちらの少女は容易に敵だと判断できる。

 ちなみに、あの敵と同様、カンナや自分を助けに来た少女もプロポーションは最高だが、すでに信仰の域に達していれば嫉妬心など湧かない。むしろ、彼女たちが理想であり、完璧であって当然だと考えている。

「要救助者って、そいつか~?」

「そうだよ~! 今からそっち行くから~!」

 少女と敵が口元に手を当て、会話をしている。何とも間の抜けたやりとりに脱力しそうになる深結。

 しかし、空気を一変させた少女の気配に促され、深結も気を引き締め直す。

「……行くよ、お姉ちゃん」

 何かのおまじないだろうか? 小さく姉のことを呼んだ少女は膝を折り、両手を地面へつける。時折眉をひそめる場面もあったが、集中している様を邪魔する気は起きない。

「よし、できた」

 ただ、数秒もすると手を離してしまう。少女の能力が発動したようだが、深結には何か変化があったようには見えない。

「あ、あの? 何を?」

「何とか、足場を作ることに成功しました。空気を固めただけなので、視覚的にはわからないでしょうけど、僕には察知できます。

 なので、僕があなたを誘導します。決して広い道ではありませんので、僕が走る場所以外は踏もうとしないでください。いいですね?」

「で、でも……」

 深結は少女に問われ、次いで屋上から下を見てしまう。風が起こす轟音、立ち上る煙、地面までの遠い距離。頷かなければと思う反面、死ぬかもしれないという不安が襲い、躊躇してしまう。

 わずかの間が空き、突如起こった大きな爆発がマンション全体を揺らした。

「きゃあ!」

「くっ! もう、時間がない」

 あまりの振動に直立できず、うずくまる二人。

「今のうちに、行きましょう! 立てますか?」

 揺れが収まったところで立ち上がった少女は深結に右手を差し出す。

「ごめんなさい、こ、腰が抜けて……」

 しかし、深結はその場から動けず、足に力を込めようにもうまく力が入らないでいた。少女の手を反射的に握るも、下半身は一向に動いてくれそうもない。

「……仕方ありません。少し、失礼します」

 整った眉をわずかに歪ませ、少女は深結に断りを入れてから背を向けて屈み込んだ。そして、深結の腕を自身の首に絡ませ、両足の膝裏を腕に抱え込んで持ち上げた。

「わっ! わわわ」

「僕が負ぶっていきます。しっかり掴まっていてください!」

「え? ちょっ! 待っ」

 慌てて拒否しようとする深結。少女は聞こえていたのか、いなかったのか、深結の言葉を黙殺して空中へ一歩踏み出す。

「ひっ!」

 反射的に出そうになった悲鳴を飲み込む。深結はより一層力を込めて少女へしがみついた。

 物理的圧力を持った突風が吹き荒ぶ。体を支えてくれるような手すりなどない。眼下には集まった野次馬たちが小さく見える。それだけで、背筋が一気に冷えきっていく。

 加えて、虚空を踏みしめた少女の体から伝わる振動は、まるで沼地へ足を踏み入れたかのよう。一歩を踏み出す度に足が沈み、体が若干下がる。いつ落ちてしまっても不思議ではない。

 不安定な上ここまで足を取られる道であれば、深結が自分の足で進んだとしても途中で諦めていたかもしれない。

 だが、少女は空の悪路を平気で走っていた。ただでさえ、少女は深結を背負っている状態であり、体力の消耗も激しいはず。だというのに、全く負担を感じさせない足取りで、少女は下り坂を駆け下りる。

「もう少し、我慢してください。もうすぐで、つきますから」

 道の半分を進んだとき。多少息を弾ませながら、深結を心配して声をかけた少女。

「はっ、はい!」

 声を震わせながらも何とか返答をした深結。半分を過ぎたところで精神的に余裕が生まれ、助かるかもしれないという希望が湧く。

 また、どう見てもAランクの能力者である少女が最低ランクである自分を気遣ってくれることが嬉しくて、深結の顔は自然と綻ぶ。まるで物語のお姫様のようだ、と状況も忘れて思考が浮かれる。

