邂逅 -d-
後ろ手に扉を閉め、青年は苦笑を浮かべた。
いかに龍の姫君であろうとも手負いであればか弱い少女と何も変わらない。しかも、大粒のオニキスを埋め込んだような黒の瞳と絹を思わせる滑らかな黒髪は、どことなく気品さえ感じさせる。
そして、その可憐な少女とはまるでかけ離れた、龍殺しの巨剣。昔話や神話に登場する類の、人の手には到底負えない代物だ。
ザイフルート。列聖された龍殺しの英雄が、同じ名の剣を使っていた。また、英雄その人の呼び名の一つでもある。静寂たる刃の美しさとは裏腹に、無尽蔵に周囲の魔力を収束し、指向性を持たせて自在に解放させることが出来る神格兵装。その一振りで、地図を書き換えることさえあったと言われる聖剣である。
あの剣の真贋はともかくとして、見事な意匠と冗談のような大きさ、その大きさに相応しい超重量。そして、その巨剣をまだ毒が抜けきっていないにも関わらず容易く振り抜いた少女の膂力。然るべき師の下で教えを受けていたなら大陸に名を轟かせる剣士となっていたに違いない。
……惜しいな。
それはエルンストの本心であった。しかし、師の無い剣の使い手であれどもこれまで多くの冒険者を屠ってきたのは事実。六大国に属する魔術師であるならば、彼女を保護するという選択肢はない。あるのはただ一つ、彼女を生死問わずに捕えることである。両手両足に不動結界を応用した拘束でもしてギルドに突き出せば一生遊んで暮らせるだけの金と大陸の安寧に大きく寄与した魔術師としての栄誉、そして自分が属する組織の中でも更に上の階梯へと進むことが可能となる。
尾を相食む蛇の名を持つこの世界――アウロボロスの六大国は、六つそれぞれの国土が長らく不可侵を保っていた。だが、その不可侵の歴史を打ち壊した国家があった。
龍をその国家の紋章に刻む大陸最大の軍事力と経済規模を持つ白の国、光皇国だ。先王の死によって即位した今の王が振るう辣腕とも言うべき内外への政策は、それまで他の国より劣ってさえいた国力を向上させ、積極的な侵攻によって国土の拡大を推し進めている。その煽りを受けた黒の国、夜嬢国は徐々に力を衰えさせていた。このまま行けばそう遠くない先に光皇国は夜嬢国を併呑し、その勢いのまま進撃を進めていくだろう。
そうでなくとも国力の疲弊が著しい夜嬢国が光皇国の攻撃をまともに受ければ、簡単に瓦解することは想像に難くない。古くから外部からの交流を閉ざしていたため魔術や文化、技術などといったものの流通もなく、文化水準は他の五つの大国と比べても一世代前のものと考えるのが妥当だ。古くから国民同士の団結力の強さ、そして国王への忠誠心の強さでは他の国を優に超えるものであったが、今の時代ではそれが仇となった。
しかし、光皇国がまだ具体的な侵攻に着手していないのには一つの理由があった。均衡の守護者と呼ばれる、どの国家にも属しない魔術師たちの存在である。
六つの大国がその形を持つようになったその時から今に至るまで続く、六つの大国それぞれをそのままの形で維持させる事を目的として活動する魔術結社。エルンストもまた、均衡の守護者に属する魔術師の一人として数度の紛争に介入していた。六大国それぞれに存在する魔術学院にて高度な魔術を修め、冒険者として功績を上げた者のみが所属を許される知られることのない存在だ。国家間の紛争行為に割って入るという行動指針である以上、自分の身を守るのに加え大多数の相手をすることが出来る魔術を習得し、それを手足のように自在に動かせなければ命がいくらあったとしても足りない仕事である。
守護者というのは大抵が情感と折り合いがつかなかったり何らかの理由で軍籍から解かれた生粋の戦闘魔術師か、冒険をしていく内にいつの間にか勧誘を受けてそのまま落ち着いたという二通りの型が存在する。エルンストの場合は後者で、もとは炎凰国の商人の子であったのが今では国家間の力の均衡を保つという大それたことをする魔術師となっていた。
国家間の均衡を保つという仕事をする以上、六つの国家がどのような状態であるかというのは当然情報として知ることはもちろん、自らの目でその状況を実際に確かめることが肝要である。それが守護者となる際に受けた教えの一つで、エルンスト自身そのことをよく熟知していた。事実として、光皇国の国民から崇拝される救国の英雄が、今では王に避けられ、それを耳にした他国が英雄の囲い込みを始めているというのだ。
