12 角砂糖5個入りのコーヒーから始まる朝
「……それで結局、あんた、何者なのよ」
「そこからか」
村までの道を、リリーナとベルファルクは歩いていた。並びたって歩くその後ろ姿は、いつもと同じ、ふたりの幼馴染のようにも見えた。
「俺は……魔物だ」
「まあ、でしょうね。そんな寄生なんかできるのって、魔物しか思いつかないもの。でも、魔王じゃないんでしょ?」
「ああ。魔王とは同族だが、俺は魔王じゃない。奴は初代勇者の死体に寄生していたが、俺は、アルムに寄生するまでは、別の物に寄生していた」
「……それって」
リリーナが言いかけて、口を閉じた。
ベルファルクが、腰に提げた剣の柄に手を触れたからだった。
リリーナは後ろ手を組んで、その横顔を観察した。紛れもなく、アルムと全く同じ。だが、少なくともリリーナの前ではアルムの演技を辞めたようで、浮かぶ表情は全く違う。真一文字に結ばれた唇、真っ直ぐに前を見ている瞳。
「(ほんと、鉄みたいね)」
くすりと笑うと、視線がこちらを向いたので、すかさず逸らす。呼びかけようとしてふと、リリーナは、彼の名前を知らないことに気がついた。
「ねえ、あんた、名前は?」
「ベルファルク」
聞けば、端的に答えられる。
「……なんか勇者っていうか、魔王が使ってそうな名前ね……………」
「まあ、あながち間違ってもいない。名前がある魔族というのは、大体こんな名だ。魔王の奴も似た名前だった記憶がある。……俺の名も正体もアルムは知らないが、お前の顔を見ていると、同じ事を言いそうだなと思う」
「ちょっと。どういうことそれ。あいつとあたしの反応が一緒だって言いたいわけ?」
「違うのか?お前たちの仕草は、相当似ていると踏んでいるが」
「あんた、ほんと、急によく喋るようになったわね!」
リリーナは不本意さに唇を尖らせながら、教えてもらったばかりの名前を反芻する。
ベルファルク。
なんというか、本当に、世界を滅ぼす魔王が名乗ってもおかしくはなさそうな名前だ。一文字ずつ、口の中で名前を転がす。
「あ。ベル。ベルならかわいいわよ、ベルって呼んでいい?」
「……………まぁ、好きにしろ」
心底どうでもよさそうに、横目でリリーナを見たベルファルクが、ため息混じりにそう言った。村までは、あともう少しある。柔らかな日差しが差し込む明け方。そこから取り残されたように、穏やかな、時が止まったような時間だった。
「……サーシスは、どうなるのかな」
「勇者殺しの罪は問えんだろうな。現場を見た者が誰も居ないし、俺が寄生したことで勇者アルムが生きて動いている事を認識した人間も多い。……あの後騎士達に奴は連行されたが……勇者への傷害罪には問われるだろう。だが、その先まで行くかどうかは、厳しいと言わざるを得ない。奴がどの程度証言をするかも分からないしな」
「………………そうね」
項垂れたまま、動かなくなったサーシスは、やってきた騎士に連行された。サーシスは、防音魔法をかけていたようだが、あの銀の光が、全てを暴いた。世界がアルムによって救われたその日に見た光と、全く同じ光に、騎士がすぐさま駆け付けたのだ。
サーシスは、何も言わなかった。リリーナも、サーシスから、あのペンダントを取り上げる事は、しなかった。
リリーナは、懐から、手鏡を取り出した。
サーシスが誕生日にくれた手鏡は、中心からひび割れてしまっていた。そっと、その鏡面をなぞる。指先に、ガラス片が皮膚に刺さる、チクリとした痛みがほんの少しだけ走った。割れ切った鏡に映る自分の顔を眺めてから、リリーナは、それをそっと懐にしまいこんだ。
「少なくとも、勇者への傷害罪に問われれば…奴がこれまでの生涯被り続けた仮面は、破られる事になる。奴には、耐え難い苦痛だろう。そこから先は、奴が何を選択するか次第だ」
「……うん」
リリーナは、一度、目を閉じた。ベルファルクは、何も言わなかった。風が、二人の間を走っていく。人間一人分ぐらいの間を空けて、並んで歩く。
「……ベル、あんた、下手くそだけど、やっぱりちょっと、アルムに似てる」
重ねて見ている訳でもない。だが、なんとなく、やはりそういう感想が漏れた。何も言わず、静かに寄り添ってくれるような、そういう不器用な優しさが、アルムにもあった。
