06 何も食べられない
「それでは、自分はここで」
「ありがとう。…あの、今日の門兵さんに、今度謝りに行きますとお伝えいただけないかしら。あたし、ご迷惑をかけてしまって」
リリーナを村の少し手前まで送ってくれたサーシスの部下の騎士にそう言うと、騎士はからから笑った。
「気にしないと思いますがね。伝えておきます!」
「ええ、ありがとう。あなたも、わざわざごめんなさい。今度お礼をさせて」
騎士はニコニコ笑いながら、「お気になさらず」とそう言って、去っていった。サーシスの頼みだから、彼らはこんなににこやかに対応してくれているのだろう。道中、彼はよくサーシスの話をしていた。
「(立派に慕われてるのね……。さすが、サーシス)」
リリーナは、村の入口を見た。夕闇が、村全体を橙色に染めている。何度も何度も見慣れた光景のはずなのに、なぜか、地獄に繋がる大きな門が、口を開けているような心地に駆られた。ここに、あれが――――アルムに寄生した、魔王がいる。戦えないなりに、リリーナがすべきことは一つ。なるべく、あの偽物に違和感を抱かせず、いつも通りに生活することだ。
大きく息を吸って、吐く。足の痛みは、気を抜くと痛むとはいえ、だいぶ緩和されている。
「(……あたしもきちんとしなくちゃ)」
そう言い聞かせて、意識的に大きな一歩を踏み出して、
「どこに行ってたの」
足が、凍りついたように動かなくなった。
ブリキの人形のように、リリーナは、首をゆっくり、それの方に向けた。村の入口に入ってすぐ、木の幹にもたれて、腕を組んで立っている。
「……アルム、」
なんとか、そう声に出せたのは、反射だったのか、それともやはり、彼が乗っ取っている体が、アルム本人のものだからなのか。
出した声が震えていなかっただろうかと、リリーナが気にしている間に、偽アルムが大股で歩み寄ってきた。
「答えて。どこに行ってた」
「……別に、なんでもないわ。サーシスの所に行ってただけよ」
詰問するような口調だった偽アルムが、鋭い視線をリリーナに向けた。
「サーシス」
そう、ぽつりと呟いた。
ふと、リリーナはその口調に、なんとなく既視感を覚えた。わざとらしいほどのアルムの演技ではなく、これが、目の前のこの人物の素なのではないかと、なんとなく、そう思ったのだ。いつだっただろうかと、少し考えたが、すぐには浮かばなかった。
「サーシスに会いに行ってたのか?どうして」
「別に、普通でしょう。サーシスはよくあたしたちに会いに来てくれてるんだから、あたしが会いに行ったって……」
「そう」
軽い口調で、偽アルムはそう言った。
言葉こそ軽く、納得したようだったが、その顔を見れば、納得していないのは明らかで、不機嫌さが馴染んでいた。もういいでしょ、とリリーナが偽アルムを見る。これ以上食い下がるのがアルムとして不自然だとでも考えているのか。少しだけ、間が空いた。
「……リリーナ」
「なによ」
「………………足。怪我、したのか」
「………うん。でも、今は平気」
リリーナは、一瞬、答えに窮した。
そんな質問をされるとは思ってもみなかったからだった。言われるとすれば、これ以上の食い下がりか、別方向からの尋問だと思っていた。咄嗟に、素直に返事をしてしまった。
また、少しの間沈黙が続いた。
偽アルムは、目を伏せた。銀色の睫毛が少し揺れていた。
「……なによ。言いたい事があるならちゃんと言いなさいよ」
つい、いつもの癖で言ってしまってから、リリーナは頭を抱えそうになった。しまった。アルムの見た目で言いづらそうにされたので、つい、口を出してしまった。目の前にいる男は、魔王だというのに。魔王のくせに、妙に言葉を選ぶ仕草をアルムの顔でしてくるものだから、調子が狂ってしまう。
偽アルムは、視線を上げた。空色の瞳が、いやにまっすぐ、リリーナを見た。
「サーシスには会うな。リリーナ」
「……………………なにそれ」
今度は、声色に不機嫌さを隠せないのはリリーナの方だった。淡々とした口調で、偽アルムが続ける。
「サーシスは、ダメだ。尋ねてくる時は仕方ないけど、そうじゃないときは、会いにいかなきゃいけない時は、俺に言って」
「なんでサーシスに会うのに、あんたに言わなきゃいけないわけ?」
「……なんでと言われると、困るけど」
「"なんでと言われると困るけど会わないで"?意味のわからない話だわ」
「………………………」
また、偽アルムは黙り込んだ。本物のアルムは、都合が悪くなったって、黙り込んだりしないのに。その乖離が、リリーナを苛立たせていく。
鼻から大きく空気を吸い込んだ。だめだ、落ち着かなくては。サーシスが、リリーナを村へ帰した理由は、多分一つだろうと推測できていた。リリーナのことだけを考えるのなら、村へ――――偽アルムがいる場所へなど考えない方が、安全だ。