名はハンス・フィリープ・フォン・グナイゼナウ。大規模な内乱を数度経験し、その乱ごとに耳を疑うような武功を打ち立て、今は光皇国の護国鎮府卿という筋金入りの英雄である。まだ統一が完全でなかった光皇国の主たる軍事行動の多くに参加し、血の河と屍の山を幾つも築いてきたという。
だが、そのような血生臭い話よりも皇国を救った英雄をして、今でも国民からの崇拝は篤い。事実、光皇国では『グナイゼナウ卿のようになれない』という一言が魔術師を目指す子供に使う慣用句になっている。もしも彼が侵攻のの尖兵となるならば、いかに連環を成す大国であろうとも無事には済むまい。光皇国の現王との確執が噂されているが、国家への忠誠心の篤さで知られる男が叛逆などといった真似に出るはずもないだろう。
そして、光皇国にとって近年最大の障害となっていた≪龍の姫君≫その人が、今はこうして手傷を負っている。見てくれこそは可憐な少女であるものの、纏う威風はやはり六大国が警戒するのも頷ける。さすがに五体満足な彼女を相手にして、無傷で勝つのは不可能に近い。
「守護者様が考え事か。龍の姫君を手懐けようってか?」
軽い男の声にエルンストは肩をすくめ、
「犬なら噛まれても痛いで済むが、龍相手だと食い殺されるのが目に見えてるさ」
「はははっ、違ぇねえな! で、どんな化け物だったんだ? もう、こう鬼だとかオークだとかとのハーフでもうそれはごっつい……」
「なんかお前の想像がどういう方向に向いてるのかはこの際問わないが、人間のかわいい女の子だぞ?」
何!? という声と同時、すとん、という音で表れた姿があった。
狼の耳と発達した犬歯、そして浅黒い肌の青年だ。なめし皮の軽鎧と腰に携えた四本の短剣がかちゃかちゃと音を鳴らす。
「マジか? マジでか!? マジなのか!? 俺ら人狼を鼻であしらうあの≪龍の姫君≫が、 か わ い い 女 の 子 だと!?」
一人で盛り上がりの佳境を迎えた人狼の青年の額を、エルンストは人差し指で軽く小突いた。
軽い溜息と、
「何なら見てくればいいさ。ヴィド、その代りと言っちゃ何だけど命の保証はできないよ? 僕の結界を一層とは言え破っているからね、当たれば挽肉になること請け合いさ」
皮肉を口に、軽く笑う。
ヴィド、と呼ばれた人狼の青年は下を見つめ静かになる。直後、顔色を変えてエルンストに詰め寄った。
「おい待て、お前の結界を破ったのか!? 俺が三日かけてヒビ一つ入れられなかったあのクソかてぇ結界を!?」
「そう、しかも咄嗟のこととは言え、割と本気で編み上げた法術だった。それこそ、巨龍を閉じ込める時に編む結び方と同じだったんだけどね。おかげでこのザマさ」
エルンストがゆったりとした右の袖をめくり上げると、そこには真新しい焼き鏝を押し付けられたような火傷が幾つも浮かんでいた。文字を幾何学的な記号にしたような印が、白い肌にまざまざと記しこまれている。強力な魔術を破られた際に行使者に刻まれる反発刻印だ。
「あの怪我でこの力だ、龍殺しそのもので間違いない。神話の通りだと考えれば一振りで山一つを抉るってシロモノだ、結界で防ぐことが出来て運が良かったよ」
背中から袈裟切りを浴びせかけられた時に放たれた結界の反動だった。十分な詠唱を元に構築された結界であればマナを魔術師を完全に切り離して展開できるため、破られても反動はないが、咄嗟にしかも大出力の結界を展開すれば結界を構築するマナが魔術師と直結した状態にならざるを得ない。もしその状態で結界が破られれば、破られた際の反動がすべてではないにしろ術者に襲い掛かる。だからこそ、生粋の魔術師という生き物は戦闘よりも戦闘の準備にその技術を費やすのだ。
反面、少女は魔術らしい魔術を行使することもなく結界を叩き割った。単純に、膂力と巨剣の超重量が生み出す破壊力のみで、だ。それがどれほど馬鹿げた話なのかは、結界を操るエルンスト自身がよく思い知っていた。
……雷でも落ちたみたいな一撃だったな。
手負いであれほどの威力だったのだ。龍の姫君の名は、伊達ではない。
「くれぐれも部屋に潜り込まないようにね。本調子になる前に、僕ももう一度あの子の周りの結界を新調しないと。そのうち破ってこっちに向かってきてもおかしくないからさ」
手をひらひらとさせて笑みを浮かべながら、エルンストは自らの部屋に戻っていった。