01 ブラックコーヒーと木苺ジャム
「ただいま、リリーナ!」
「ちょっと誰か存じ上げないわね」
リリーナの朝は、不審者を追い出すところから始まる。
不審者は今日も懲りずにやってきた。
すぐさまドンドンと何度もドアを叩かれたが、なにせ今は朝食中なのだ。リリーナは、食卓の前に座り直すとトーストに齧り付く。
焼きたてのトーストを均等に手で裂こうとしたが、いびつな地図のように、めちゃくちゃな比率で切れてしまった。焼きたてのトーストを綺麗に裂くのは、世界を救うよりも難しいかもしれない。
「(…でも、うん、美味しい。朝ごはんってやっぱり、食べるとしゃきっとするわよね)」
淹れてあった紅茶を一緒に啜って、うんうんと頷く。まだドアを叩く音だとか、「俺だよ!アルム!ひどいなリリーナ!」だとかが聞こえてきたが、完全に無視を決め込むことにした。少しすると、その音も止んだので、リリーナの静かな朝が戻ってきた。
「おーい、リリーナ、手紙が届いてるよ」
「あら!ありがとう」
村の配達員から呼びかけられて、リリーナは家の扉を開けた。手紙の宛名は――――サーシス。相変わらずまめだなあ、どこかの誰かと大違い。そう心の中でぼやいて、配達員に礼を言う。
「もうご飯食べた?よかったら、一緒に食べて行かない?開店前の賄いになっちゃうけど」
「いや、気持ちはありがたいんだが…………」
配達員はそこまで言って、少し視線を下に送った。
そこには、半泣きで膝を抱え込んで座り込む青年がいる。リリーナより大きい体を丸め込んで座り込む姿は、異様だった。
「大丈夫よ、それ、知らない人だから」
「リリーナぁ〜!!!」
首が折れるのではないかという勢いで、青年がリリーナと配達員の方を向いた。潤んだ青水晶の瞳が、二人を見上げている。配達員は、頭の裏をかいた後、呆れたように言う。
「……まだやってんのか?その痴話喧嘩…」
「そうなんだよ!」
「してない。誰よこいつ」
✴︎
「やっぱりリリーナは優しいよな。なんだかんだ上げてくれるし」
「それはね、開店時間だからよ」
リリーナは、ダイニングテーブルの前に座りながらニコニコ笑う青年を見て、ため息をひとつ吐いた。こんな奴が店の前に居座っていたら、営業も何もあったものではない。
無理矢理カツアゲをするように注文を取ると、「…水?」と言われたので、拳をその銀色の頭に叩き込んでおいた。
「もう一度、あと一回だけ、チャンスをあげるわ」
「コーヒー!コーヒーください!」
「砂糖とミルクは勇者様限定で、追加料金になってるんだけど……」
「なんでだよ!でも残念でした、俺はブラック派。知ってるだろ?」
何やらほざいているが、気にしないことにした。
厨房へ戻って、沸かしておいたお湯の火を止める。戸棚を開けると、豆を選んで、コーヒーをゆっくり抽出していく。一緒に焼いてあったトーストが半分ほど余っていたので、ジャムを塗りたくった。この間取れた木苺を煮詰めたジャムは、リリーナのもう死んだ母、それから祖母の代からのレシピで作った秘伝モノだ。
「はい」
「ありがとう。いくらだっけ」
「5000ハル」
「高!?!それ、王都で宝石が買えるんだけど!俺に宝石買ってほしいってこと?」
「鳥肌たった。タダでいいわ」
「なんか嬉しいんだけど全然得した感じがない!」
青年はそう言いながら、そっとトーストの乗った皿をリリーナに押し返す。片眉を上げたが、曖昧に笑われてしまったので、もう仕方がない。こいつが朝食を出しても食べないのは、いつもの事だ。
