08 残されたのはナイフだけ
絶望。
その感情を魔剣が初めて知ったのは、アルムの首から噴き出した血飛沫を、鋼の体全部で浴びた時だった。
アルムがサーシスに首を切断されて、その足音が遠ざかって。
ぴくりとも動かなかったアルムの指先が、微かに動いた。
アルムは、なんとか愛剣を指を添えるように握り込むと、這うようにしながら、森を進んだ。一歩進むたびに、途方もないほどの激痛が、アルムを襲ったのだろう。時折呻きながら、文字どおり命を削りながら、アルムは這っていた。
恨み言の一つでも、サーシスに吐いて良かっただろうに。
「りりー、な、」
アルムが呟くのは、幼馴染の女の名前だけだった。
アルムを止める術は、無かった。
死に行くアルムに声を掛けられる口も、這いずるアルム止めてやるための腕も無ければ、助けを呼びに行くための足すらも、魔剣である彼には無かった。
やがてアルムが、故郷の村へと続く道で完全に動かなくなって、息絶えて――――彼は、無いはずの胸が、冷えるような。無いはずの視界が、黒一面に塗りつぶされるような感覚を、確かに感じたのだ。
✴︎
アルムは、いつも何故か決まって、己を研ぐ時に語りかけてくる、妙な人間だった。
「なぁ、今日、新しい技を試したけどさ〜……お前にはすっげえ負担だったよな、気をつける」
「明日もよろしく頼むぞ〜。俺の命を預けてる相棒なんだからさ」
ベルファルク。――――魔剣ベルファルク。
それが、勇者アルムの死体に寄生した魔物の名前だった。
リリーナは、「寄生している」という単語を偽アルム――――ベルファルクに向けて発した。ならば、大方、サーシスからある程度の話を聞いているのだろう。
魔王は、初代勇者に寄生していた。魔王は、"何かに寄生する生物"である。
それ自体に誤りは一つもなく、紛れもない真実だ。サーシスは、嘘が上手い。真相をリリーナに確かに伝えながら、最も重要な部分だけは嘘を吐いた。
だが、勇者アルムの遺体に寄生したのが魔王かと言われると、それは真っ赤な嘘だ。勇者アルムの遺体に寄生しているのは、彼、ベルファルクなのだから。
ベルファルクは、魔物だ。
それも、魔物の中でも相当に長生きな長命種。いわゆる、"高位魔族"と呼ばれるほど、長い命を生きている。その起源は魔王の発生の頃に等しいほどに遡る。
魔王と同種の魔物であるベルファルクは、実態を持たない魂だけの存在であり、任意の物体に寄生するという能力を持つ。
サーシスはこの点においても、少しの嘘を織り交ぜている。彼が語った話では、生物だろうがお構いなしで寄生できるという話だったのだから。実際、初代勇者と話などしていない。魔王を倒した後、器だった初代勇者は、寄生される前の状態である死体に戻って、朽ちただけだ。
魔王が初代勇者の死体に寄生し、大いなる力を行使したとすれば、ベルファルクはその逆。適当な剣に寄生して、自分を扱う愚かな人間を気まぐれに呪い殺す。そういう魔剣としての生を、数百年以上も送ってきた。
だが、ベルファルクにとって、アルムという持ち主は、それまでとは一線を画する人物だった。人間など、所詮は強欲で、すぐに人を裏切り、欺瞞に満ちている――――例えば、サーシスのような。そういう人間ばかりだと、ベルファルクは思っていた。
中には珍しく、初代勇者のような人間もいるようだが……ベルファルクの魔剣という性質からか、そういった人間に巡り会うことはなく、剣として振るわれたベルファルクにとって、人間の心は、移ろいやすい水面のようなものだった。
「なぁ、……もし、俺が……死んだらさ……」
「お前は、誰か、また優しい人の所に行けるといいよな。魔王も、わざわざ剣を折ろうとは思わないと思うんだ。そしたら、俺の代わりに、世界を見てさ………はは、何言ってんだ、俺。弱気になりすぎ…」
アルムは、愚かでもなく、蛮勇でもなく。
正しく怯える人間としての性質を持ちながら、どこまでもその性根が優しいだけの男だった。
勇者という称号が、心を指すものであるのならば、そのあり方は、どこまでもアルムを指していると、そう思うほどに。
幼少の折には、ベルファルクを使って林檎を切ろうとして、一瞬呪ってやろうかと思った時もあったが。それも最早、愛しい思い出になっている。
アルムと一緒にいる時、ベルファルクは、心地の良さを感じていた。鉄に芽生えた心は、彼を戸惑わせた。
ただ、だからこそ、受けた恩を返さないのは気味が悪い。ベルファルクは、魔王を倒すというアルムに、全霊を以って応えてやることにした。光魔法を纏うのなど真平ごめんだったが、アルムのためなら、耐えた。
そうして、魔剣ベルファルクに光魔法を纏わせたその一閃は、魔王を討ち滅ぼした。
勇者と魔剣は魔王を倒し、世界は平和になり、勇者は故郷の村に帰る――――そのはずだった。
✴︎
絶望で冷えきった頭に、ふつふつと、湧き上がるような感情を感じた。
「(アルムが、死んだ。アルムが、殺された。アルムは、村へ帰りたいだけだったのに――――かつての俺を振るったのと同じような奴に、騙されて殺された)」
