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道を往く

作者: 山本 文
掲載日:2026/10/02

 仕事を辞めて一週間が経ち、僕は幼少から過ごした東京の家を引き払って、松山空港で市中行きのバスを待っていた。

 僕は一体何が不満で今までの生活を捨てたのだろう。わからない。が、一か月と少し前のある朝、僕は天啓を受けたように辞表を書き、それを鞄に仕舞って7年勤めた会社に出社した。何故。考えているようで、何も考えていないような、ただぼんやりとした一か月を、仕事の引き継ぎに費やし、自分でも納得がいくような、いかないような気持ちのままで会社を辞めた。天啓、そういえば松山へ来たのも、天啓によるところだと言っても差支えはないような気がする。突然に生活の大部分の時間を占めていた労働を失って、何もすることがなくなった僕は、あてもなく家の整理をしたりして日中の長い時間を過ごしていた。家には驚くほどたくさんの物があった。そしてその大部分は三年前に急死した母の物だった。母の好きだった推理小説の本棚、毎晩寝る前にしていた編み物の道具、僕は使わなかった掃除や家の手入れのための小さな道具や布の切れ端。母の人生を知っているようで何も知らない、そういう気持ちがやはりぼんやりと浮かんでくるのと同時に、僕はかつて母が、僕が生まれて三年後に別れた僕の父について「あなたのお父さんはね、魔法使いなのよ」そう言った事を思い出した。母は僕に真実しか言わなかった。少なくとも僕はそう信じている。父が魔法使いである、こういった言葉も、もちろん捉え方によるところもあるだろうが、真実には違いない、思い出した今でも僕はそう信じられた。加えて僕は仕事を辞めたその日の夜に催された送別会――僕は大学を卒業してその春に入社したこの会社にずっと勤めてきたが、日々の労働にやりがいみたいなものを感じていたわけでもなかったし、仕事で知り合った誰とも個人的な関係を築いてこなかった。だからこの送別会に僕が参加しなければいけない理由はほとんどになかった。ただ、勤続年数を考えた時に生じる義理のようなものが、同僚や若干名の部下と僕との間にあって、僕を含めて6人ほどがこの会に出席した――の中で今年入社したばかりの松山出身の若い部下が、酔いに任せて語った魔法使いと呼ばれる地元のホームレスの話を思い出した。つながった、運命的に。そう思った。


 だがはたして僕は父を見つけて一体どうするつもりなのだろうか。そしてそれは、僕の決して愉快とは言いたくないが、しかし間違いようもなく苦しくもなかった、あの老後まで続いていく道を打ち捨ててまでしたいことだったのだろうか。僕は母が死んだときに移り住んだあのマンションの一室に、30代、40代になっても今と変わらない毎日を繰り返す自分の姿を、本当のことみたいに思い描くことができた。そしてそれでいいのだと思っていた。そのはずだった。では何故。松山市駅行きのバスが空港から伸びているバイパスを快速で運転していく様子を感じながら、僕はまだぼんやりとしか僕の運命を認められていなかった。

 とはいえ、何か、僕の中に気持ちのわだかまりのようなものがあった、こういう可能性もあるようには思われた。僕はあまり感情的に行動する質の人間ではない、と自分では思っているけれども、そういう人間こそ心のどこか、底のような場所に沈殿した衝動のかけらが、もう自分では解きほぐせないほどに絡まって、嵩張って、爆発する。そんなことも心理学的にはありそうな話だ。それが顔もまともに思い出せない父親を探すことだったとしても?どうだろう。血のつながり。肉親。時間的にも短い父と僕の関係は、そういう言葉一言で表せる程度のものに違いない、と僕には思われた。それなら何故。今度は真剣に考えてみよう、この何故を……考えながら松山駅のアナウンスが聞こえて反射的にバスを降りたが、そこは松山市駅ではなく市街地から少し離れた松山駅だった。予約しているビジネスホテルまで約3km。路面電車と迷ったが、歩くことにした。