リリーナは、この片田舎の村で食事処を営む、18歳の娘だ。とはいえ、ものすごく田舎というわけでもなく、王都から馬を走らせれば2時間、徒歩なら4時間。そのぐらいの立地に住んでいて、王都にはたまに行くぐらい。大陸でも、かなり南の方にある、温暖な気候の村だ。
北の最果てにあるという魔王城など、「ま」の字もなければ、王国中を混沌に陥れ続けていた魔物被害の話を振っても、「そんなことより作物の育ちが悪くて」などと、害獣の話を振ってくる村人ばかり。そういう村で、リリーナは18年を過ごしていた。
ブラックコーヒーだけを美味しそうに啜る青年の前にどかりと座った。頬杖をついて、その端正な顔を眺める。
アルム。
リリーナの記憶にある限りでは、ただの"アルム"という名前の泣き虫だ。だが今は「勇者」と、そう呼べば、この国の人間は誰だってこいつの顔を思い浮かべる。
三年前。リリーナと同じ村で育ってきた、当時15歳のアルムは、突然顔を真っ赤にしながらリリーナの手を取って、
「俺、絶対魔王を倒して、すぐ帰ってくるから!帰ったら、その、話したいことがあるから!待ってて!」
と、そう宣って、アルムはもう一人の幼馴染……リリーナとアルムの兄のような存在で、王都で騎士をやっていたサーシスを連れて、魔王討伐の旅に出た。サーシスはまめに手紙をくれたが、アルムからは三年、特に連絡が無い。何回か手紙をリリーナから出してもみたが、それに対しても返事は無かったのだ。
だからといって、それに拗ねているという訳ではない。いや、まあ、少しは拗ねていたのは、事実ではあるのだが、今回はそれとは話が違うのだ。村の住民たちは、リリーナが拗ねて折角帰ってきたアルムを受け入れていないと、そう考えているようだったが。
「(そういう訳でもないのよね)」
目の前の男の顔を眺める。
さらさらの銀髪、同じ色の睫毛。青い瞳は澄み切った空のよう。ニコニコと阿呆みたいに笑うところも、全く同じだ。全く同じなのだが。
リリーナは、テーブルの下で、拳を握りしめた。視線の鋭さを、胸の奥にしまい込む。
「(アルムは、ブラックコーヒーなんか飲まないわよ。あいつ、苦いのが死ぬほど嫌いなんだから)」
✴︎
最初にその違和感に気が付いたのは、アルムが帰ってきてすぐのことだった。
今より半月ほど前の真夜中。
王国中が、空を駆け抜けたまばゆい銀の光に目を覚まし、窓の外を見た。それは、勇者アルムの得意魔法、光魔法によるもので。
――――皆が、魔王の死を。勇者の勝利を、確信した。
やがて、勇者アルムが魔王を倒したという報が、北から南へと、早馬となって駆けたのだ。
それから少しした一週間前。
王都で行われる凱旋パレードには、アルムは欠席したという知らせをサーシスから受けた時、もしかしたら、アルムは本当に戻ってくるかもしれないと、そう思った。
アルムのことが好きなのかと言われると、まあ、正直。ずっと好きだった。だから、アルムと交わした約束を律儀に守って、若い娘の婚期を見送ってきてしまった。我ながら、馬鹿だとは思う。勇者が、故郷の幼馴染のことなど、まともに相手をするわけがないのに。
それでも、リリーナは単純だった。買い出しから戻ってきて、店を兼ねている自宅の前で、アルムの銀髪を見た時は、思わず買い物袋を置いて走り出していた。
アルム。アルム、アルム、アルム!
生きている。ちゃんと無事に、帰ってきた!