だが、そうしなかったのは、リリーナが帰らないことで、自身の正体に気が付いたのだと解釈した偽アルムが、他の村人を人質に取らないか。それを、サーシスは危惧していたのだろう。
「(……感情的になってはダメよ、リリーナ)」
言い聞かせる。これまでのやりとりを反芻した。なんとかまだ、リカバリーが効く範囲だろう。サーシスに会うなと"アルム"が言ってきて、リリーナが不機嫌になるのは、むしろ普通の反応のはずだ。
「……ごめん、ちょっと言い過ぎた。でも、どうして?」
偽アルムは、リリーナがそう返したことに少しだけほっとしたような様子を見せた。
「俺の方もごめん。理由は、言えないけど。……ごめん、自分でも、無茶苦茶だとは、わかってる」
「……」
リリーナは、目の前の偽アルムを観察した。ずっと持っていた違和感が、顔を出してくる。見ないようにしていた違和感、とでも言うべきか。
サーシスの話では、彼の正体は、魔王その人。それも、初代勇者の体に寄生していた張本人。魔王と言えば、実害をリリーナは大して受けていたわけではないが……王国は、ずっと魔物の被害に数百年単位で苦しんでいた。それを指揮していた張本人。
悪逆非道の魔王。人類の敵。光の仇。
魔王の実態こそ知らないが、リリーナは、魔王を倒した勇者アルムを信じている。アルムが倒さなければならないと判断したのなら、その判断は、間違っていないと。
だが、そんな魔王にしては、なんというか。リリーナは、自分の中の違和感の言語化を試みた。
「(言葉を選んでいる…わよね。……なんだろう、あたしの顔色を伺っている、というか…さっきも、"足、怪我したのか"って。……大丈夫か、気にしてくれたってこと…では、あるといえば、あるのよね。信じられるかは別にして……)」
そんなことを、魔王がする必要があるのだろうか。そもそも、するのだろうか。だが、そうしてリリーナの警戒を解くの自体が、魔王の策略なのかもしれないが。
「……本当に理由は言えないの?サーシスだって、あたしの大事な幼馴染なのよ。それをまるで、信用できないような…」
「……………信用できないからだ」
絞り出したように、偽アルムが言った。
リリーナは、その様子に少し、彼の切実さを見たような気がした。わからない。何が正しいのかが、わからなくなる。本当に、目の前のこの偽アルムは、魔王などという邪悪な存在なのだろうか。サーシスの言った事自体は、信じている。信じているのだが、どうして、魔王という強大な存在が、こんなにも、苦しそうに言葉を紡ぐのだろう。
それに。少しだけ、サーシスの話に、リリーナはひと匙程の違和感を覚えてもいた。
魔王が、アルムにこっそり寄生し、村に着く直前で乗っ取ったという話だったが、争う痕跡をひとつも残さずに、乗っ取れるものなのだろうか。そういうものだと言われれば、それはそうなのだが、リリーナの中のアルム像と、どうも合致しない。
あのバカは、そんなことになりそうになったら、それこそ死に物狂いで暴れるのではないか――――と、そんな疑問がほんの少しだけ、小骨のように引っ掛かっている。
「……ねえ、あんた、何をあたしに隠してるの?」
言える範囲で。でも、出来ることを。
このリリーナの問いは、アルムではなく、アルムの体を乗っ取った何者かに向けられたものだった。
「俺は…………………………」
偽アルムは、ゆっくり言葉を紡ごうとした。形の良い唇が、少し開いて、閉じる。リリーナは目を逸らさずに、揺れる空色の瞳を見つめた。
初めて、しっかりと、目の前のこの男を見たような気がした。アルムを通してか、アルムとの差異を探すために見ていたが、その辺りのフィルターを取り除いて、ただただ、目の前の一個人を見ようと、リリーナは試みた。村娘にできる、唯一の蛮勇だった。
長い沈黙。それに、リリーナは、ただ耐えた。
偽アルムがやがて、口を開こうとして、
「…………それ、何?」
リリーナは、偽アルムの首――――つまり、アルムの体に、何か、傷跡のようなものがあることに、気が付いてしまった。
思考よりも先に、声が出た。出てしまった。
自分でもはっきりわかるぐらい、震えた声だった。偽アルムが、一瞬目を伏せた。それから、首に手が動く。襟を引き上げる仕草は、まるで何かを隠したいかのようだった。
リリーナは、弾かれたように彼に近付いた。偽アルムの手を退けて、首元を暴く。諦めたように、彼は抵抗を見せなかった。
「………なに、よ………これ………」
首に、真横に線を引いたように、ぱっくりと口を開けた裂け目が、ひとつあった。大きく切り裂かれているのは、首のうしろ、うなじのあたりだ。