 駅から見える景色は地方都市のイメージそのままだった。大きなロータリー、大きな道路、これまた横に大きな建築や、その先の小さな建物群。僕はまだ、血縁や由来といったものが、自分にとってどれほどの意味を持つものなのか、そういうことを考える気持ちを持っていたが、午後三時の平和な街の中に立って、思考は一切の働きを拒否していた。街は暖色の光の中にまどろみ、平坦な道路は足が心地よく沈んでいく柔らかさだった。こんな街に魔法使いと呼ばれるホームレスなどいるのだろうか。まるで鋭角がひとつも存在しない交差点を渡り、パステルの点描のような人々とすれ違った。魔法使いの妻と息子。この街には魔法は必要なさそうだった。あるいはもうすでに魔法にかかってしまった後のようだった。僕が覚えているのは、太い血管の浮き出た力強い父の足首と、それから、おそらく唯一だろう家族旅行で、車を運転しながら僕に話しかける低い声だけだった。古い写真、セピア色に褪せたような路面電車が、影送りの影のような輪郭のはっきりしない数人を乗せて僕を追い越していった。父という存在、もしも僕に父親がいたら、そう思った事は確かにあった。一回や二回ではない。が、果たしてこの年になってまだ僕に父親が必要な理由があるだろうか。暑くもないのに陽炎のように揺らめいている城郭を囲うお堀の松林の緑が、僕の視界の左側を、硬い絵筆で書き殴るようにして遮った。僕の思考は一向にまとまる気配を見せなかった。


 その日、僕はこれ以上自分の置かれている状況について考えることができなかった。つまり、僕は松山という何らかのスタート地点に立ち止まったまま、あちらを向いたりこちらを向いたりするばかりで、そこから一歩も踏み出せないでいた。

 翌日、この日もまた同じだった。昼食のためにやっとホテルを出たが、僕の思考は柔らかい日差しに照らし出されたこのまどろみの様な街の空気の中で、まるで揮発性の液体のように霧散していった。そんな街は、しかし僕にはどこかよそよそしい感じもして、逃げるようにホテルへ帰った。夜、夢を見た。

 ある祝日の夢だった。ありえない事だが、僕は中学生かそこらの年齢で、しかし父がいた。母も加えた三人でリビングの四角いテーブルを囲んで座っている。そしてそのテーブルには大きな水槽が一つ、中に一匹の黒い出目金が水槽いっぱいの大きさで揺らめいている。今夜は御馳走だ、夢特有の確かさでそう思った。実際、隣に座る母の表情はあまり見たことのない和やかさで(現実の僕の記憶の母は、いつも穏やかな丸みを帯びた口元をしていたが、鼻から眉間にかけては、どんなときにも、一人親にありがちなとでもいうべきか、どこか後ろ暗いような陰のある顔つきをしていた)やさしさに満ちているのが感じられる。父の表情は出目金の腹に隠れて見えなかった(この夢の初めから顔の隠されていたこの対面に座る人物を、どうして僕は父だと判別したのだろう。これもいずれ夢の効果によるものに違いないのだが、僕はこのポロシャツの肩と胸しか見えない人物を自分の父親だと確信していた)

 誰も一言も話さない。が、気づまりではなかった。それどころか僕は実際の人生で感じたことのない居心地のよさのようなものを感じだしていた。段々夢が覚めていくのを脳の右

の方に感覚しながら、この食卓とそこに向き合う父と母の存在感を記憶に残そうと努めた。

 夢から目が覚めると、僕はようやくとりあえずの明晰さを取り戻していた。取り戻した結果、一旦自分の感情は置いておくことにした。ビジネスホテルの真っ白な一室に閉じこもって、終わらない悶々に悩まされていても仕方がない、少なくともそういう合理的な判断ができるところまでは回復した、というわけだ。

 思考より行動を。しかし僕にはあてもなく街をふらふらする程度しかやることはなかった。この街のどこかに魔法使いである父がいる、ここまでは真実であるとして、僕は現実に存在する魔法使いがどのようなものか知らなかったし、後輩の言うホームレスと同一人物であるかどうかは疑う余地が多少、いや存分にあった、と言っていい。三日間、ある程度郊外まで歩いてみて、父を見つけられる気配は微塵も感じられなかった。とにかくホームレスが暮らせそうな街の隙間、そういう空間を探してみたが、少なくともいままでそんな隙間も、魔法使い以外のホームレスも見つからなかった。

