09 ほろほろのシュガークッキー
サーシスとベルファルク――――偽アルムが戦いを始める、少し前のこと。
リリーナは自宅兼食堂に戻ってすぐ、店の椅子に腰掛けて、ぼうっと、天井を眺めていた。円形になっているテーブルに、椅子がいくつか並んでいる。
アルムはここでよく、リリーナの向かいに座って食事をしていた。大盛りでご飯を用意しても、アルムの腹の中にはすぐぺろりと消えてしまうのを、なんとなく、思い出した。
そんなアルムは、もう死んでいたらしい。
涙は、出てこない。
母が死んだ時もそうだったなと、リリーナは思った。夕焼けが、リリーナの頬を赤く照らしていく。
「(……サーシス、あいつと、戦うって、言ってたわ)」
今夜だとも、そう言っていた。
森の方までおびき寄せて、そこで戦うと。だが、もう無駄だった。確かに、世界を救うという意味では必要なことだが、アルムを助けるという意味で見れば、サーシスが語った"切除"は、無駄でしかなかった。だってもう、切除したところで、アルムの体は死んでいるのだから。
衝撃は、最早ない。
ただ、微睡に似た絶望が、足元から徐々に自分を満たしていく感覚を、リリーナは覚えた。そしてそれに抗う気力も、もはや失せていた。抗うことはせずに、ただ、堕ちていく。
もう戻って来れないような気がした。母を失った時のように、自分を照らしてくれた太陽は、もうこの世に居ないのだから。
「(…………あいつ、何を、最後に言おうとしてたんだろう。遮っちゃった。聞いてあげれば、よかったかな……)」
最後に何かを言いかけた偽アルムの姿が、脳裏によぎった。思えば、ずっと、彼の挙動は何やら妙だった。リリーナを気にしているし、お礼を言ったりもするし、言葉を選んだりもする。サーシスは魔王だと言っていたが、そうではないような気もした。
恐れを抱いたり、憎悪に似たものを抱きかけたりもしたが、なんだかんだ、いざ、彼と話すと妙に力が抜けてしまった。
「(…………なんでだろう、)」
リリーナは、考えた。
アルムを殺しているかもしれない相手。なのに、どうして、あんなにも警戒が出来なかったのだろう。アルムの顔だからと、そう思っていたが、少し、違うのかもしれない。少し考えて、リリーナは、その理由に思い至った。
「(……ああ、なんか、あいつが気遣ってくる感じが、アルムに、すっごい似てたからね……)」
なんとも言いがたい、不器用な優しさ。
母を失ったリリーナの側に、ただ、黙って居てくれたような。目を少し晒しながら手を差し出してくれるような、無骨な優しさ。アルムによく感じていたそれを、あの偽アルムも持っていたのだ。だから、リリーナは、完全に彼を敵視することができなかった。
口から、自嘲の笑みが漏れた。
だが、結局は、死体のアルムに寄生しているのだから、そいつに絆されかけていた自分も、自分だ。アルムを思う資格など、ないのかもしれない。
立ち上がって、夕焼けを見た。
少しの眩しさに目を細めると、リリーナは、窓を背にして店全体を眺める。アルムはよくここで一緒にご飯を食べて、サーシスはここで悩みを聞いてくれて、偽アルムは、ここで下手くそなアルムの真似を披露していた。彼が座る席はいつも同じで、窓に近い、端の方だった。それも、ど真ん中に遠慮なく座るアルムとは少し違っていたのだけれど。
リリーナは、端の席まで歩いた。それから、何か見慣れない箱があることに気が付いた。
「……………何かしら、これ」
細い声で疑問を口にしてから、リリーナはそれを手に取った。
箱は、縦はリリーナの親指を広げたぐらいの幅で、横はそれよりも少し長い、長方形の形をしていた。よく見ると、中身が多すぎて入り切らないのか、蓋が少し浮いている。一瞬躊躇ったが、ここにあるということは、あの偽アルムのものだろう。リリーナは、席に座ると、箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、手紙だった。
それも、溢れ出るほど大量の。一番上の手紙を手に取る。
宛名は、リリーナ。
ヘタクソな読みづらい字は、リリーナに一緒に字の勉強を始めた時から変わらない。
―――――まさか。
リリーナは、早急な手つきで手紙を取り出した。
手紙には、明らかにボロボロに破られたような跡があった。それを、蝋を溶かして裏から別の紙で補修している。リリーナもやったことがあるが、結構面倒な手順だった記憶がある。
破れないように慎重に、リリーナは、手紙を読み始めた。それは、アルムからのものだった。すぐさま、リリーナは箱を丁寧にひっくり返した。手紙は、三年前から、アルムが勇者を倒す直前まで。膨大な枚数だった。
「……どうして?アルムは、一度だって、あたしに……」
手紙を、寄越さなかった。そのはずだ。
リリーナは、震える手でアルムの手紙を読み進めた。全てが、間違いなく、アルムの筆跡だった。
『リリーナ、「格好つけて魔王を倒すとか言って…」とか思ってるだろうけど、本当に魔王を倒してきてやるからな!約束…は…忘れないでいただければ大変幸いです…………』
「……なんでいきなり弱腰なのよ!」
少しばかり涙声になってしまったのを後悔するほどに、ヘタレな弱腰から、アルムの一枚目の手紙は始まっていた。
二枚目、三枚目、四枚目――――数えきれないほどのアルムの手紙に、リリーナは、一つずつ目を通した。知らなかった、アルムの三年が。魔王を倒すまでの旅路が、そこに記されていた。
