1話 航海と入学と
時は少しさかのぼり。
日本のとある海上。
一隻の船が海を割って進む。
周囲は渡り鳥が数羽飛び交い、潮風が甲板にいる人間と戯れる。
時刻は朝。天気は快晴。肌を撫でる風と穏やかな陽光が相まって、乗客に眠りへの針路を誘う。
季節は春。日本では出会いと別れの季節。
「……ふぁ~あ」
甲板にいた一人の少年。自ずと漏れ出た、大きなあくび。
年齢は十五。甲板の縁に腕を枕にして体を預けている。穏やかな陽気にあてられて、黒の瞳を隠すように長いまつげがヒラヒラ揺れる。
高校生の男子にしては線が細く、小柄。一目見ただけでは中学生に、下手をすれば背の高い小学生にも見える。ボタンをすべて留めた詰め襟の制服がなければ、男として見られたかも怪しい。
彼の容姿が中性的で童顔なのも、外見の幼さに拍車をかけている。首にかかる、やや長めで茶色混じりの黒い襟足がもう少し伸びていれば、少女のようにも見えるだろう。
半分夢の世界へ引きずり込まれつつある少年。
直立したまま眠りにつきそうになったところ、背後から気配が近づく。
『大きなあくびね。眠たいの? 子守歌でも歌ってあげよっか?』
鈴を鳴らしたような声を聞き、今にも落ちそうな瞼を懸命に上げ、少年は腕枕から頭を持ち上げ振り返る。
肩越しに見えたのは一人の少女。
年は少年よりも上だろう。ブレザータイプの制服を着込み、後ろ手に組んで微笑みを浮かべている。
少女の容姿は少年とそっくりだった。違いは少女の顔のパーツがより女性的で美しく、少年よりも意志の強さを窺わせる点だろう。
何よりも特徴的な相違点が胸と目。
前者は言わずもがな。たわわに実った二つの果実は制服を押し上げ、少女の成熟した魅力を醸し出している。
後者については、両者を比較するとよくわかる。少年の方は長いまつげと二重まぶたのおかげか、目は大きく女性のようなかわいらしさが現れている。対し、少女の方は長いまつげは共通しているものの、切れ長の目尻が愛嬌を追放し、知的で冷たいイメージを連想させている。
ただ、現在少年へ向ける顔は弛緩しきっていて冷徹な印象はない。むしろ、緊張がなさすぎてだらしない表情。色々と台無しになっていた。
「ううん、大丈夫。もうすぐ港に着くみたいだし、起きてる。
お姉ちゃんこそ、他の人たちとお喋りしてたみたいだけど、もういいの?」
『うん、満足した。小さい子の子守で大変そうだったけど、いろいろ面白い話もできたし』
風でたなびく長髪を押さえつつ、少女は音もなく少年の背後へ移動する。
そして、そのまま少年に抱きついた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
少女のいきなりの抱擁。鼻孔をくすぐる甘い香り。ブレザーを持ち上げていた柔らかな感触を背中に感じ、細い腕が胴体へ回されている。
少女の突飛な行動に、少年はあわてることなく疑問符を浮かべる。
『それに、他の人との時間より、私の可愛い可愛いユウ君と過ごす時間の方が大事だもんね~』
「そう? でも、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
少年は頬を桜色に染め、目線を遠方へ投げ出す。未だ水平線には目的地は映らない。船底に打ちつける波の音と、船に並行して飛翔する鳥の鳴き声に意識を傾ける。船の移動に呼応して体を撫でる潮風が、熱を帯びた頭を冷やしていくのにどこか安心感を覚える。
『んふふ~。ホント、いつまで経っても可愛いんだから~』
少女は抱きついたまま、少年の肩に顎を乗せる。肩胛骨まである黒の長髪が揺れ、お互いの頬が接触して擦れる。
少女は猫なで声でベタベタと甘える。さらに表情が弛緩していく。だらしなく目尻が垂れ、少年とは違う理由で頬がほんのり朱に染まる。
少女に尻尾でもあれば、高速で振られていることだろう。見ていて恥ずかしくなるくらいの甘え様。
絡みつくように身をすり寄せる少女の感触に少年は硬直してしまうが、冷静さを保とうと煩悩を頭から追い出そうとする。
「優弥、ここにいたのか!」
少女のせいで身動きがとれず、表面上は落ち着いた雰囲気でたたずむ少年こと、優弥。彼に新たな人物が声をかけた。
優弥に甘え中の少女よりも長く、赤みがかった茶髪のポニーテールが特徴的な、灰が混じった翡翠の瞳をたたえた少女。肩にはスポーツタオルが下がる。額には玉の汗が浮かび、激しい運動のあとだとわかる。