 できれば王子様に助けてもらえたらな~、とバカらしい妄想にふけりそうになったとき。

「……うわっ!」

 残り四分の一、といったところで少女が焦ったように立ち止まった。

「きゃあ!」

 直後、襲いかかってきたのは横殴りの強風。今までの風とは段違いの風圧。ただしがみついていただけの深結も、油断すれば飛ばされてしまいそうになる。

「……、……!」

 必死に地面を食いしばる少女とは別に、誰かの声が聞こえてくる。おそらく隣のマンションにいた(しょうじょ)のものだろうが、深結の鼓膜は風によって引き起こされた雑音しか拾わず、何を言っているのか判別がつかない。

「うっ、ぐぐぐぐ」

 なかなか収まってくれない風圧による大砲。作為を感じるほど長く、強大な力の前に、深結の腕が悲鳴を上げつつある。

 人間が使う能力とは比べものにならない自然の脅威。圧倒的なまでの暴力は、人間の必死の抵抗をあざ笑うかのように、ちっぽけな二つの命を気まぐれに弄ぶ。

(こっ、こんなときにっ、『流動運気』が、マイナスに、傾かなくても、いいじゃない!)

 深結は内心で自分の能力を罵った。どうしようもない状況に対する追い打ちは、深結が幾度も経験したことのあるもの。単なる経験測から、深結は自分の能力が暴走していることに気づいた。

『流動運気』は暴走すらも気まぐれに起きてしまう。深結の精神状態など関係なく、規則性も持たない。また、普段は深結だけに起こる能力の影響が他者にもふりかかる迷惑仕様。

 制御を離れた『流動運気』は能力者の意図を無視し、不運の上に不運を重ねる。一度として深結の意志をくみ取ったことのない能力は、それ自身が意志を持つように二人を窮地へ陥れる。

「……も、ダメ……」

 離れてはいけないと頭ではわかっていながら、徐々に弛緩していく腕と足の筋肉。一方向へと流れ続ける風がじわじわと疲労を蓄積させ、真綿を絞めるように追いつめていく。

 そして、遂に深結の筋力に限界が訪れる。

「あっ……」

 するり、と抜けてしまった腕。それをきっかけにして、胴体が風に煽られ、足を抱えていた少女の手も外れる。

 事態に気づいた少女が、何とか足場にしていた場所へ着地させようとするが、深結の足は不可視の地面の縁を滑って踏み外し、体勢を整える間もない。

「~~!」

 あまりにも呆気なく、空中に投げ出されようとしている深結。

 痛いほどの風圧を直に受け、体中が冷気に包まれる。

(あ、私、死んだわ)

『流動運気』のせいで、幾度となく酷い状況に立たされてきた深結。何度かは死ぬ一歩手前まで陥ったこともあり、それでも原因である『流動運気』に助けられて生き残ってきた。

 しかし、そんな深結でも今回はどうしようもないと悟ってしまう。頭を下にして落ちようとする自分の体。スローモーションで傾いでいく自分を、どこか冷静に見ている。

 とてもゆっくりに感じる時間の中、視界に映ったのは一人の少女。驚きに目を見開き、こちらへと手を伸ばそうとする。

(ああ、この人に、悪いこと、しちゃったな)