旅に出た時はほんの少しリリーナの背を越すぐらいだったのに、もうすっかり背が伸びている。背中はリリーナよりずっと大きくて、勇者として歩いてきた道のりを感じさせた。
ずっと、アルムが帰ってきたら何を言おうかと考えていた。
手紙の一つもよこさずに、何やってたのよ?ううん、言いたいのはこんな文句じゃない。無事でよかった。ちゃんと帰ってきてくれてよかった。そういう言葉を言いたかったが、リリーナは、自分の素直で無さをよく自覚していた。だけど、これだけは絶対に言わないといけないと、そう思った言葉があった。
「アルム……っ!!」
息を切らして走る。
その背中に、まるで子供の時のように抱きつきたくなって、流石に自制した。息を整える。アルムが、リリーナに気がついて、振り返った。その青空みたいな目を見て、はっきりと、言いたい言葉が、
「――――ただいま、リリーナ」
……何よりも、言いたい言葉があったはずだった。
アルムの後ろから、陽が差し込んでいた。朝日が、振り返ったアルムの顔を、半分だけ照らしていた。
リリーナは、何か強い違和感を覚えて、言いたかった言葉を、喉の奥に飲み込んだ。あんなに会いたかったはずなのに。
アルムの纏う空気が、じっとりと、重たくなるような感覚を覚えた。その日は、空気がよく澄んだ朝のはずだった。なのに、まるでそこだけ雨が降ったように、少し、息がしづらい。
「………ちょっと、なんで、今さら帰ってくるのよ」
それでも、少しだけ笑いながらそう口にした。出した声が震えているような気がした。
「手紙の一つも寄越さないで」
アルムは、少し押し黙った。「手紙」と、そう静かに呟く。リリーナの心臓が、揺れ動く。なぜ。どうして。
「(どうして、アルムは、こんな……)」
抜け落ちたような、無表情なのだろう。
アルムはそれから、にっこり笑った。やっと作るべき表情が分かったような、そんな間が開いて、浮かべた笑顔は、作り物みたいだった。
「ごめん、忙しくてさ。でも、ちゃんと帰ってきただろ」
「……そうね、その…怪我がなくて良かったわ」
「ありがとう」
自分の掌に、じとりとした汗が滲んでいるのを、リリーナは感じた。その理由は、分かっている。アルムへの、なんとなく抱いている違和感。でも、その違和感は、それ以上にはならない。ただの違和感という、それだけだ。
三年会っていないのだし、少しぐらい変わっていても、おかしくはないのかもしれないと、リリーナはそう自分に言い聞かせた。アルムは泣き虫アルムではなく、今はもう"勇者様"なのだから。
「……何か食べてく?お腹空いてない?あんた、折角の凱旋パーティ、断ったんでしょ。サーシスが言ってたわよ。勿体無い、絶対、美味しいものいっぱい食べられたし、綺麗なお姫様にも会えたのに!」
「お姫様はいいよ。俺には、リリーナの方が綺麗だし」
「ちょっ…………と、何よ、いきなり」
アルムがからから笑いながら言った。笑うと、顔がくしゃりと歪むところが、昔のアルムと重なった。……なんだ、あたしの思い違いだったのかも。そう考えると、気が楽になった。
「他のみんなには?もう会った?」
「うん。何人かには、村に入ってすぐもみくちゃにされた。サーシスとは王都で別れてきた」
「そっか。サーシスは元気?あ、やっぱりいいわ。元気なのは知ってるの。あんたと違って、まめに手紙をくれるもの」
「悪かったな、筆まめじゃなくて!……ごめんって。本当に、忙しかったんだ。…それに、リリーナになんて言えばいいのか、分からなかったし。…ごめんってば」
リリーナより大きい癖に。美丈夫と、そう呼ばれている癖に、情けなく眉を下げる姿に、思わず少し笑ってしまう。
「いいわよ、無事なら。そんな情けない顔しないの!あんた、巷だとイケメンで通ってるのよ。サーシスと人気を二分して!」
「ふふん、そうだろ。俺って実はイケメンなんだぜ、やっと気が付いた?」
「まあ、あたし、サーシスの方が顔好きだけど。あたしイケメンより美形の方が好きだから……」
「でもそれって観賞用だよな!?そうだよな!?」
アルムが必死にリリーナの顔を覗き見た。王国一の美丈夫、銀の勇者、太陽の写し子が形無しだ。思わず、リリーナは口元に手を当ててくすくす笑った。
「まあ、そういうことでもいいわ」