 

 事態が動いたのは七日目の夜だった。商店街で夕食を済ませて、そこから一本道を外れた夜の店が並ぶ路地を歩いているところに、突然の雨が肩を打った。と思うとすぐに土砂降りになり、僕は逃げ込むように入ったバーの大きすぎる音楽の中から、魔法使いの単語を聞き取った。

 僕の後ろで大学生らしき三人組が丸テーブルを囲んで談笑している。

――魔法使いの噂、聞いたことあるか?

――俺は知らんね……

――なんだいそれ……

――OBの先輩から聞いた話なんだけど……のほうに魔法使いって呼ばれてる爺さんが住んでるらしくて……

――なんだよ魔法使いって……

――なんでも……何も入ってない箱から鳩が飛び出してくるっていう……

――よくある手品じゃねえか……

――いや本当にタネとかないらしいんだよ……

――それで?

――いやさ、それだけなんだけど……

――せめてオチぐらい用意しておけよ……

 肝心の場所に関する情報こそ聞き取れなかったが、有用な情報には違いない。僕は椅子を不自然でない程度に回転させて、話しかける隙をうかがった。

 が、それより先に後ろから声をかけられた。

「お兄さん、もしかして魔法使いに興味がある?」

 振り向くと野球帽を被り、その後ろに白っぽい色の目立つやや長い髪をした口ひげの男が、薄笑いを浮かべて僕を見つめていた。

「魔法使いの噂」

 口が開いて何本か歯の抜けた、黒っぽい歯茎の口腔が見えた。

「ええ、まあ。詳しいんですか?」

「いや、俺はそんなに詳しくないんだ。すまねえけど」「でも、魔法使いに会う方法なら知ってる」

 正直かなり怪しかった。汚らしい、そう言っていいその男の風貌が、かえってやりすぎなほどに、現代の魔法使いと関係のある人物像に嵌っていて、むしろからかわれている、そんな気にさせられた。

「知りたくないか、お兄さん」

「教えていただけるのなら」

 怪しい、そう思いながらも、重ねて言われてつい答えてしまった。

 男によると、どうやら道後のほうで老舗の旅館の女将をしている老女が、件の魔法使いと通じており、何らかの基準を満たした面会希望者と引き合わせている、そういうことらしい。旅館の名前は風雲荘だ。間違えるなよ、似た名前の旅館が三つはあるからな。そう言って紙切れを差し出した。これを見せればあとはうまくやってくれる。薄笑いのままで僕に伝えて、椅子を飛び降りた。飛び降りた、というのは比喩ではない。下半身に奇形があるのか、座っている間は気が付かなかったが、男は僕の半分ほどしか背がなかった。

「ああそうだ。情報の代わりに、こいつを女将に渡しといてくれ」

 男は振り向いて、胸ポケットから指輪が入るほどの小さな箱を取り出した。何か如何わしい取引に加担させられてはいまいか、そんな気もしたが、押し付けられるように受け取らされて、男はそのまま片手をあげて別れのあいさつ代わりにといった風に去って行ってしまった。短すぎる下半身のせいか、まるで冗談みたいな後ろ姿だった。

 半信半疑、より疑う気持ちのほうが強かったのに違いない。考えてみれば、男の存在自体だって疑わしい。あまりに勘のいい男、簡潔な会話、絶えることのなかった微笑、背は低すぎるが小人症には見えなかった。まるで自力で帰ってきた遭難者が、その無我夢中の帰還劇の中で見た自分を先導する森の中の小人……がしかし、運命的、そうも言える。まずはいったん、前向きに考えてみることだ。とにかく旅館には行ってみよう、追加で頼んだボウモアのシングルを流し込んで店を出た。雨はとっくに止んでいた。