 名前も知らぬ、初対面の少女。

 それなのに、身の危険を省みず、深結を助けにきてくれた少女。

「ごめんね」

 この風では声が伝わるかはわからない。

 しかし、一言謝罪しておきたかった。

 自分のせいで迷惑をかけてしまったことに対して。

 少女の行動を無為にしてしまったことに対して。

 そして、見ず知らずの人を助けようとするほど優しい少女に、自分を助けられなかったという重い枷を背負わせてしまうことに対して。

 いろんな思いを込めた言葉を最後に、背中から倒れ垂直落下。

 そのまま、深結の目は閉じられ、意識が途絶えた。


~~・~~・~~・~~・~~


 屋上へと深結を誘導した優弥と美姫。

 すぐさま二人は部分憑依を行い、二度目の『万象改変』で大気に干渉。しかし、焦りを覚えた優弥の能力設定が甘かったためか、圧縮した空気は半端な硬度となってしまう。

 さらに、大気の橋を渡ろうとする寸前、新たな爆発が生じた。その際、深結が腰を抜かしてしまい、優弥が背負って移動することに。

 立て続けに起こるアクシデント。まるで何か見えない力が誘導しているよう。

 態度には出さずとも、わずかな不安を抱いていた優弥。そして、優弥の危惧が現実になったのは、あと少しで柚子の元へとたどり着けるというところ。

 不自然な突風が二人を巻き込み、身動きがとれなくなった優弥。何とか足を踏ん張って耐えていたが、突如首に絡まった腕の感触が消えた。

 慌てて視線を後ろへ向けると、無防備に中空へ投げ出されようとしている深結の姿。強力な風に突き飛ばされ、優弥が作った足場の外へと出てしまう。

「危ない! っ、くぅ!」

『ユウ君!』

 すぐに引き戻そうとするが、いまだ吹き荒ぶ風に動きを制限されたまま。

 バランスを崩しそうになる優弥を見て美姫も慌てて声を上げる。

 現在、優弥は能力の酷使により『霊感体質』をほとんど使用できない状態であり、知覚不可能。そのため、答えることができない。

 優弥は何とか背後へ振り返ると、驚愕に目を見開いた深結と目があった。

「ごめんね」

 そして、深結の唇が動く。

 耳元を荒らす轟音のせいで声は聞こえない。

 だが、優弥は唇の動きで深結が紡いだ言葉を聞く。

「ダメだっ!」

 瞬間、その場に留まることをやめ、優弥は駆け出す。

 戒めとなっていた風を、自身の体に乗せるように。

 透明な道の縁を蹴り、自由落下を始めた深結へ手を伸ばす。

『ユウ君!』

 深結を追った優弥に続き、美姫も二人の元へ飛ぶ。

「まだだ! まだ、諦めないで!」

 ぐんぐんと迫る深結を薄目で見つめ、優弥は叫ぶような懇願とともに追い縋る。

 そして、脚力と風圧を味方につけた優弥は先に落ちた深結の肩を右手で掴む。そのまま気絶した深結を抱き寄せ、頭を胸元に埋める。

「死なせないっ、絶対にっ!」

 落下のスピードで失いそうになる意識を何とか保ち、優弥は煙の間から急速に接近する地面をきつく睨みつける。

 そして、左腕を眼前にかざし、『霊感体質』へ意識を傾ける。

『ユウく……』

「お姉ちゃん!」

 わずかな『霊感体質』の残り香により、かすかに聞こえてきた美姫の声を遮り、優弥は姿勢を変えないまま美姫へと叫ぶ。

「僕たちの命、預けたよ!」

 端的に、伝えたいことを詰め込む。それだけで優弥は即座に耳と喉に残っていた能力を解除。続けて、大きく開いた左手に、余力を残さず『霊感体質』を集める。

『分かってる。何があっても、ユウ君だけは、死なせはしない!』

 並んで落下軌道で飛行していた美姫は鋭い目をさらに細め、優弥の肉体と重なるように位置をずらす。寸分違わず存在を同一化させ、魂だけの頭脳で優弥を助けるための能力を構築。

「くっ!」

 落下の最中、優弥は不自然な空気の膜に覆われた。しかし、ほんの少しの抵抗を残して、すぐに破れる。

 正体は待機していた義雄たちが張った風のクッション。とはいっても、やはり優弥たちの落下速度に耐えきれず、本来の目的である減速は叶わない。

 だが、一枚目を過ぎた後、優弥はいくつもの膜を破る音を聞く。一枚一枚に大した効果はない。それでも、何枚もの空気の抵抗を受けたことにより、優弥たちの体はわずかに速度を緩める。