「ほらね。俺の方が毎日見るにはいい顔だろ」
「どうかしらね。毎日見てなかったからなぁ」
揶揄うようにそう返すと、アルムは首のあたりを掻いた。この比較的暖かな村で、時期的に珍しくはないが、タートルネックを着ているあたりで、ふと、アルムが辿ってきた道のりを思った。北の最果て、魔王城。きっとこことは、比べ物にならないほど寒いのだろう。
苦難の道のりを辿った幼馴染に、変な疑念を持った自分を恥じる。
なんだ。
全然、アルムだ。昔と一緒、少し外見は変わっているけど、根っこは全然変わらない。むしろ、昔と同じすぎて拍子抜けするほどだ。昔は一緒に、初級魔法の練習をしたりしたけれど。
「(今じゃ、足元にも及ばないんだろうなあ)」
アルムは、リリーナが置いてあった買い物袋を軽く待った。まあまあ重かったはずなのに、アルムが持つと、恐ろしいほどに軽そうに見えてしまう。筋肉がしっかりついた体、がっしりとした腕は、軽々と剣を振るのだろう。少しばかり、なんというか、異性を意識してしまう。……ふと、リリーナは先ほどのアルムの発言を思い出した。
「(リリーナの方が綺麗だし…って、何!?……アルム、まさか、本当に、あたしのこと好きなの…?まだ……?)」
流石に、勇者ともなれば。淡い自分の片恋ぐらいに終わると思っていたのだ。アルムが約束を覚えているとは、思っていなかった。だが、あの発言は。
そういうことなのだろうか。そういうことでいいのだろうか。村に同年代の異性はもういないし、いたのは幼馴染のアルムと、兄のように慕っているサーシスだけだ。異性とのやり取りなど、リリーナには分からなかった。
だが、顔のあたりに熱が集まるのを感じて、リリーナは少し俯いた。そしてその時、ふと、
「…………あれ、アルム、あんた、剣は?どこかに置いてきたの?」
アルムは、剣を帯刀していなかった。他にも何人かに会ったようだし、生家に置いてきたのだろうか。何気なく口にした疑問だった。
「ああ」
一呼吸。
次いで、何気なく、なんでもないことのように、さらりと答える。
「捨てたんだ。もう使い物にならなかったから」
その時、忘れていた心臓の冷たさが、今度は、確かなものになって、リリーナを襲った。すぐに、言葉を発しようとした。だが、口の中がからからに乾いて、言葉が出なかった。心臓がどくん、どくんと、内側から騒ぎ立てる。いやに大きく、自分の鼓動が脈を打つ音がしている。
アルムの笑顔が、脳裏を駆け巡る。
剣を研ぐのは、毎夜のアルムの日課だった。有り金の全部をはたいて、村にやってきた商人から買った剣を、彼はとても大事にしていた。とはいえ、子供が買える金額だ。商人は大幅にまけていたが、"吹っかけて"いたのだろうと今は想像に易いが。
リリーナはちょこんと、軒先で剣を研ぐアルムの横に座って、それを見ていた。何が楽しくて毎日毎日鉄を研いでいるのかは分からなかったが、アルムはひどく真剣だったし、その横顔を見ているのが好きだった。
『ねえ、どうしてそんなに頑張るの』
そう聞いたら、アルムは笑ったのだ。
『この剣は、俺の無二の相棒だから。いざという時、こいつが、俺の大事なものを守ってくれる』
その時のアルムの空色の目を、絶対に忘れることはない。アルムは、相棒だと言ったのだ。無二の相棒だと。そんな剣を、捨てた?アルムが?
「(…………ありえない)」
絶対に。
どれだけアルムが変わろうとも、それだけはしない。仮に錆びて、使い物にならなくなったとして。剣だから、そういうことも、あるのかもしれない。だが、使い物にならなくなったから捨てる?あるはずがない。絶対に、それだけはありえない。
「…………リリーナ?」
意識が、現実に浮上する。アルムが心配そうにリリーナを見ていた。目。空色の目。心配を載せた目、アルムらしさを載せた目。誰もが「これ」を、アルムだと信じて疑わない。疑念を口に出したのなら、疑われるのはむしろリリーナの頭だろう。
それでも、リリーナは確信した。
こいつは、アルムではない。
――――アルムと同じ姿形をした、別の何かだ。
※ここまでが朝ごはんです。
次回から、ちょっと冷めたスープが出てきます。「あれ…?」と思った方は、タグをご覧いただけると平和です。
不穏ですが完読後は少しあったかくなる、を目指しております。よろしくお願いいたします。