 その夜、ビジネスホテルの清潔なベッドの上で、僕は輾転として全く寝付かれなかった。重心が下のほうへずり落ちていく、そんな感じがして、やっと眠れると思う次の瞬間には意識がはっきりするのだった。何度も眠りの崖っぷちを行ったり来たりして、若干の吐き気を催しながら、白んでいくカーテンのベージュ色を、意識が持ち上がるたびに睨んだ。いっそもう眠るのは止そう、そう思うとまた手だけ残して睡眠の暗い崖下に体が落ちていく……出勤や通学のざわざわとした足音が、少しだけ開けておいた窓から侵入して来る頃になって、今度は落下するというより宙に浮んでいるような心地がして、そのまま意識が途絶えた。

 僕はまた夢を見た。この間の夢の続きの様だった。家族で食卓を囲んでいる。でも今度は三人の間の沈黙が、心地いいものとは違う、何か別の意味を孕んでいる、そんな感じがした。

 時が止まったようだった。水槽の出目金だけが時折ゆらゆらと深い襞の尾を振っていた。

 僕と母はたぶん父が食事の音頭を取るのを待っていたのだと思う。が、肝心の父は一言も言葉を発しなかった。母も何も言わずただ待っていたが、まだ幼いところのある僕はついに我慢できなくなって、もう食べようよ、そう言った。いや、あるいは思っただけで口に出したわけではなかったかもしれない、とにかくその瞬間だった。父がやはり黙したまま席を立ち、食卓に背を向けて玄関へ歩き出した。しまった、と感じたが、もう遅かった。僕と母が席を立って玄関に着いた時には、父はもう靴を履いて扉に手をかけていた。

 お出かけですか、と母が尋ねた。父は答えなかった。早く戻ってきてくださいね。母がそっけない父の背中に声をかけたのも、聞こえているのかいないのか、そのまま出て行ってしまった。母が土間に片足をついて、その扉を押さえて見送っていた。僕はその二人のどちらもを見ていた。玄関の先は青々と茂る一面の草原になっていた。父はその奥の丘に向かってぐんぐん上って行って、ついには見えなくなった。母はもしかしたら泣いているのかもしれない。そんな気がした。僕は二人ともに悪いことをした気持ちでいっぱいだった。


 目が覚めて僕がホテルを出る気になったのはもう日が沈みかけるころだった。ホテルのすぐそばの路面電車に、はっきりしない気持ちのままで乗り込んだ。しかし、僕にとって父を探すという目的は、人生をかけて果たすべきものとして申し分ない気もしだしていた。あるいはそう信じたかっただけだろうか……道後までそれほど時間は掛からなかった。

 風雲荘は有名な道後温泉からさらに少し上った、石畳の隘路の突き当りにいかにも老舗らしい門構えをしていた。辺りはもう暗くなっていたが、旅館の門灯はまだ灯っていなかった。とにかく話してみることだ。焼杉か何かのやけに深いこげ茶色の門をくぐりながら、僕は緊張しているのか、めまいに似た頭痛を感じていた。

 女将は不在だった。僕を出迎えたのは首の長い中年の仲居だった。尋ねると女将は別の旅館の女将と話し合いがあって外出しているらしい。念のためと思って小箱と紙切れを見せたが、特に気になる反応は無いようだった。また日を改めようか、そう思ったところへ、仲居の首が伸びてきて僕を引き留めた。

 他所から来たのでしょうお疲れじゃありませんか、今晩の宿はありますか、部屋なら空いていますよ、女将もきっとお客様がお眠りになる前には帰ってきますよ。お部屋で待っているだけでも構いませんから、どうぞ、どうぞ。促されるまま部屋の鍵を握らされた。鍵には水仙と書かれた小さな木札がぶら下がっていた。

 一番奥の部屋です。左手の廊下をずっと、道なりに進んでくださいね。本当は私が案内しなけりゃいけないんですけど、今旅館で手が空いているのはわたしひとりなもので、その私も受付の仕事があるでしょう。何度か廊下が曲がりますけど、分かれ道はありませんから、きっと迷ったりはしないでしょう。突き当りの部屋ですよ。

 僕に何を言う間も与えず話し終えると、ではどうぞごゆっくりと言って頭を下げた。頭を下げた格好で、僕がさっきカウンターに置いた小箱をさっと懐にしまった。僕はそれを見逃さなかった。

