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4話

 胸の奥に残る違和感を、ユーリックは朝の支度に紛れ込ませた。

 主人が語らぬことを追及するのは無粋だ――そう思えば、考え込む必要もない。いつも以上に丁寧に掃除をし、食卓の準備を整えていく。


 雑念を手放すように身体を動かすほど、屋敷は少しずつ整っていった。


 例の依頼は、主人であるルシアンが動かなければ意味をなさない。ゆえに、今日の自分に特別な予定はない。買い出しや炊事、掃除といった日常の務めを淡々とこなすだけの一日だ。

 そもそも気まぐれな性格のルシアンだ。王の呼び出しを素直に受け入れたこと自体、奇跡に近い。動きたい時に動き、動きたくなければどれほど急を要する事態でも平然と背を向ける――それがいつもの彼だった。


「今日は何をしようか」


 ルシアンのその言葉に、やはり今日も何もしない日となるのか。あるいは先日のように、従者すら知らぬまま、どこかへ姿を消すのか――誰にも予測できない。

 何気なく放たれた言葉ひとつにさえ、ユーリックは胸をざわつかせる。自分が至らぬせいで、主人は時に秘密を抱え、ただひとりで動かねばならないのではないか。信を置かれるに値する従者なら、共に歩むことを許されるはずだ。

 やはり、自分も主人のように完璧であらねばならない――そう心に刻みながら、今日の務めに取りかかるのだった。




 朝餉もすでに終え、食器を片づけた後、廊下の隅に溜まった埃を払い落とす。窓を開け放てば、朝の光が屋敷に流れ込み、冷ややかな石造りの壁をやわらかに照らした。吸血鬼の住まう館とは思えぬほど清潔で明るいのは、従者の手が隅々にまで行き届いているからだ。

 水を汲み、花瓶に新しい花を挿す。炊事の残り香が台所に漂い、ほのかな温かみを空気に宿す。気がつけば、無機質だった屋敷は、どこか人の温もりを帯びていた。


 ユーリックはワインセラーを覗いた。

 棚を埋めていたはずの瓶が、すでに影も形もない。その惨状に目を見開き、大きくため息をつく。


「……先日買ったばかりなのに。いくらなんでも早すぎる……」


 頭を抱えながら、思わずぽつりと零す。ユーリックが眠っている間にどれだけ飲んだのか、想像するだけで気が滅入る。

 とはいえ、補充の役目を担うのは従者である自分だ。苦笑を浮かべつつ肩を落とし、次の買い出しの予定を頭の中で組み立て始めた。


 結局、必要なものは山ほどある。食材に、そして欠かせぬワイン。

 日用品は先日まとめて買ったばかりで、しばらくは不足の心配もない。だから今日は、食卓を支える品を中心に揃えるつもりだった。


 屋敷を出て街を歩けば、石畳の通りを朝の香りが満たしていた。焼きたてのパンの温かな匂いが風に乗り、思わず足を向けたくなる。小麦と酵母の甘い香りに混じって、露店からは野菜を並べる音や呼び声が響いていた。


「……ああ、菓子も忘れずに買わねば」


 主人の嗜好を思い出し、ユーリックは小さく呟いた。パンや野菜と同じくらい、いや、それ以上に欠かせないのが、ルシアンの好む甘い菓子だった。




 ひと通り必要な物を買い揃えたのち、最後に足を運んだのは酒屋である。

 重たい扉を押して中へ入ると、そこは香り高い酒の空気に満ちていた。棚には赤や琥珀に輝く瓶が整然と並び、まぎれもなく酒屋だと一目でわかる。


「おや、これはこれは。先日いらしていただいたばかりでは?」


「……ええ、まぁ」

 ユーリックは苦笑し、視線を逸らす。数日しか経っていないのに、もう補充が必要になるとは思わなかった。もちろん理由はただ一人――主の過ぎた嗜好のせいだ。やはり日を開けずに来ることになるだろうか、と気恥ずかしさを覚えた。





 酒屋を後にし、袋を抱えて通りを歩いていると、耳に飛び込んでくる噂話があった。


「最近な、街外れの空き家に誰か住み着いたらしいぞ」

「へぇ、ずっと放置されてたあの家か?」

「ああ。あそこから悪臭がするとか、変な笑い声が聞こえる……とかで、近所の連中が気味悪がってんだ」


 立ち止まらぬよう耳を傾けつつ、ユーリックは僅かに表情を曇らせた。

 ――悪臭。誰も寄りつかぬ廃屋に住み着く者。


 先日、ルシアンと遭遇したあの「吸血鬼を襲う人間」が脳裏をかすめる。

 まさか同じ者が……? そう思ったが、すぐに振り払った。確証のない憶測を重ねても意味はない。


 それでも胸の奥に微かなざわめきが残る。

 いずれにせよ、自分ひとりで判断すべきことではない。


「……帰ったら、ご主人様に相談してみるか」


 そう心に決めると、片腕に食い込む重みを抱え直しながら、屋敷への帰路を急いだ。




 屋敷へ戻ったユーリックは、まず荷を下ろし、買ってきた品々をそれぞれの場所へと収めていった。

 食材は台所へ、菓子はいつもの棚へ。そして重たい瓶の詰まった袋を抱え、地下のワインセラーへと向かう。ひんやりとした空気に包まれながら、空いた棚へ一本ずつ丁寧に並べていくと、ようやく肩の重荷が下りたように息を吐いた。


 務めを終えて階上へ戻ると、ようやく主人に声をかける。


「……街で、少し気になる話を耳にしました」


 ソファに腰をかけていたルシアンが、手にしていた本から顔を上げる。深紅の瞳が淡く光り、続きを促す。


「街外れの空き家に、最近誰かが住み着いたらしいと。放置されていた家から悪臭がするとか、奇妙な笑い声が聞こえるとか……。住人たちは気味悪がっているそうです」


 ルシアンは短く相槌を打つと、再び視線を本へ戻した。そのまま、何気ない調子で言葉を落とす。


「……その人間と実際に遭遇したのは、キミだろう。私はどんな者か知らないが――キミなら、多少は察しているのではないか?」


 紙をめくる音だけが静かな部屋に響く。冷淡な口ぶりに似合わず、その問いは従者を試すかのように鋭かった。

 ユーリックは思わず息を呑む。


 ルシアンはいずれ向こうから姿を現すと言った。素直にそれに従うべきなのだろう。しかし目の前にチャンスがあるのだ。


「……私は、調査するべきだと思います」


 小さく、それでも確かな決意をにじませた声。

 本から視線を外さぬまま、ルシアンの唇がわずかに弧を描いた。


「ならば行こうか。私も興味があるからね」


 それは何気なく告げられた言葉に過ぎない。だが確かに、主人は共に赴く意思を示した。

 ユーリックは胸の奥で静かに息を整え、その背に従う覚悟を固めた。

 


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