ベルファルクは、銀色の睫毛に覆われた目を伏せた後、少しだけ、溢れでたような笑みを浮かべた。ベルファルク本人は気が付いていないだろうが、その笑みは、とても嬉しそうに、リリーナには見えた。
「それは、そうかもしれないな。俺が獲得した人間らしさと言えるものは、アルムから得たものだから」
「……そっか。…あんた、ずっと、アルムと一緒だったものね。……というか、村にいた時からよね。じゃあ、あたしのことも知ってたの?」
「ああ、まあ。アルムの横にいる騒がしい女だなと」
「ちょっと!」
ベルファルクはくつくつと喉の奥で笑った。
そうやって笑うと完全に、魔王かそれに準ずる悪しき笑みで、アルムには全く似ていない。ベルファルク。剣に宿った魔物で、アルムという少年に絆されて、数百年寄生していた剣から、アルムの願いを叶えるためだけに、アルムに寄生した彼。そういえば、と、リリーナは口を開いた。
「……ありがとう。それから、ごめんね。ちゃんと言えていなかったと思って」
「感謝される曰れはないが、理解はできる。だが、謝罪は分からない。何の件だ?」
「だ、だってほら……あんたに結構あたし、帰れとか言ってたし、それに…あんたにひどいことを言ったわ。アルムを殺したの、だなんて。一番…言われたくなかったでしょう」
ベルファルクは、考え込むような仕草を見せた。
「嫌、というのはよく分からない。あの時のリリーナの心情を考えれば、理解する」
「いや、理解を示さないでよ…。あたしは、あんたがあたしのことを守ってくれてたと知った時に、自分の頭を殴りつけてやりたくなったわよ」
「……それは、困る。……お前が、それを悪いと思っていると、そう言ったことについては…覚えておく」
やがて、二人は村へと着いた。
まだ早朝と言って差し支えない時間だからか、人の姿はほとんど見えなかった。リリーナの家の前を通り過ぎて、少し裏手の庭へ向かう。白詰草が群生していて、風に揺れて心地良さそうにしていた。
「………でも、一番のお礼を言わないと」
自分でもわかるぐらいに、声が震えていた。
ベルファルクは、リリーナが何を言いたいのか分かっているのか、いないのか。黙ったまま、言葉の続きをじっと待っていた。やがてリリーナが、震え混じりに、
「……触れてもいい?」
そう聞けば、ベルファルクは小さく頷いた。
リリーナは、そっと、腕を回してその体を抱擁した。死体だということを示すように、ひどく冷え切った体だった。三年前とは、違う。過酷な旅で、成長して、少年から青年になった体。胸に耳を当てても、全く心臓の音は響かない。脈打つ体温は、人の持つべき暖かさは、何も無い。
「(……ああ、死んでる。アルム、ほんとうに、死んじゃったんだわ…………)」
リリーナの目から、静かに、涙が伝った。
あの時。
ベルファルクが、アルムとして帰ってきたその時に、言えなかったことを。喉の奥に飲み込んだ言葉が、今度はするりと、浮かび上がってきた。
「……………おかえり、アルム………」
手紙、ありがとう。
あんたの相棒、凄かったわ。
きっと、強い信頼関係があるのね。妬いちゃうぐらい。
ずっとずっと書いていてくれてたのを、知らなくてごめんね。返事が帰ってこなくて、きっと、寂しかったよね、辛かったよね、アルム。
村へと向かうように、アルムの血痕は続いていた。それを思うだけで、リリーナの胸は、締め付けられるようだった。アルムは、帰りたかったのだろう。長い旅を終えて、この村に。…リリーナの所に。
アルム、おかえり。
アルム、あたしも、あんたが、大好きよ。
少しの間、リリーナは、そうしていた。もう居ないアルムの存在を確かめるように。確かにここにいるアルムを刻み込んで、二度と忘れないように。
「…ベル、ありがとう。アルムを連れて帰ってきてくれて」
そっと、彼から離れた。赤くなった目元を手の甲で擦るように拭う。ベルファルクが、リリーナに背を向ける。白詰草の敷き詰められた、家の裏手の庭――――そこから少しばかり進めば、リリーナの母と、アルムの両親が眠っている墓がある。
「俺は、ここまでだ、リリーナ。俺がすべきことは、アルムをここまで連れて帰って、サーシスからお前を守る事だけだった。これ以上は、過ぎた役割だろう。俺はまた剣に戻る」
至極真面目な顔で、ベルファルクはそう言い出した。そう言うだろうと思っていたが、やはり、そう来たか。リリーナは、溢れ出た笑みを抑えられなかった。
「……なぜ笑う」