「ちょっと待ってくれ」

 これは私がきっと女将に渡しておきますから。いえ本当に。御心配なさらずとも大丈夫です。お客様から預かったこともきちんと伝えておきますから。身内が手渡しした方が都合のいいものってあるでしょう。そういうものなんです。

 一体何が入っているのだろうあの小箱には。尋ねても答えてはくれないだろう、そう思いながら一応聞いてみたが、やはり、大したものでは無いのです。本当に。と言ってもう小箱を取り出そうという素振りも見せなかった。この宿に泊まる事になってしまった以上、どのみち女将とは会えるのだ、得体のしれない小箱ひとつなぞ、この際あってもなくても困ることはあるまい。門のあたりで感じた頭痛がだんだん大きくなってきていて、僕はこれ以上この仲居と問答する気になれなかった。


 板張りの廊下は受付から左手に角度をつけて、暖簾越しに奥のほうに伸びている。紺色のところどころほつれたところのある暖簾、浄土と達筆な白墨液の二文字、を押して通る。やや、あるいは暗すぎるといってもいい廊下、が長く細く下りながら続いている、のを一歩ずつ歩いていく。この時間になっても明かりの灯っていなかった門灯、間隔のまばらすぎる廊下のほのかな蛍光灯。めまいと不安、を黙殺せんとして足音をたてる。パタ、パタ。右手に握った部屋の鍵が揺られてカチャカチャ音を鳴らす。が、僕の体に発した音は漆喰の壁に染み込んでいったまま、返ってくる気配はない。

 突然第一の部屋が左手に現れる。襖に簡易の鍵穴をつけただけのような旅館の一室。沈黙しているその黄ばんで脆そうな左右の襖、の隅に血で書かれたような小さな円形、あるいは魔法陣。得体のしれない魔法使いの得体のしれない魔法を掛けられた部屋。もしかして僕は罠に嵌められているのだろうか?それともこれは父の……襖に手をかける。ガタリと音がしてしかし開かない。鍵が掛かっているのだ。いや、そんなこと僕は最初から知っていたはずだった。なんだかそんな気がする。それでも僕は開かない襖を睨みつける、耳を澄ませて部屋の中の様子を窺う。無駄だ。この部屋には誰もいやしない。それも僕は知っている……めまいが強くなってきている。先を急ごう。

 魔法使い……噂の中で魔力を振るう魔法使い、ある日突然いなくなった父、とその息子である僕。顔も思い出せないだれかと僕、の松山行き。第二、第三の部屋を通り過ぎる。もとより暗すぎる廊下は徐々に、だが確かに一層暗くなっていく。下っていく。第四の部屋は右に折れる角にあった。もちろん僕の部屋ではない。そして父の部屋でも無いはずだ。部屋の襖の上に小さな暖色のランプ、に照らされて、球根と部屋の名前が彫られているのが見える。僕の部屋は水仙だ。きっと部屋ごとに草花の名前が割り当てられているのだろう。だが一体球根とはなんの植物の球根なのだ。分からない……何もない空間で廊下が今度は左に折れる。種ならまだ理解できる。それは、少なくともこの場所において僕と父を意味しているのだ、そういう暗号だと受け止められる。だがしかし、球根とは……まだ分からない……

 と、突然の青。青……月光だった。障子を透かして廊下を照らしている。

 ああ、心臓がだんだん引き伸ばされていく気がする。細く長く。拍動が激しくなる。感じる。まるで僕の体の血管のすべてが心臓の一部になって、それ自体蠢く臓器になってしまったような……廊下はまだ下っている、月光に照らされて、中庭か何かになっている障子越しの、竹の群れが影絵になっている。その後ろから誰かの泣き声がする。細く長く。泣きたいのは僕のほうだ。僕は一瞬にして童心に返ってしまったような、日が暮れてからひとり遊びをする僕を眺めている母、あるいは僕がもう眠ってしまったと思って、リビングのテーブルでただ、その真上の電灯を見上げている母、の姿を幼い心で思い出している。その間も僕のものにならない泣き声が頭に響く。一歩、また一歩。しかしもう真っすぐ歩くことすら僕には難しい。右手を漆喰の壁に押し当て、体を支えながら、そうでもしないと僕はこの泣き声の形作る、切ない無限に落ちていきそうなのだ。今すぐにでも。

