2話
朝が訪れた。
窓辺から射し込む淡い光に、ユーリックはゆっくりと瞼を開いた。
昨夜もまたルシアンの魔法に包まれ、深い眠りを得られたのだ。
本来なら夜は苦痛でしかない。過去の傷が眠りを拒み、闇に沈むのは恐怖そのもの。
だがルシアンの魔法はその闇を静かに払い、安らぎを与えてくれる。
だからこそ、ユーリックはこうして穏やかな朝を迎えられるのだった。
彼は洗面台へ向かい、水で顔を清める。
鏡に映る自分を見据え、シャツの襟を整え、ジャケットの皺を伸ばした。
タイを慎重に結び、指先で結び目を確かめる。わずかな乱れも許さぬ姿は、すでに一日の務めにふさわしいものだった。
身支度を終えると、ユーリックは深く息を吐き、部屋を後にした。
静かな廊下を進み、重厚な扉の前で立ち止まる。そこがルシアンの部屋だった。
「おはようございます、ご主人様」
扉をノックしながら声をかける。
「おはよう。よく眠れたかな?」
「おかげさまで、快眠でした」
カーテンは全開。太陽の光が眩しい。人間でも目を細めるほどなのに、吸血鬼の始祖はまるで気にしない。
──石畳を進む馬車の中、ルシアンは小さな焼き菓子を摘んでいた。
「ご主人様は、なぜ食事をなさるのです? 必要ないのに」
謁見を前に菓子を頬張る主人に、ユーリックは呆れ半分で尋ねる。
「生きるためには不要だが、寿命ある者の楽しみを真似るのも悪くない」
ルシアンは満足げに目を細める。
「……ただの趣味じゃないですか」
ユーリックは額に手を当てて嘆息した。
やがて馬車は王宮の前に止まる。
御者が扉を開けると、ルシアンは気怠げに伸びをして降り立ち、その後ろにきっちりと身を整えたユーリックが続く。
「今日も面倒くさい役目だな」
「ご主人様、王に謁見するのです。せめて真面目に」
「分かってるさ。……まあ、彼に会うのは楽しみだけどね」
二人が玉座の間に通されると、そこに王ハインリヒの姿があった。
背筋を正し、威厳をまとったその姿は、生真面目な中年の王そのものだった。
「来てくれて助かる、ヴォルコフ卿」
ハインリヒは厳格な声音で告げる。
ルシアンは片手を振り、にやりと笑った。
「卿? 随分と格式ばった呼び方をするじゃないか。……ああ、そうか。昔は私の服に隠れて泣いていた坊やが、今じゃ立派な国王だからな」
廷臣たちがざわつき、「無礼だ!」と声を荒げる。
だがハインリヒは手を挙げて制した。
「……いつまでも子供扱いはやめろ。私は国を治める王だ」
「真面目になりすぎて、すっかり面白くなくなったな、ハインリヒ」
ルシアンは愉快そうに肩をすくめる。
「私は昔から変わらん。貴方が軽薄すぎるのだ」
「ふむ、そうだったかもしれないな」
ルシアンは笑みを深め、あえて場を和ませるように見えた。
ユーリックは冷や汗を流しつつ、背筋を正した。
「……さて、本題に入ろう」
王の声が厳かに響く。
「近頃、吸血鬼の被害が相次いでいるのは知っているな。だが、ただ血を求めるだけではない――一部の吸血鬼には耳や指が欠けた者がいたという。戦いでの傷ではない。引きちぎられたかのような痕だった」
廷臣たちは不安げにささやき合う。
ルシアンは静かに耳を傾けながらも、どこか楽しげに笑みを浮かべていた。
謁見を終え、二人は王宮を後にした。
昼下がりの陽光を浴びて、石畳の道を馬車が軽やかに進む。
「耳や指を引きちぎられた吸血鬼、か……」
ユーリックは腕を組み、考え込む。
「ただの傷ではなさそうですね」
「実験、かもしれん」
ルシアンが退屈そうに外の光を眺める。
「人間は好奇心が過ぎると、ときに醜いことをするからな」
「……なるほど。吸血鬼は死ねば砂になる。なら、生きたまま一部だけを奪った……そう考えれば辻褄が合います」
ユーリックは感心したように小さく頷いた。
「飲み込みが早いな」
ルシアンは唇の端を上げ、からかうように笑う。
「まあ、真相はこれから確かめればいいさ」
馬車は昼の街並みを抜け、蹄の音を響かせて進んでいった。
「少し日用品を買い揃えてきます。ご主人様は?」
「私は面倒だ。先に帰っている」
ルシアンは手をひらひらさせ、シートに身を預けた。
ユーリックは小さく嘆息しつつ、馬車を降りて市場へ向かう。
賑わう街で、彼は食材や日用品を整えた。
「……まったく、ご主人様は菓子とワインばかり。せめて栄養を考えなければ」
荷物を抱え、苦笑混じりに独り言をこぼす。
夕暮れの街角。買い物袋を抱えたユーリックの耳に、不穏な声が聞こえる。
気配を辿り路地裏へ向かうと、牙をむき出しにした吸血鬼が一体。片耳が引きちぎられて欠けている。
「……クソ、人間……!」