服装はジャージ。見栄えよりも実用性を重視したのだろう。くすんだ青色をした地味なデザインで、長年使い続けているためか、色が薄い箇所もある。
何より個性的なのは胸。優弥の背中に押しつけられた、それなりの大きさであるソレよりも大きい。ポニーテールの少女が歩く度に大きく揺れる。
くっきりとした目鼻立ちは欧州人の血が混じっているため。彫刻のようにメリハリがついて整った容姿。少し濃いめの凛々しい眉と、からっとした笑い方が彼女に漢気をにじませている。
「柚子ちゃん、また稽古? ちゃんと休みを入れながらやらないと、島に着く頃にはへばっちゃうよ?」
「何言ってんだよ、優弥。俺らは親父からそんな柔な鍛え方されてねぇだろ?」
「そうだけど、程々にしないと。体壊したりしたら心配だし」
「ったく、優弥は心配性だな」
優弥の言葉に滲む、自身に対する気遣いへの嬉しさ半分、過保護ぶりに呆れ半分で嘆息した少女、柚子。
タオルで汗を拭いながら優弥の隣に立ち、顔をのぞき込む。曇りのない笑顔は太陽のようで、周囲の人間まで笑顔にさせる無邪気さと奔放さがあった。
「優弥を探してたんだけど、ちょっといいか?」
「稽古相手が欲しくなった?」
「その通り!」
「柚子ちゃんが休憩したらね。どうせ、休みなしの一人稽古が終わってすぐ来たんでしょ? 小休止を挟みなさい」
「ちぇ、優弥までお袋みたいな事言うのかよ」
「柚子ちゃんはやりすぎなの。鍛錬が好きなのはとやかく言わないけど、先生がいないと倒れるまでやるでしょ? 毎度毎度世話をするこっちの身にもなってよ」
頑固な優弥に柚子は恨みがましい視線を送るも、黙殺される。
しばらく無言が場を支配するも、やがて柚子の方が大きなため息をつき、自分から折れる。柚子にもトレーニング中毒の自覚はある。だからこそ、本当に心配そうな表情をする優弥に強く出れなかった。
「わかったよ。五分だけな。
そういや、美姫さんはいるのか?」
「うん。僕の後ろにくっついてるよ」
柚子は片眉を上げ、眉間にしわが寄った。
優弥と柚子の会話中もゴロゴロと甘えまくる少女、美姫。残念ながら柚子の存在にも気づいていない。
優弥も思わず苦笑。
「優弥こそ、美姫さんを甘やかしすぎるんじゃないか? 少しは我慢を覚えさせた方がいいぞ」
「僕もそう思って、この前抱きつくの禁止って言ったら、この世の終わりみたいな顔で落ち込んでたから、言い辛くて。あの後、慰めるのにすごい時間かかったし」
「あ~、はっきりと目の前に浮かぶな、そのときの光景」
口端を引くつかせ、柚子は優弥の背後を見る。しかし、柚子の焦点はどこにも合わない。さながら虚空を見つめるがごとく、不安定にさまようだけ。
「お姉ちゃんと話す? 通訳ならするけど?」
優弥が視線に気づき、提案する。
「いや」
かぶりを振り、やんわりと否定する。
柚子の目が捉えているのは優弥の姿ただ一人。
優弥の目に映る、半透明に透けた美姫の存在に気づける者はいない。
「いつも思うが、不思議なもんだな。優弥の能力って。『霊感体質』、幽霊を感知する力、か」
「うん。超能力、っていうより、霊感とか霊能力の類だよね。ジャンルが違う気がするんだけど、大きい括りで人が持つには逸脱した力、っていう意味では、僕の能力も超能力なんだよ、きっと」
優弥は能力者である。それは柚子も同様に。
優弥の能力は名の通り、霊の感知。霊と呼ばれる存在を五感で感じ取ることが可能。つまり、この世ならざる者に触れ、会話をし、においを感じることができる。
それだけを聞くと超能力とは別系統に聞こえる優弥の能力。しかし、産後すぐに能力を調べる計測機にかけられたところ、肉体に依存するDランクの能力であると診断された。紛れもなく能力者である。
美姫は優弥にしか察知されない幽霊。つまり、故人。重力を無視し、肉体が透けていることを除けば、優弥にとっては人間と同じ存在。
『あれ? 柚子、いつの間にいたの?』
美姫、自作桃色空間から現実に帰還。
真顔に戻り、表情を引き締める。口元には涎。幽霊でなければ優弥の服が大惨事になっていただろう。
「おかえり、お姉ちゃん。結構前から話してたんだけど、気づかなかったの?」
『全然。ずっとユウ君の可愛さに溺れてたから』
「程々にね。僕もくすぐったいし」
『えぇ~!』
苦情がこもった音なき声があがる。見た目に反し、美姫の態度が優弥よりも幼く見えるのは気のせいではない。
「美姫さん、いくら優弥が大事だからといって、必要以上に密着することはないだろ?」