そこから、首の横を通って、前の方にも少し、傷跡が繋がっている。首の半分ほどは、裂けているようにすら見えた。
かさぶたではない。だが、血を垂れ流している訳でもない。何か刃物で切り裂かれた傷が、血を流しきって、すっかり乾いたような、そんな傷口だった。
――――こんな傷で、人間が生きている訳がない。
リリーナは、初めてアルムに会った時の事を思い出した。タートルネックを着ている彼を見て、北の最果てから来たのだものね、と思ったのだ。でも、そうだとして、ずっと厚着をしているのはおかしい。どうして、気が付かなかったのだろう。あれほど偽アルムを観察していたのに。……無意識で、リリーナの中に、これにだけは気が付いてはいけないという、防衛本能が働いていたのかもしれない。
「………嘘、…どうして……」
声は、ひどく、震えていた。現実を受け入れるのを、心が否定する。だが、脳は、パズルの最後の1ピースを得たとでもいうように、確信を深めてしまう。
「……だって、この傷……こんな、傷……生きてるわけ、ないわ……」
偽アルムは、何も言わない。
肯定も、否定もしない。
耳元で、心臓の鼓動が聞こえた気がした。
「………アルム……は、死んでるの……?」
耳の奥で響く音が、乾いた声が、目の前のアルムの身体の傷跡が、―――アルムの死体が、リリーナが抱いていた「アルムはまだ助かる」などという、甘やかな幻想を、ガラスを割るように壊していく。
偽アルムが、リリーナに手を伸ばして、その腕を掴んだ。死体だということを裏付けるように、冷えた体温をしていた。
「や…やめてっ!」
咄嗟に、リリーナは、その手を振り払う。偽アルムは、行き場を失った手を少しだけ眺めていた。
視界が揺れる。はくはくと、口が開いて、閉じる。まるで水の中のように、息がしづらかった。
アルムにあげたペンダントを見つけた時より、もっと強い絶望が、リリーナの脳を揺らす。足が、後ろに一歩、二歩と下がる。先程まで胸にあった、偽アルム本人を理解しようという心も、サーシスの話に抱いていた違和感も。それを上回る絶望で、とうに消え失せてしまっていた。
「………リリーナ」
「その顔で、その声で、あたしを呼ばないで…!!」
そう、言ってしまった。
それは、お前が偽物だと分かってしまったというメッセージに等しかった。だが、今のリリーナにそれを制御する術は無かった。元々、ただの村娘にしては、リリーナは気丈にこの、幼馴染の顔をした化け物と向き合っていた。だが、もう、限界だった。
「リリーナ。話を聞いてくれ。俺は、敵じゃない。お前を傷付けるつもりは……」
「あたしのことは、どうでもいい!でも、あんたが…あんたが寄生してるアルムは、もう、死んでるんでしょ!?」
偽アルムが、ほんの僅かに表情を歪めた。静寂が、二人の間を包む。リリーナの荒い呼吸だけが、うるさいぐらいに聞こえてきた。
どうして。
どうして周りは、こんなに静かなの。
どうして、あたしだけがおかしいみたいに、静かなのだろう。遠くの風すら止んでしまったような静寂が、あたりを包んでいた。
そこでようやく、リリーナは、ずっと、目の前の男が、呼吸を一度たりともしていないことに気が付いた。胸が、少しも動いていない。それは、アルムの死という、到底受け入れ難い事実を、より補強していった。
嘘だ。
リリーナの脳裏を、アルムとの思い出が駆け巡っていった。
アルム。小さい頃は、本当に、あんたと、しょうもないことで喧嘩をしたわ。どっちが先に村に帰るか、競い合ったこともあったわよね。アルム、本当は、あたし、あんたに、勇者になんかならなくていいって、言いたかったのに。でも、帰ってきたら、凄かったわ、無事でよかったって、そう言うつもりだったのに。
その全ては、もう叶わない。ずっしりとした石を飲み込んだように、胸が、重くなっていく。
「あんたが…………」
冷えた絶望が、致命的な一言を、彼女に口走らせた。
「………あんたが、アルムを殺したの…?」
肯定したのなら、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけてやれた。否定したのなら、嘘を吐くんじゃないと、責め立てることができた。だが、偽アルムは、何も言わずに、立っていた。その空色の瞳が、ほんの少し、揺れていた。まるで、罪悪感を抱いてでもいるように。
それ以上、彼の顔を見ることは出来なかった。
リリーナは、顔を伏せたまま、その脇を通り過ぎていった。頭の中に、最後に見た彼の瞳が、ずっとこびりつくようだった。
折り返しです。
いよいよ、次回7話、物語の核心に迫ります。