 その間も、優弥と美姫は集中を高め続ける。二人の頭には、程度の差こそあれ、それぞれ同じ『万象改変』の設定と結果を思い浮かべている。

 何時間にも感じられる、数秒間。

 極限まで研ぎ澄まされた感覚は、やがて人の手により整備された冷たく、堅い大地を明確に捉える。周囲には野次馬と、目を見開いて何かを叫ぶ義雄や、他の警官たちも見える。

「……っ!」

『今っ!』

 時間感覚が狂った世界の中、優弥と美姫は左手が地面に触れるか触れないか、といった距離で、待機させていた『霊感体質』を、『万象改変』を解放する。

 途端、左腕が接地。

 今まで体感したことのない衝撃が全身を駆け巡る。

(っぐ、あああぁぁぁっ!)

 心中の優弥同様、大きく悲鳴を上げる骨。痛覚はどこもかしこも最大限の警告を脳に送り、信号を受け取った神経を焼き切らんばかりに暴れる。

 白魚のように細く、華奢な腕はあっさりと折れ、または砕ける。瞬く間に数本の指はあらぬ方向へ曲がり、まともに衝撃を受け止めた手のひらの骨は蜘蛛の巣状に亀裂が走る。

 筋肉のほとんどが断裂し、ブチブチと嫌な音を奏でる。腕、肩、背中と伝わる破壊の波。さながら即効性のある毒のように優弥を苦しめ、能力の集中を妨げる。

(あああっ、ぐっ、……うおおおおぉぉぉぉ!)

 痛みに気を取られそうになりながら、優弥はしかし、能力の行使を止めない。能力が完全に発動するまで、折れ砕けた腕と外れた肩をピンと伸ばし、頭からの落下をコンマ一秒でも遅れさせる。

 しかし、小柄であるとはいえ、女性二人分の体重を細腕一本で支えられるはずもない。膨大な負荷に耐えきれず、脂肪と筋肉の内側で飛散し始めた腕骨が、細胞を傷つけ始める。

 同時に、大柄な成人男性とほぼ同じ分の重力と、地面からの垂直抗力との板挟みに合い、左腕の肉がバネのように縮み、かろうじて残った骨を潰していく。

 崩壊していく肉体と、痛覚により意識のすべてが塗りたくられる感覚を前に、優弥はさらに思考を加速。

 体感時間が延長され、暗記のように頭に思い描いていた『万象改変』の設定を一つずつ精査。

 地面を構成する物質はそのままに、性質だけを弾性と柔軟性があるものへ。腕を中心に半径五メートルとしていた範囲を狭め、半径二メートルへ。能力効果時間を十秒から三秒へ。

 頭に流れ込んでいた美姫が作ったほぼ完璧に近い設計図を、優弥の判断で無駄と感じた行程を省き、高速で書き換える。

 求めるのはスピード。多少求めた結果とは外れても、能力による生還が果たせれば問題ない。

 優弥は『万象改変』を調整しつつ、同時並行で操作する。

『っ!』

 優弥による『万象改変』の書き換えを察知し、美姫が驚愕で目を見開く。

 幾度も重ねた憑依の結果、絶対不可侵と結論づけられていた、美姫の能力への直接的な干渉。

 ベースは優弥の肉体とはいえ、美姫の肉体は今までずっと、『万象改変』を扱う際に限っては、必ず美姫の魂による指示を優先していた。

 それは、たとえ一つの肉体に異なる魂を同居させても、魂に刻まれた美姫の記憶や能力が優弥の魂とは別物である限り、優弥そのものの力になることがあり得なかったことに由来する。

 それを覆し、優弥は瞬間的にとはいえ、自分とは異なる魂を持つ死者の魂の性質さえも支配した。

 それは、『霊感体質』が死者の魂を取り込んで自身の技能と変え得る可能性を示唆している。魂とは存在そのもの。それを取り込むとはつまり、死者は存在を食らわれ、消滅することと同義である。