 いつまでも続くように感じられた左手の障子は、しかし唐突な曲がり角によって途絶えた。泣き声は、いつの間にかカラスの声に変わっていた。そのカラスの声は今度こそ僕のものに違いない、あるいは僕自身が竹と竹の間に隠れたカラス……いや憎しみだこれは。再び暗くなった廊下を歩きながら、僕は滅茶苦茶だった。それに暗すぎる廊下は有機的なうねりを帯びてきていて、僕は前後左右どちらに進んでいるのかさえ分からなかった。ただ、僕の一歩前を行く、やはり僕に違いない誰かの気配の後ろをついていった。道は長かった、しかし一本道には違いなかった。あの仲居の言う通り迷うことはない、信じられた。

 廊下が終わるところに水仙の部屋はあった。僕の疲労困憊を見越したように、部屋にはすでに布団が敷かれていた。倒れこんだ。そのまま眠りでも覚醒でもないまどろみの中で、昨夜の夢の事を思い出していた。やはり僕は父がいなくなって寂しさを抱えていたのだろうか、あるいは寂しげな母を見て、自分もそう思うべきだと感じていたのだろうか。しかしそれは、父のいる人生を歩んだことのない僕には、解決できない問題だという気もしていた。

 ぼんやりとしたまま声を聴いた。女将が来たのだろう。頭ではそう思ったが、体も何も動かなかった。どんな応答をしたのか、記憶にない。ただ、一番重要な、魔法使いに会う方法だけは聴き洩らさなかった。この部屋の広縁の窓から出て右手に地下道への入口がある。その先に魔法使いはいるのだ。鍵を受け取った。地下道の鍵。僕はいつの間にか母の声に似てきた女将の語る、魔法使いへと続く道筋を何度も反芻しながら再び眠りについた。

 

 翌日目が覚めたのは薄明の中だった。だがしかし僕にはこれが朝日なのか夕日なのか区別がつかなかった。とにかく長い間眠っていた感じがする……いや別に今が朝だろうが夕だろうが構わない。やるべきことは決まっている、決まっているはずだ。僕は心に弾みをつけるつもりで飛び起きて、丁寧に布団を畳んだ。そして靴下のまま広縁から外へ出る。

 地下道へ通じる鉄扉は長く伸びた雑草におおわれて、少なくとも最近誰かが使った様子はなかった。が、鍵は滑らかに回った。その先は等間隔に蛍光灯の光る広いトンネルのようになっていた。若干下っているような感じもしたが、錯覚だったかもしれない。あまり深く考えないことにした。今度は僕の足は止まらなかった。

 トンネルが終わると小さな公園へたどり着いた。暗かった。気が付かぬ間に夜になっていたのか、あるいはここはまだ地下で、山か何かをくり抜いたドームのような場所なのか。見渡すと、何本かの木が空間を囲うように植えられ、ぼんやりとシーソーのような影も見えた。さらに奥に一本の街灯が光っていて、その白い円の中心に段ボールを広げて胡坐をかく男の姿が見えた。父かもしれなかった。近づくと男は手を挙げて挨拶をした。僕も倣った。

 ほとんど記憶にない父の顔は、こんな顔だっただろうか。小さいが鋭い瞳、横に出張った耳、頬はややこけて、それと釣り合わない赤みがかって丸くつぶれた鼻が顔の中心で一層大きく見える。ごま塩頭を坊主に刈り込んだ、初老の男。分からない。黙っていると男のほうから口を開いた。