『今日は、峠を超えて更に北まで行こうって話になってたんだけど、ルートを外れた方の村から襲撃に遭って逃げてきたって人がいて、そっちに向かったよ。なんとか助けられた!サーシスにはしこたま怒られたけどな……。ほんとごめん、サーシス…。
助けた村の人が、銅像建ててくれるらしいぜ!リリーナは何がいいと思う?ポーズ案募集中』
『色んな地方を巡ったけど、リリーナの飯より美味いものはないよな〜。と思ってたんだけどさ。びっくりした、今日サーシスが買ってきてくれたシュガークッキー、すっげえ美味かった。あっ、ごめん、ごめんって、違うんです〜!怒らないでな!今度、リリーナにも買ってくから!』
『今日は、魔物の襲撃に遭った村へ行ったよ。守りきれなかった。なんなら、俺とサーシスも、殆ど死にかけみたいな状態で、なんとか魔物を撃退した。それぐらい、強かった。
あ、今は無事だからな!俺の剣ってやっぱり最強だから、俺を守ってくれた。
俺たちって、随分南にいたから知らなかったけど、魔物の被害って、やっぱり相当甚大なんだよな。……最近知った計画だと、海を経由して、南の方から王都を挟撃するって計画もあった。そしたら、村は……俺たちの村は、拠点にされたかもしれないよなと思ったら、怖かった。
リリーナ、もし、何かあったら、絶対に自分の身を一番大事にしてくれ。逃げてくれ。お前が居なくなったら、俺は、戦えないから。お前が無事なだけで、俺は戦えるから。…俺を守ってくれるみたいに、お前にも、守ってくれる奴が、そばにいたらいいんだけど。ごめんな。そばに居てやれなくて、ごめん』
リリーナは、やがて、震える手で、最後の一枚に目を通した。魔王に挑むその前夜に、アルムが書いたものなのだろう。
いつも通りふざけた口調で綴られた手紙の最後の方に、震えた筆跡で、こう書いてあった。
『本当は、すっごく、怖い。勇者になんかなるんじゃなかったって、思ったことも、何回だってある。でも、それでも……行こうと思う。使命感じゃなくて、ただ、俺が……そうしたいから。
帰りたいな。リリーナのところに帰りたい。
リリーナの顔が見たい。また、ご飯が食べたい。
またふざけて見せるから、呆れたみたいに笑って欲しい。リリーナ、大好きだよ。
世界で一番君が大好きで、君のためなら、震えた手で、剣を握れる。絶対帰るから。帰ったら、また、一緒にご飯を食べたい。何食べたいか、考えておくから、お互いに食べたい物を言い合いっこしようぜ。
……じゃあ、ちょっと、世界、救ってくる!』
暖かい涙が、溢れるのを止められなかった。アルムは、ずっと、リリーナに手紙を書いていたのだ。こんなにも生きた痕跡で、ずっと、ずっと。
「…………何が、"ちょっと世界救ってくる"よ……ばかアルム…………」
嗚咽が漏れた。しゃくりあげながら、リリーナは、手紙をそっと置くと、顔を覆った。
アルムは、どんな気持ちだっただろうか。
リリーナは、アルムから手紙が来ないとずっと思っていた。それに不貞腐れている時も、ないことはなかった。どうせ幼馴染のことなど忘れているだろうと、拗ねてもいた。でも、アルムは、ずっと、ずっとリリーナに手紙を書いていたのだ。旅の中の喜びも悲しみも、恐怖も、痛みも、全て。
リリーナから手紙が返ってこない三年、アルムは、どう思っていただろうか。それでも手紙を書き続けて、どういう気持ちだっただろうか。彼が怖いと、そう綴った時、どうして自分は、アルムを抱きしめてあげられる程、近くにいなかったのだろうか。
「…………っ、ごめん、ごめんね、アルム………」
途方もない悲しみと、後悔と。ほんの少しの勇気を抱えながら、リリーナは、暫く、静かに嗚咽を漏らした。やがて、月明かりが彼女の頬を照らし始めた頃、リリーナは、顔を上げた。その目には、強い光があった。
――――アルムは、ずっと手紙を書いていた。
なのに、それを届いていないと、そう言っていた人が。書いていたことを知っていたはずなのに、まるでアルムが書いていないかのように言っていた人が、一人いる。
破られた痕跡のある手紙。アルムが手紙を出すにあたって、頼るであろう人物。シュガークッキー。…一度、"アルム"に向けて出した手紙に添えたもの。初めて偽アルムに会ったときに、彼がポツリと呟いた「手紙」という単語。
その人物からの手紙は届いて、アルムからの手紙は届かなかった。リリーナの出した手紙も、アルムには届かなかった。アルムの、そしてリリーナの手元に来る前に、それぞれの手紙を破り捨てた男。
数刻前に交わした会話が、蘇る。
『……本当に理由は言えないの?サーシスだって、あたしの大事な幼馴染なのよ。それをまるで、信用できないような…』
『………………信用できないからだ』
「……………………サーシス」
絞り出した声は、静かな怒りに満ちていた。
嘘で嘘を塗り固めた、サーシスに。そして、彼が犯行に至るまでの事を何も知らない自分に。何より、全く気が付かずに、サーシスを頼った弱い自分に。
全てのピースが、ようやく、リリーナの中で揃った。リリーナは、アルムの形見になってしまった鍵型のネックレスを首に掛ける。
「……あいつにも、謝らなくちゃね。…アルム。あたし…」
ドアを開け放つ。いつの間にか降っていた、大粒の雨が、吹き込んできた。リリーナは、雨粒を顔で受けながら、眼前を睨む。
「――――"ちょっと、あんたの偽物、助けに行ってくる"」
勇者でもなんでもないただの村娘は、一度だけ、振り返って、少し格好付けて。すぐさま、夜の闇の中に駆け出して行った。
次回、決戦です。
村娘と裏切りの騎士と忠義の魔剣。その果てに。