1話
薄暮の空に、ひとつ、またひとつと星が瞬き始める。
街はまだ賑やかだったが、暗い路地裏だけは別の世界のように静まり返っていた。
そこに、人が倒れていた。
首筋から噴き出した血が石畳を濡らし、顔にはもう生気がない。
血で汚れた口元を袖で拭った男は、苛立ったように死体を蹴り上げる。
「やっぱり女かガキじゃねぇと、不味いな」
仲間に聞かせたつもりの独り言。しかし返事はない。
気分が悪くなり、振り返る。
「おい、拗ねんなよ。次は譲るから――」
そこにいたのは仲間ではなかった。
紙袋を抱えた、見知らぬ若い男だった。
「……何だテメェ」
男は舌なめずりをし、不敵に笑う。
「まぁいい。少しは美味そうだ」
だが若い男は気にする様子もなく、モノクルを直しながら懐中時計を覗き込む。
「……いけない。二分も遅れてしまう。ご主人様に叱られる」
完全に無視されたことで、男は激昂し襲いかかった。
砂塵が舞い上がる。
――気づけば、若い男はすでにその場を去り、足早に夜道を戻っていた。
「遅れて申し訳ありません」
紙袋を抱えた若い男――ユーリックは深々と頭を下げる。
ロッキングチェアに身を預けていた男は、白髪に深紅が混じる髪をかき分けながら気怠そうに答えた。
「良い。どうせ片付けてきたのだろう」
彼の名はルシアン・J・ヴォルコフ。吸血鬼の始祖にして、唯一の存在。
太陽の光を浴びても平気で、血を糧とする必要すらない。
始祖が人間に血を分け与えることで、“真祖”として新たな吸血鬼が生まれる。
しかし、その真祖は始祖とは異なり、始祖以外が血を分けても、劣化した存在――“欠陥品”しか生まれない。
世に溢れる吸血鬼たちはその結果だった。
ルシアンはその責任を自らのものと捉え、夜ごと人間を襲う吸血鬼を狩り続けている。
ユーリックもかつてはその犠牲者だった。
彼を救ったルシアンに忠誠を誓い、今は付き人として仕えている。
「最近は早い時間から現れるようになりました」
ユーリックは紙袋からワインの瓶を取り出しながら、先ほどの出来事を報告する。
ルシアンは一本を手に取り、ラベルを眺める。
「血は熟成すればするほど不味くなる。だから奴らは本能的に、若い人間の血を求める」
窓の外に目をやり、吐息を洩らす。
「……ワインとは逆だな」
「血を求める本能が強まっている、ということでしょうか」
「さてな」
はぐらかすような答えに、ユーリックは無言で視線を落とした。
月が夜道を照らし、街をほの白く染めていた。
屋根の上に立ち、ルシアンは人々の往来を見下ろす。
「人間とはなぜ学ばぬ。餌の食い放題ではないか」
「ご主人がここにいる限り、吸血鬼は寄りつきません」
ユーリックの声は冷静だ。
だがルシアンは低く笑った。
「最近は“血”が薄く、私の気配すら感じ取れぬ奴が増えている。それでも人を襲う。厄介なものだ」
その声には、自嘲が混じっていた。
その頃。
「騒ぐな……!」
吸血鬼の男は女性の口を塞ぎ、必死に抑え込んでいた。
女は恐怖に震え、逃れようともがく。
「クソッ……なんでこんなに苛立つんだ……?」
頭を掻きむしりながら、男は辺りを警戒する。
「そんな乱暴では、女性が可哀想だ」
静かな声が闇を裂いた。
吸血鬼は反射的に振り向き、そして凍りついた。
そこに立つのはルシアン。
理由はわからない。ただ――本能が恐怖を告げている。
「だ、誰だ! これは俺の餌だ!」
ルシアンは肩をすくめ、呆れたように答える。
「その震える体で、何ができる?」
吸血鬼は気づいた。体が動かない。
それが恐怖によるものだと悟った時には、すでに遅かった。
ルシアンの人差し指が胸に沈み、心臓を貫いた。
嫌な音とともに掌が埋まり、吸血鬼は悲鳴を上げる間もなく砂となり、夜風に散った。
「大丈夫ですか」
ユーリックが女性を支える。
腰を抜かした彼女は、怯えた瞳でルシアンを見上げた。
その視線に気づいたルシアンは、無言で姿を消す。
「彼は始祖です。我々の味方ですよ」
ユーリックは落ち着かせるように告げ、彼女の側に留まった。
「……どうして、吸血鬼と一緒にいるんですか?」
落ち着きを取り戻した女性が、震える声で尋ねる。
ユーリックは短く息を吐いた。
「妹を吸血鬼に殺されました。私にとっては仇です」
「なのに……なぜ……」
「例えば、妹が人間に殺されたら。あなたは全人類を憎みますか?」
女性は言葉を失った。
「世には善人と悪人がいる。吸血鬼も同じです」
そう言って笑みを浮かべたが、その瞳は冷ややかだった。
「それでも犠牲者は増えてほしくない。だから私は、ご主人に感謝しているし、見かけた吸血鬼は殺します」
女性は黙って頷き、帰路についた。
ユーリックはその背を見送り、心に隠した本音を噛みしめる。
――本当は、ルシアン以外の吸血鬼はすべて憎い。理性など持たぬ欠陥品だから。
彼が顔を上げると、屋根の上に座るルシアンの姿があった。
月を背に佇むその影を見上げ、ユーリックはふと笑みを零すのだった。