「魔法使いに会いに来たんだろ。そいつはおれのことだ」

 僕は何と答えたらいいか分からなかった。厳密にいえば僕は魔法使いに会いに来たのではない。しばらく迷って、父親を探しに来たのだ、そう答えた。

「ふーん。父親ねえ。ここにはおれしかいないぜ……するとお前はおれの息子ってわけかい。確かにひとり息子がいるが……」

 顔も話しぶりも身なりの趣味も、僕に男が誰なのかを教えてはくれなかった、ただ、声だけは父のものだ。そんな気がした。

「まあいいじゃないか。何十年も前に別れた息子のことなんぞ、もう忘れたよおれは」

「それよりせっかく来たんだ。魔法を見せてやる。こっちに座れよ」

 僕はあまり乗り気になれなかった。この男が僕の父かもしれないと思い始めると、何か申し訳ないような気持と、昨日あの廊下で感じた憎しみが、地底湖のように深くえぐられた僕の心の底で再び沸騰しだすのを感じた。男は一瞬、たぶん複雑な顔をしていた僕の目を見つめたが、すぐに目をそらして続けた。

「まあいいから、座れって」

「こいつは特別なんだ。知ってるか、もうこの世に魔法使いはおれしかいない。だからおれの使うこの魔法も世界で唯一の魔法なんだ」

 男は背中のほうに手を回して小ぶりな段ボール箱を取り出して開けて見せた。

「なにに見える?その通り、死んだ鶏の肉だ」

 緑色のカビの生えた丸鶏だった。

「今からこの箱の蓋を閉める。それから三秒待つ」

「いくぞ、三、二、一」

「これがおれの魔法だ」

 男が箱を開くと、少し遅れてニワトリが這い出してきた。疥癬みたいな、ところどころ禿げた羽の間から、赤い血管の浮き出た肌の見えるニワトリ。片足がひん曲がっていてうまく歩けていないニワトリ。一声も鳴かず、街灯の描く円を越えて暗い闇の中へ歪な足取りで消えていく……

 僕はもう堪らない気持ちだった。叫びだしたかった。しかし一方で、この男が自分の父親である可能性も、まだ捨てきれずにいた。むしろ、その可能性が僕の感情を業火の淵に立たせている、それも間違いなかった。

「気に食わないか。手品とかじゃない。れっきとした魔法だぜ」

 憎しみ。やっぱり憎しみだろうか、この感情は。この今にも自分を搔きむしって、風船にを乱暴に割るように、破裂させてしまいたくなる感情は。

「気に食わないなら、まあいいさ。」

 男はつまらなさそうにそっぽを向いた。がすぐに向き直って口笛と一緒に手を叩いて言った。

「それならひとつ、賭けをしよう」

 僕はそれどころじゃなかった。が、一応男の話は聞いていた。声だけは父に思える男の顔を見ていた。

「お前はおれの魔法がお気に召さなかったみたいだから、どうだ、もし賭けに勝ったらここであった事も、なんならいらない記憶全部を消してやるぜ」

 おれの魔法でな。男はそう付け加えた。僕の返事も待たずに、この場所の闇ぐらい暗いねばついた口から、白い泡を飛ばしながら続けた。

「賭けの内容は、おれがお前の父親かどうかだ。勝っても負けても、お前は真実を知ることができる。悪くないだろう」

 確かに悪くない条件のような気もした。僕はとにかくこの一連の感情にけじめをつけたかった。

「負けたら、その瞬間からお前が次の魔法使いだ」

 男の言っている意味はよく呑み込めなかった。弟子にでもなれということだろうか。しかし、もうどうでもよかった。この男が父かもしれないという気持ちと、信じたくない気持ち。あの夢を見た時から続いている胸を締め付けられるような切なさと、青く輝く障子の向こうから聞こえた泣き声、この燃え盛るような憎しみと、一声も鳴くことなくどこかへ消えた醜いニワトリ……

「異存ないみたいだな。決まった」

「さあお前はどっちに賭ける?」

 僕は少し迷って……に賭けた。


 僕は賭けに負けた。その瞬間から、僕が次の魔法使いだった。男はまるで最初から存在しなかったみたいに消え失せ、この暗い公園にただ一人、遊ぶ子供もいない遊具に囲まれて、鶏肉をかたわのニワトリに戻すことしかできない。記憶を消す魔法なんて嘘だった。僕にはひとつの魔法しか使えない。そのうえ僕の魔法にかかったニワトリも、やっぱり一声も鳴かなかった。

 僕はこの世界にただひとりだけの魔法使い。

 そう僕こそが唯一の……

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