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酒場にて-1-

 この場所においては、喧騒さえも心地よさに変わるのかもしれない。

 そう考えながらグラスを傾ける一人の男の姿があった。

 短い白髪に鷲鼻、彫りの深い顔。話しかけることすら躊躇ってしまう、厳格な雰囲気を帯びた長身の初老の姿だ。漆黒の外套を羽織る異様な風貌が目を引くが、そんなことなどまるで介さずに琥珀色の液体が注がれたグラスを傾けながら、店の主であろう男に声を掛ける。

 本来ならば水で割るなり氷を浮かべるなりして楽しむ酒だ。直接呑むのは勝負事や景気づけに限られる強い酒であるにも関わらず、平然とグラスを空にした男に驚愕する店主へ初老は、

「主人、黒髪の子供を見なかったか」

 初老の言葉に店主は呆れたような軽い笑みを浮かべた。

「爺さん、あんた見ない顔だがここがどこだかくらいわかるだろ。酒場にガキが一人で来るわけねぇだろ?」

 後ろから聞こえる揉め事の声を無視しつつ、初老は言葉を続ける。

「もっともだ。では質問を変えよう、この辺りに変った獣を見たという話は? 頭と尾を幾つも持つ化け物のような獣だ」

 店主は再度苦笑した。そんなことも知らないのか、とで言いたげな表情で。

「ここに来るのは初めてか、爺さん」

 ああ、とだけ初老は言葉を返す。言葉を次がなかったのは、店主の表情に怒りの色があったからだ。

 それは初老へと向けられたものではない。理不尽を振りまく獣へと矛先を向けた、怒りの色だ。

「キメラって言ってな、この辺りじゃ村一つなくなっちまうことだってある厄介なバケモンだよ。ただ力が強いだけならまだいいが、厄介な連中は炎やら氷やら魔法まで使ってきやがる。ここ数年前にいきなり湧いて出てきて、今じゃあ報奨目当てのよそ者に退治を頼まねえとやっていけねえくらいだ――っておい! テメエら店壊すんじゃねえ! 聞いてんのか、ああ!?」

 店主の文句が注がれる先に初老が目を向けると、大柄な男をねじ伏せる少女の姿があった。店主の言う通り、並べられていた椅子や卓は真っ二つにされているものや脚を折られているものばかりであり、店の持ち主からすれば怒りを覚えても仕方がないだろう状態だ。

 初老は店主の言葉を反芻する。探し人はこちらには来ていないようではあるが、地の国にまで業の獣はその住処を広げていたようだ。

 自らがかつて犯した罪に、初老は僅かに表情を険しくした。あの時の過ちが、迷いが、今もこうして罪なき民草に被害をもたらしているのだ。

 その時だった。

 カウンターに置かれていたグラスが波を立てる。異質な気配を感じて振り向いた視線の先、初老の視界はその瞬間を捉えた。

 強い音とともに店の外壁の一部が崩れ、そこから姿を顕わにしたのは巨狼の姿。ナイフのような鋭い牙が並んだ大顎を開け、獲物が詰まった酒場という名の餌箱を見つけたことに興奮しているようだった。

 呆れたように溜息を一息つき、初老は店主に提案した。 

「主人。――次はもう少し丈夫な作りの扉にした方がいい。いい腕の石工を私は知っている。あのような木の扉では壊してくれと言っているようなものだ」

「何ボケてるんだ爺さん! 死にてぇのか!?」

「ああ、そう言えば私の名はハンスという。爺さんなどと呼ばず名で呼んではくれぬか?」

 食い違う会話の最中、つい先ほど男をねじ伏せた少女が腰に差していた獲物を抜き、獣へと華麗な剣戟を浴びせていた。

 荒削りではあるものの、十分な滑らかさを感じさせる流麗な剣の舞。自らへと迫る一撃一撃をその都度見極め、僅かに湾曲した刃でいなしながら的確な斬撃を放つ。良き師と多大な訓練によって練り上げられた技術だった。

 それ故に、初老は歯痒さを覚えていた。速さと効率のみを極度に求めている少女の剣は、その完成度の高さ故に儚さを感じさせる。鍛え上げるのではなく削り上げることによって先鋭化させたことにより、不意の一撃への対処をほぼ度外視した剣になっていた。仮にそれがあの巨狼にも感じられていたならば、血を流して断末魔を挙げるのは獣ではなく少女だろう。

 そんな初老の懸念を余所に、少女の放った突きが狼の目を串刺しにした。

 激痛と片方の光を失ったことによる錯乱が、狼の生存本能を奮い立たせたのだろう。それまでにない膂力をもって薙ぎ払われた爪に少女は僅かに後ろへ下がり、その隙を見た狼が凄まじい勢いで外へと走っていく。

 それが狼の犯した過ちだった。

 霧散した。狼の体が、影形もなく弾け飛んだのだ。血肉によって地に産み落とされず、魔力によって造られた紛い物の末路である。巨大な体躯を構成していた名残であろう血が床に僅かにこびり付く。

 僅かにグラスに残っていた琥珀の液体を呷り、初老は店主へグラスを預けた。

「空になってしまった。次を注いでくれ」

「――ったく、終わったのか?」

「ああ」

 カウンターの陰から恐る恐るといった風に様子を窺う店主は、安全を確認して深い嘆息をついた。

「命がいくつあっても足らねぇな。ほら、酔い潰れて野垂れ死には勘弁してくれよ?」

 狼を屠った少女と、その周りにいる何人かが言葉を交わしているようだった。声まで聞くことは喧騒の中でかなわなかったが、長身の男が少年の首筋に鮮やかな当て身を入れて彼を抱え、その取り巻きが店を出て行くまでをハンスは観察。

 元の喧騒を取り戻した酒場は、入口こそ壊されたものの問題なくその機能を持続させていた。

「――何なんだ、あの連中。あんな獣を軽く片付けるなんざ、この辺りの顔にはいねぇぞ?」

「さあ、それは私の知るところではない。それに主人、息つく暇など無いように思えるが」

「は?」

 入口の扉がなくなり、その周囲の壁も砕かれたことにより外を見通せるようになったそこから見えるもの。

 荒れ地の果てから濛々と上がる砂煙。紛れもなく、見間違えることなく。

 大軍勢となって押し寄せる獣たちの立てる砂煙だった。

 足音とは思えぬ地響きが店を揺らす。逃げることの無意味さを知った客は、何事もなかったように憩いの時間を再開していた。

 頭を抱えてうずくまった店主は、やがてへらへらと笑い出した。

「さて主人、ここで一つ交渉といこう。私は旅の者で路銀を近くの関で使い果たしてしまったのを忘れ、酒を呑んでいた」

「はっはっは、それがどうした。何なら店の酒全部開けてくか?」

「至極魅力的な提案ではあるが、憩いの場の主を死に追いやることは私の本意ではない。酒代を免じる代わりにあの群れを始末するか、大人しく酒代を踏み倒されて酒代以外の全てをアレにこのまま踏み潰されるか。好きな方を選べ」

「やれるもんならやってみてくれ。俺はもう寝る、これはきっと夢だ」

 言うなり酒瓶を枕にしてさめざめと泣き始めた店主を尻目に、一人ハンスは外へと出た。


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