酒場にて-2-
某所にて投稿していたものを改稿した作品です。
軍勢と、まさにそう呼ぶべき数だった。
降って湧いたのかと思うほどの数の群れ。絶望するには十分すぎる、視界の端から端までを覆い尽くす正に大軍と呼ぶべきその集まりを、ハンスは見る。
いかに軍政を強く敷く国家でないとはいえ、円環の一つを担う地沃国首都とは思えない数多くの獣たち。
ハンスが視界に捉えた巨獣の一頭、その首筋には矢が突き立っていた。恐らくは前進を食い止めようとして何者かが放ったものなのだろうが、その程度で止められるほどに容易い相手ではない。個々の力に劣れども軍勢を成して襲いかかる獣の群れは、人の営みなど容易く踏み潰す。
ハンスが外套の懐から取り出したのは、子供が刃物の扱いを覚えるために使うような大きさのナイフだった。群をなす巨獣は愚か、人一人の命を奪うのにも苦労するような刃だ。ただその刃には、街の行商が売るようなものとは明らかに違う、細やかな意匠の施された業物だった。
その刃を片手に、嘲るような獣の雄叫びに耳を貸すことなく、ハンスは一つの行動を取る。
ナイフを、自らの左の掌に突き立てたのだ。
掌から手の甲にかけて貫かれた刃の銀が、鮮やかな赤に染められていく。ずるり、と糸を引くような粘性の音と共に刃を引き抜き、傷口が開く左の掌を握りしめる。痛みに顔をしかめることもなく赤色が滴る拳に力を込め、魔導師は「ちからあることば」を紡ぐ。
静かに、しかし深く響く力強いバリトンの詠唱。
「銀の王権が命ず。《極光》が眷属、光輝の剣能を顕せ」
ナイフを核にして、変容が起きる。
言葉を引き金として甲高い金属音が響き、溢れ出る血が重力に抗い、一つの輪郭――光輝く剣――を象っていく。
不敗の賢哲、銀の巨腕、鉄血魔導。数多い異名と逸話の域にまで達する戦功で知られるハンス・フィリープ・フォン・グナイゼナウの異名の由来、極光の剣の片鱗である。
刀身が外界に触れたと同時、持ち主に確固たる勝利を約束する不敗の神剣。突如として瞬いたその光に、軍勢が低い唸り声を挙げる。警鐘を鳴らし始めた生存本能は、その元凶となる老人への攻撃を選択させる。
「恐怖を覚えて、なおも向かってくるか。ならば仕方あるまい」
短い最後通牒だった。
言葉を発すると同時、ハンスは歩き出した。悠然と、十歩ほどもないであろう大群との距離を自ら狭めていく。
「死をもって、牙剥く相手を違えたことを悔いるがいい」
荒野は、地獄と言う他ない一方的虐殺の光景へと変貌した。
ただ、始めからそうであったように獣であったはずのカタチが細切れにされていく。魔力光を伴って次々と大気へ熔けていく異形だけが、ある。大蛇の尾が宙を舞い、虎の頭が鞠のように転がり、血が河となって地を潤していく。慈悲という感情を欠片も含まない一閃は、その一太刀で幾つもの命を亡骸に変えていく。亡骸の中央、立つ人影は滝のような返り血をその身に浴びた初老の姿。だが、その返り血さえも魔力光と共に消えていく。
滂沱たる光の中、最期の一体となった巨獣。その前に立つハンスが手に握る光の剣は、赤黒い血糊と魔力光の残滓にまみれていた。
其処に人の姿があったならば、間違いなく彼は鬼神か悪魔として畏れられたであろう。しかし、今此処にいるのは言葉を解さぬ哀れな獣のみ。
猛禽を思わせる鋭い眼光が、異形の巨獣を貫く。怒りの高ぶりではない、沈痛な色の目が、しかし必死させるという意志をもって貫かれる。
「――すまぬ。我らが行いさえなければ生まれなかったはずの貴様らを殺すは、飽くまでも我らの勝手」
だが、という言葉でハンスの纏う空気が一変した。これから自らが奪う命への哀悼ではなく、多くの誰かを無差別に殺めた無秩序の怒りへ。
剣に込められた魔力が目を灼くほどの閃光を纏い、極彩色の燐光と共に放たれる。
音は、ない。ただ静寂の一音をもって巨獣の体は真横に分かたれ、光となり弾けて消える。
「怒りと怨嗟の矛先を、何も知らぬ民へと向けるのは許容できぬ。私が地獄に堕ちるその日を待っているがいい」
自嘲の色を含んだ苦い笑みと同時、光の剣が霧散した。ハンスは未だ血が滴り、痛みの残る掌を強く握り締める。
あの獣に殺された者は、もっと大きな苦痛と共に死んでいったのだろう。自分がたった今葬った獣たちもまた、このような掌の傷など比べ物にならない痛みと恐怖を抱え死んでいったのだろう。地獄に行き着いたならば、一体どれほどの者が彼へと矛先を向けるのだろう。この手にかけた何千何万という命の槍衾が一斉に自分の首を挙げようとするのだろう。
自らが触れた死に想うことはあれ、それに苦悩するほどハンスは若くない。彼は多くを救い、多くを見捨て、多くを淘汰してきた故にそれら全てを受け入れるのみ。今はただ前に、前へ、前へと進み、為すべきを為すのみ。
目を閉じ、ハンスは僅かに黙祷を捧げた。
外套で血を拭った拳を懐に納め、酒場へと戻る初老の腕は、溢れ出る淡い白銀の魔力光で揺らめいていた。