生まれてこの方の数百年、感じたことのない怒りだった。それからすぐに、途方もないほどの喪失感に襲われる。アルムが語っていた、村へ帰ってからやりたいことの数々が、ベルファルクの頭の中で蘇った。それは全て、もう叶うことはない。アルムにベルファルクが返してやれることは、もう何一つないのだ。
そもそも、アルムがサーシスに殺された時――――ベルファルクは、自身に触れるアルムの感覚を感じていた。感じていたのに、サーシスに、むざむざアルムを殺された。
仕方がなかった。仕方のないことではあったのだ、所詮魔剣であるベルファルクに、何か出来たことはなかった。彼は強力な魔物だが、"生物以外の物にしか寄生できない"のだ。あの場で出来ることは、何一つなかった。
だが、その場にいたのに、守れなかったという事実が、ベルファルクには重くのしかかっていた。
「(アルム。――――お前みたいな奴が、死んでいいはずがない。ただ優しいだけの、お前が。やりたかった事も、叶わないままに………)」
絶望という初めての感情で冷えた思考の中で、魔剣は、アルムの全てを思い起こそうとした。そしてすぐに、その起源に。勇者になった少年が、口癖のように言っていたその名前を、その言葉を思い出した。
『俺、リリーナを守りたいんだ。リリーナを守りたいし、リリーナがいるこの世界を守りたい』
リリーナ。いつもアルムの横にいた少女だ。
勇者になった少年の起源はなんてことのない、好きな女の子の住む世界と、好きな女の子を守りたいという、ありきたりなものだったからだ。
鉄の中に、初めて、使命感に似た物が生まれた。
ベルファルクは、物質に憑依する魔物だ。物質であるならば、剣でも、建物でも、人形でも――――死体にでも、憑依できる。生物には憑依できないが、皮肉にも、アルムは死んで物質になってしまった。ベルファルクが憑依するための条件を満たしたのだ。
数百年ぶりに、魔剣ベルファルクは器を入れ替えた。やがて、ゆっくり、目を開けた。
外の景色を見るのは、何年ぶりだろうか。
死体は、そのままでは腐乱する。だが、ベルファルクが宿った物体に限っては、その時点で時間が止まる。そうでなければ、以前の依代である剣もとっくに朽ち果てている。
ベルファルクは、右手の掌を見つめて、何度か握って、閉じた。手には、剣だこがはっきりと出来ていた。何度も、魔剣ベルファルクを握った手だ。
「お前はこんな手をしていたんだな、アルム」
口から出た声は、アルムの声だった。何度も何度も聞いた、勇者であり、相棒の声。
「…………お前の願いは、俺が叶えよう。リリーナは、俺が、守ってみせる」
勇者の意志を継いだ魔剣は、そう静かに呟いた。
✴︎
突きつけられた剣先を見つめながら、ベルファルクは舌打ちを溢した。サーシスが勝ち誇ったように、視線の先で笑っている。
アルムを見下ろすのがそんなに愉しいのか、この外道と、そう言いたいのをベルファルクは堪えた。言えば、この男を悦ばせるだけだと知っていたからだ。剣先を握り込んでへし折ってやろうか。そう考えて、躊躇った。かつての自分をへし折ることを、ではない。
「(……無茶な戦い方をすれば、アルムの体に傷が付く)」
これ以上の傷を、アルムの遺体に負わせたくは無かった。寄生しておいてなんだという話ではあるのだが、出来るだけ、綺麗な状態で、リリーナの所へ、アルムの体を返してやりたかった。
ベルファルクの獲得した情が、ベルファルクを弱くする。情も何もかもを投げ打てば、なんとか、サーシスに勝てはするだろうが……。
ベルファルクは、サーシスが握るかつての己に視線を送る。
今やベルファルクという寄生していた魔物本体が居ないために、ただの剣となっているが、数百年前に打たれただけの剣が、形を保っているはずがない。あの中にはまだ、ベルファルクの魔力が、残っているのだ。
器を移行させる時に、一度に全てを移すのは、結構難しい。
まずは魂だけを移し、そこから徐々に、以前の器から自分の魔力を吸い上げる。今はまだそういうプロセスの途中で、ベルファルクの魔力は、以前の依代である剣にまだ残っていた。
本当は、サーシスになど奪われなければ良かったのだが……アルムに寄生して、一目散にリリーナの元へ行っているうちに、サーシスか、彼の部下の騎士によって拾われてしまったのだろう。
結果として、サーシスは、ベルファルクという強大な魔剣を手にしている。魔剣だからと言って、それを握ったものが劇的に強くなるなどと、そういう事はない。事実、アルムが強かったのは、純粋に、アルム自身が強かったからだ。
――――問題なのは、サーシスの握る自分の抜け殻が、"ベルファルクの魔力が残った剣"であるということ。
"ベルファルクの魔力"に、ベルファルクが魔法を発した所で、同じ魔力同士では、威力は大きく弱まってしまう。
サーシスの言う通り、かつての自分を握られているから、力が出し切れない。これは、そういう状態だった。
「(まずは、あの剣を、奴から取り上げないと……だが、どうやって……)」
考える。
そして、サーシスの背後の茂みにきらりと光ったものを目にして、ベルファルクは、目を見開いた。
次回、ちょっとだけ笑えます。