濁った声で唸りながらも、瞳には怯えが宿っていた。
「またか」
ユーリックは短剣を抜き、構えを取る。よく見ると吸血鬼は血を必死に押さえ、追い詰められた獣のように震えていた。
その瞬間。
「おお……! ラッキー一本釣り!」
甲高い声が路地裏に響く。
鉄の鉤のついた器具が吸血鬼の肩に突き刺さり、無理やり片腕を引きちぎった。
「ぎゃあああっ!? やめろ……!」
吸血鬼は恐怖に駆られ、もがきながら悲鳴をあげる。
だが影の男は構わず、もがれた腕を掲げ、狂ったように笑った。
「いいぞ! 最高だ……この反応、この断面!素材として完璧だ!」
耳と腕を失った吸血鬼は、回復のため血を求め、死にものぐるいでユーリックに襲いかかる。
しかし、手負いの吸血鬼など相手になるはずもない。ユーリックの一撃で、吸血鬼は砂となって風に散った。
「……で、貴方はどちら様です?」
警戒を崩さず、ユーリックは男を見上げる。だが男は吸血鬼の腕に夢中で、まともな反応を返さない。
とはいえ、これで王に報告する材料は得られた。早速犯人らしき人物が目の前に現れたのだから。
「後は……真祖。そうして、始祖にまで繋がればいいけどなぁ〜」
その言葉に、ユーリックの眉がぴくりと動いた。
(……始祖? ご主人様のことを言っているのか……)
だが彼は沈黙を守る。余計な言葉を出すより、相手に喋らせた方がいい。
男は勝手に続ける。
「耳も、指も、腕も……欠片ひとつだって貴重なんだ。
人工的に吸血鬼を生み出す……!なぜ吸血鬼は日光を嫌う?血を欲する?不完全な存在なのに、人間の脅威だ。だけど……始祖は違う!完璧な存在!ボクはそれを作りたい!」
狂気じみた声が路地裏に木霊する。
ユーリックはわずかに目を細め、その様子を黙って見据えていた。
「ご協力に感謝するよ……って、ああ!?」
突然の叫びに、ユーリックは目を見張る。
男の手にあった腕が、砂になり消え始めていたのだ。
「な、なんで消え……そうか! キミがそいつを殺したからか!」
男は数秒だけ呆然としたが、すぐに口角を歪めて笑い出した。
「フフッ……まあいいさ。標本としては失敗だ。だが収穫はあった! 死んだ吸血鬼の欠片は消える――それだけで十分な実験データだ!」
狂気の光を宿した瞳で、ユーリックを見据える。
「キミ……面白いね。吸血鬼を倒せる人間……ボクの研究には最高の比較対象だ。次会ったときもよろしくね」
その言葉と共に、男の姿は闇に溶けるように掻き消えた。
ユーリックは短剣を構えたまま、その場に立ち尽くす。
一瞬追おうとしたが、すぐに思い直す。
――今は追跡よりも、まずは報告だ。ご主人様に知らせる方が先。
ユーリックは短剣を静かに収め、荷物を抱え直して踵を返す。
そして夕闇の中、ルシアンの屋敷へと歩みを速めた。
夕闇の帳が下りるころ、ユーリックはようやく屋敷へと戻った。
玄関の扉を押し開け、重たい荷を下ろすと、胸の奥に残る緊張がわずかに解ける。
だが、荷を片付ける間も惜しんで、足は迷わずルシアンの部屋へと向かっていた。
「ご主人様、ただいま戻りました」
扉をノックし、深く一礼する。
「おかえり。……何かあったね?」
椅子に腰掛けたままのルシアンが、目を細めてこちらを見やる。
「はい。吸血鬼と遭遇しました。ですが、それ以上に――不可解な人物が」
ユーリックは慎重に言葉を選び、路地裏での出来事を語った。
欠損した吸血鬼。狂気の男の所業。人工の吸血鬼を生み出そうとしていたこと。そして「始祖」に言及したことも。
ひと通り聞き終えると、ルシアンは肩をすくめる。
「ふむ……予想は当たっていたが、吸血鬼の人工生成か。人間の好奇心も、ついにここまで来たか」
ルシアンはワインを揺らし、愉快そうに目を細めた。
「王への報告は、明日あらためて行います。まずはご主人様にお伝えしたかったので」
ユーリックは頭を下げる。
「真面目だな。だが、正解だよ。私が把握していれば十分だ」
ルシアンは小さく笑い、ワインを揺らした。
「今夜は無理に動かず休むといい。……もっとも、キミは一人じゃ眠れないんだったね?」
わざと茶化すように言いながら、指先で魔力を弄ぶ。
ユーリックは一瞬言葉を失い、視線を伏せた。
「……申し訳ありません」
「謝ることじゃない。恐怖を抱えるのも人間らしさだ。だから私が傍にいる」
軽口を叩いていたはずなのに、ルシアンの声音はどこか柔らかかった。
「安心して眠れるよう、今夜も魔法をかけてやろう」
その言葉に、ユーリックは胸の奥の緊張が解けていくのを感じた。
「……承知しました」
忠誠を込めて深く頭を垂れると、ルシアンは満足げに微笑み、杯を口に運んだ。