ベルファルクが、心底不思議そうな顔をした。
やはり、彼はまだ剣だ。アルムとずっと一緒にいてくれた彼だが、やはりまだまだ。
「ふふ、あんた、まだアルムのことをわかってないわ!」
「…どういうことだ」
リリーナは、ベルファルクの一歩前に歩み出た。 空は青く、風が、木々を撫ぜる音が聞こえてくる。綺麗な朝だ。やがてそこに、人々の笑い声が混ざってくるのだろう、――――アルムが救った世界の朝。
「アルムに怒られるわよ。折角人の目を得たんだから、もっとちゃんと、綺麗な物を沢山見てから来い!俺が救った世界だぞ!ってね」
「……そう、だろうか」
「そうよ」
「俺にこのまま宿れと?だいぶ冒涜的な提案だぞ、リリーナ。まともな頭をしているのか?」
「してないわよ。でも、アルムだって、そうするんだから、言ってるの」
間髪入れずに、リリーナは答えた。
確かに、自分の発言をまともな人間が聞いたら、「ベルファルクを剣に戻して、アルムを静かに眠らせてやれ」と、そう言うだろう。100人居たら、99人がそう言うし、リリーナも、ベルファルクへの恩義だとかそういうものを除けば、ちょっと我ながら、どうなんだと、思わないこともない。
だが、よりによって、そう言わない1人が、アルム本人なのだ。絶対に。間違いなく。
魔剣は、勇者の意志を継いだ。
だから村娘も、勇者という大層な名前になったバカ幼馴染の意志を繋ぐべきだと、そう思った。
「(…………それに)」
この魔剣は、数百年以上も生きていたくせに、知らないことが多すぎる。きっと、焼きたてのトーストを綺麗に裂くのと、世界を救うのと。どっちが難しいのか、とか。トーストはたっぷりの牛乳と一緒に食べると、ほんのり甘い味がするだとか、そういうことだって知らないのだ。
「だから、まず、あんたは…そうね、ご飯を食べる楽しさとか知ったらいいわ!と思ったんだけど……よく考えたら、あんた、ご飯食べられないのよね?ごめんね、知らずにあたし、色々出しちゃった」
ベルファルクは、奇妙に感じるほど長い間、黙っていた。
「…………………それについては、すまない、食べられはするんだ」
「じゃあなによ」
確かに、よく考えればベルファルクは、水分は口にしていた。固形物を口にしないだけで。
「いや………………」
どうにも、とてつもなく歯切れが悪い。
じっと、尋問するように、リリーナはベルファルクの目を見た。アルムと同じ、空色の瞳だが、アルムの持つ色とは、全く違うように見えた。
「……………………そうで」
「何?」
「…………………………錆びそうで食べなかった」
リリーナは、思わず吹き出した。
至極真面目な顔で何を言うかと思えば、"鯖びそうで食べなかった"と!人間の体を得ているのに、よりによって言う事が、そんなことだとは。
体をくの字に曲げて笑うリリーナに、ベルファルクは、不服そうな顔をした。やがて顔を上げた彼女の瞳に涙が浮いているのを見て、ぎょっとした顔をして、手を伸ばしてくる。
「違う、その、お前からロールキャベツを貰った時は、嬉しかったんだ。だが無駄にするのも悪いと思って、持ってきてくれた奴にそのまま……!」
「……っふふ、分かってる。慌てすぎよ。人間、悲しい時以外も、涙って出ちゃうんだから」
リリーナは、瞳に伸びてきた手をそっと制すると、今度は、自分から彼の手を取った。鉄らしく、死体らしく。ひどく冷えた手だった。ふと、手が冷たいと、心が暖かいという、昔一笑した言葉を思い出した。
「じゃあ、行きましょ!一日ってのはね、朝ごはんから始まるのよ、ベル!」
「…………善処する」
ベルファルクが口元に少し笑みを浮かべたので、リリーナも、笑みを浮かべた。
ふと脳裏に、ブラックコーヒーを啜っていたベルファルクの演技が思い起こされて、ますます、笑みが深くなる。ベルファルクは、少し不思議そうな顔をしていたが、リリーナは黙殺する。
この魔剣が、あの"アルムのコーヒー"を飲んで、どんな顔をするのか、今から楽しみだった。
「(アルムは、ブラックコーヒーなんか飲まないわよ。あいつ、苦いのが死ぬほど嫌いなんだから)」
朝の空気は、清涼に澄んでいる。鳥が囀り、木々が歌い、雲が揺蕩う。涙の跡がついたリリーナの頬を、風が、優しく撫ぜていった。
「(あいつ、こっそり、角砂糖五個も入れて飲むんだから!)」
――――それって本当に、錆びそうな味だわ。