『まったく、柚子は分かってないわね。危険なんていつどこに落ちてるもんかわかんないでしょ? これはれっきとした守護霊たる私の仕事であり役目なのよ! だから問題なし!』
優弥の胴体に回していた腕をくびれたウエストに当て、自慢げに胸を張る美姫。
霊にもいくつか種類がある。その中でも、美姫は守護霊に属する。
守護霊とは幽霊の中でも特定の生者、あるいは血筋に執着を持つ幽霊を指す。対象を見守り、身に危険が迫ると注意喚起をしたりする。守護対象が幽霊の警告に、反応できるかどうかはその人次第ではあるが。
とはいえ、限定的ではあるが人間を守ってくれる比較的珍しい霊である。
「え? そうなの?」
「美姫さんはなんて?」
「守護霊の仕事だから問題ない、だって」
「優弥、騙されるな。俺の知る限り、四六時中ベタベタする守護霊なんて知らん」
『ちょっ、柚子ったらヒドくない?』
頬を膨らませ、声を荒げるも気づいてもらえない美姫。
優弥は肯定とも否定ともつかない表情で、曖昧に笑う。
「話は変わるけどさ、島に着いたら寮生活だよね? 柚子ちゃん、一人で大丈夫?」
「平気平気。優弥と同じとこの女子寮ってだけなんだし、そっちにちょくちょく世話になる予定だから、問題なし。何なら、優弥が俺んとこにくるか? 優弥ならいつでも歓迎するぞ?」
「遠慮しとくよ。男子寮に女子がいるより、女子寮に男子がいる方が問題が大きくなるからね」
島こと、人越島。
元々無名の無人島だった島を開発し、能力者たちを育てる一つの学園都市と化した場所。下は幼稚園から、上は大学まで。様々な年代の能力持ちの子供たちが暮らしている。優弥たちを乗せる船が向かっている目的地でもある。
優弥と柚子は能力者として島の高校へ入学することになっていた。ただ、人越島の中に連なる学校への外部受験による入学は非常にまれなケース。
事実、本州との連絡船であるこの船の乗客はほとんどが保護者同伴の幼稚園児。島にいる学生の九割以上が幼稚園から上がっていった内部進学者ばかり。理由は、日本の能力者は人越島で教育を受ける義務があるため。
しかし、能力者でありながら、島外で学生をしていた優弥と柚子。一般人による能力者への差別も存在する中、能力を持たない人と机をともにできたのは理由がある。
非能力者との接触が全くない、特殊な閉鎖空間となっている学校への入学。優弥と柚子は、明らかな異物として扱われる可能性が高く、独自に形成された常識に馴染めるか、といった懸念もあった。
「それもそうか。でも、別に俺は誰から邪険にされてもいいけどな。どんなことがあっても、優弥だけは俺の味方でいてくれるんだろ?」
「当然。柚子ちゃんは僕の幼なじみで、家族で、親友でしょ? 聞くまでもないよ」
「だったら構わないさ。優弥が隣にいてくれれば、怖いもんなんてないからな」
まるで不変の真理を語っているように、優弥への信頼を平然と口にする柚子。淡泊な態度だが、それが逆に揺るがない事柄であることの証明。柚子の言葉の真実味を、より確かなものだと知らしめている。
「……大げさじゃない? 僕と一緒ならお化けは怖くなくなるだろうけどさ」
潮風にたなびくポニーテールを揺らしながら、真っ直ぐに瞳を合わせてくる少女。優弥は鼻頭をかき、目線をそらす。
明らかな照れ隠しに、柚子は朗らかに笑った。
「ハハッ、違ぇねぇな。
ホラ、そろそろ休憩もいいだろ? 俺の相手、よろしく頼むぜ?」
一転、好戦的な笑みを浮かべ、瞳に違った光が宿る。
柚子は猛禽類のような視線と広角をつり上げる威圧的な笑顔を形作り、優弥に手を差し出した。
背筋が冷える表情と相対し、優弥の脳裏にはある単語が浮かぶ。
戦闘狂。バトルマニア。
あまりにも剣呑な言葉は、妖艶に笑う柚子にはぴったりの言葉に思えた。
「はは、分かったよ。お手柔らかにね?」
どこか諦めたような笑いをこぼし、優弥は小さな手を掴んだ。柚子の方が身長は高いが、それでも女性と言うことだろう。握った手のひらは、少年の鼓動を速めるくらいには柔らかく、温かい。
「ざけんな。マジもマジで来い。俺はいつも通り、能力も使うからな。
さぁさぁ、早く行こうぜ。この船にあったトレーニング室は広いし、なかなかいい器具そろってんだぞ」
「ちょっ、待ってよ。自分で歩けるって」
『あっ! コラ、柚子! 待ちなさいよ!』
新しいおもちゃを自慢するように練習相手を急かす柚子。
手を引かれ、歩幅の違いから小走りになる困り顔の優弥。
すでにくっついてはいないが、優弥の至近距離で浮遊し、二人に追随する美姫。
三人は賑やかに甲板を後にし、船内へと消えていった。