 未だ底の見えない『霊感体質』の能力に、美姫は恐怖を覚える。無防備な幽霊である自分を救う反面、害することができる唯一の手段。それを証明してしまった。

 また、美姫はもう一つ、別の危機感に苛まれる。

 それは、この特異な能力の性質が()()()()に嗅ぎつけられることだった。

「……ひゅっ!」

 そして、瞬きの間に『万象改変』の書き換えを終えた優弥は鋭い吸気で喉を鳴らす。

 すでに耐久限界を迎えている左手を中心に展開された能力は地面を伝播し、悪魔の如き理不尽さで存在概念を蹂躙する。

 数多の物質に保有する意味を食いつぶし、都合のいい意味を押しつける。

 たった一人の人間のワガママを叶えるためだけに、『万象改変』は世界を歪め、存在しない異物を創出させる。

 果たして、人の形に込められた神の力は、少年と少女の世界改変の願いを聞き届けた。

「うぐっ!」

 不動で待ちかまえていた大地がたわみ、バランスを崩した優弥は外れた肩から地面へと倒れた。えもいわれぬ激痛に顔をしかめ、うめき声を上げる優弥。

 すると、地面はさらに大きく沈み込み、優弥と深結の二人を包む。

 ゴムのように伸張するコンクリートは、二人が落下した衝撃により最大にまで伸びきったあと、半分以上の物理エネルギーを地下へ伝導させ分散。優弥が背中から倒れ込んだ威力をほとんど霧散させる。

 余った運動エネルギーは弾性力へと変換され、優弥たちを直上へと打ち上げる。

 まるでトランポリンに落とされたような優弥と深結。誰もが呆然と二人の軌道を見守る中、中空を舞う優弥と目を見開いていた義雄の視線が交錯。

「……っ! 二名の安全確保! 急げ!」

 鋭い視線に射抜かれた義雄は、ようやく我を取り戻す。部下に指示を出し、両手を優弥たちに突き出して『薄風刃』を発動。空気の流れを操作し、優弥と深結を優しく包み込む。

 次いで、義雄の檄に触発された他の大人たちが、それぞれ少女たちを守るため能力を行使していく。どれもが二人の落下速度を落とす役割を果たし、二度目の着地は音も痛痒もなく、静かに下ろされる。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……よかった」

 仰向けに寝かされた優弥は、一度右腕で抱いた深結を見やる。息があることを確認し、一言、安堵の言葉を漏らして、目を閉じた。

『ユウ君っ!』

「大丈夫かっ!?」

『霊感体質』が切れ、憑依から外れた美姫と、少し離れた場所にいた義雄が駆け寄る。

 ところどころ煤にまみれた優弥は気絶しており、腕の中には優弥同様服を汚して意識のない深結。

 穏やかな寝息を立てている深結は無傷。しかし、深結を抱えたままで、荒い息を繰り返す優弥の左腕は、見るに堪えない状態であった。

 所々から骨が露わとなっており、指と肘の関節は不自然に折れ曲がる。腕骨が何カ所も砕けてしまったために、右腕と比較して短い。脱臼した肩はそのまま、だらりと脱力している。加えて、内部からボロボロになった腕は内出血で色が変色。一目で重傷だとわかる。

「治療施設はどこだ!?」

「だ、大学の中に医療施設があります。そこなら、この島では最高の設備が揃っています」

「そこへ運ぶぞ! 急げ!」

 教師らしき人物に詰め寄り、病院の代わりになる場所を聞き出した義雄。すぐさま能力を使い、優弥と深結を風で浮かせ、走り出した。

『ユウ君! 起きて、ユウ君!』

 美姫は優弥に寄り添い、何度も呼びかける。右手を握ろうとした手は空を切り、必死の呼びかけも通らない。

『霊感体質』が使えなくなった優弥に、美姫は何をしてやることもできない。

『ユウ君っ!』

 目に涙を浮かべ、頬を濡らしながら、優弥の傍を離れない美姫。

 誰も聞くことができない言葉は、虚空に溶けて消えていった。


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