春夜~雪娜とふしぎの子(中)~
圭琪と別れた雪娜は、篝火だけが焚かれて静まり返る王宮内の廊下を、音を立てず、なおかつ最大限の速度で歩いていた。
行先は春宮。
当代皇帝・游紫釉の息子、次期皇帝を約束されている皇太子・游皐瑛の住まう宮だ。
「――このような夜更けに何用でございますか、朱御史大夫」
夜更けと言いながら、その声には何の淀みもない。
もちろんその官吏服にも、些かの乱れもない。
生半可な用では、この先一歩も通さないと言う意図すら視線にこめて、春宮侍女長・儷春燕が行く手に佇んでいた。
「この私を皇太子妃狙いの有象無象と一緒にしないで貰いたい、儷春宮侍女長。先ほど、守護龍たる龍泉様が我が更夜部を内密に訪ねて来られた。国の根幹に関わる重大な伝言を言付かっている故、取次を願いたい」
「……それでいて、陛下ではなく春宮様に用があると仰る?」
「未だ陛下の宸襟を騒がせ奉るほどではないと愚考する。だが一刻を争う話には違いないので、皇帝代理としての皇太子殿下と話をさせて貰いたい」
春宮は代々皇太子が居住する宮だ。
だからそこに勤める者は、その主を「春宮様」と呼ぶ。
だが王宮で働く官吏にとっては、執務をする「皇帝代理」は「皇太子殿下」だ。
ここで雪娜がうっかり「春宮」呼びでもしようものなら、それこそ公私混同を疑われて、取次を拒絶されてしまう。
年齢は倍ほど違う筈の春宮侍女長と御史台の長は、それぞれの矜持を持ってその場で向かい合っていた。
「――そこまでにしてくれ、春宮侍女長。残念なことに朱御史大夫は私に欠片の興味も持ってはいない。余程の事態があったと言うことなんだろうよ」
通せ、と奥から響く声に、春宮侍女長が折れた。
頭を下げて、壁側へと退いている。
雪娜はピンと頭を上げて前を向いて、あくまで御史大夫としての態度を貫き通しながら、その横を通り過ぎた。
「くく……夜這いならば堂々と正面から来ないだろうに、侍女長も頭が堅いことだな」
流石に寝台からは出ていたようで、部屋の中にある長椅子に腰を下ろして、当代皇太子・游皐瑛が雪娜を待ち構えていた。
雪娜と一歳違い、皐瑛が日頃接する官吏の中で、ほぼ唯一とも言える同世代と言う事もあってか、年齢、性別の双方の意味で侮られる事の多い雪娜の後ろに付いてくれる事も多い。
「まだまだ、おまえが王宮全体に結界を張れることの凄さを理解していない連中も多いな。もっと大手を振って王宮内を闊歩してもいい筈なんだがな」
「勿体無いお言葉をありがとうございます、殿下」
両方の袖口に手を入れ、顔の前に掲げるのは、報告事項がある時の略礼だ。
片膝をつく、跪拝をする……場や職位に応じた礼もあるが、今はそうではないと、雪娜は態度で表した事になる。
「それで、史上最年少で更夜部の長から御史台の長に登り詰めた能吏が何用か? おまえならば、深夜に愛を囁きに来てくれても歓迎するが、残念ながらそうでもない様子だしな」
寝起きと言う事を差し引いても、皐瑛が雪娜を見る目には艶がある。
気が付いていても、雪娜はそれには気付かないフリをする。
「御史台の汚職と魔物との争いによって、それぞれの上位職が退くことになったが故の幸運と理解はしております。殿下が皇帝陛下にお口添えして下さったことも。感謝は職務で返す所存です」
雪娜の母、馮美梛は、御史台更夜部に籍を置いて魔物の駆除を行う上では、優秀と言っても良い力の使い手だった。
その美貌もまた、王宮内で広く知られるところにあり、引く手数多だったと聞く。
当時の皇帝や皇太子でさえも関心を示していたと言われていたが、その美梛が選んだのは、当時の更夜部の長・朱司清だった。
雪娜は、更夜部で力を持っていた二人の血を継いだ形になり、かつ、司清以上の力の持ち主とさえ言われているのだ。
そして美梛の容貌を継いだと言われる雪娜を狙う者も少なくないと言われている中で、皇太子である游皐瑛の存在が、それを遮っていると言ってもいい、今の状況だった。
どこまで本気なのか雪娜には分からないが、時折好意を仄めかす言葉を口にする所為で、二の足を踏む者がほとんどだったのだ。
「なに、そうでもしないとおまえが陛下の後宮に押し込められる可能性があったからな。俺は俺の欲に従って、それを阻止するために動いたまでのことだ。下手な恩など感じてくれずとも良い。……それで今宵は何があった」
雪娜の母を後宮に入れたがっていた当代皇帝が、その美貌を受け継ぐ雪娜にも関心を示していると、それを押し留めているのがこの皐瑛だと、雪娜も噂程度には耳にしている。
皐瑛の皇太子としての立場はまだ盤石ではない。
だからこそ、今は職務で恩を返したいと雪娜は思うのだ。
この時も素早く本題に入った皐瑛に応える様に、雪娜も略礼を解いて顔を上げた。
「龍泉様の御子たちの行方が知れない、と」
「……何だと?」
さすがに、すぐの返答が出来なかった皐瑛に「先程龍泉様が直接更夜部までいらっしゃいました」と、すかさず雪娜が疑いようのない事実を告げる。
「今、御史中丞・鄭圭琪に更夜部の官吏の所在確認をさせています。殿下におかれましては親衛隊、北衙禁軍の禁軍兵たちの所在確認を何卒お願い致したく」
「……龍泉様の御子を攫った者が、王宮内にいると言うんだな」
「龍泉様の住まう地は禁足地。多少なりと魔物を退かせられる『術』を行使出来なければ、近付くことすら叶わぬ筈。候補は自然と絞られるのです」
「狙うは、おまえの追い落とし――か?」
御史台を束ねるようになって早々に、龍の子を攫われるだけでも失態と言われかねないところ、この上その子らに何かあっては、取り返しがつかなくなる。
「そして陛下を疑っている」
仮に雪娜が御史台にいられなくなれば、皇帝の権限で後宮に押し込めることが可能になる。
御史台更夜部は、一種の治外法権。
結界を張り、王都内で人を襲う魔物を退けられる特殊な「力」を持つからこそ、年齢ではなく「力」の有無、その強さが地位を決める。
朱雪娜は御史台更夜部で最も強固な結界を張れる者としてその地位を与えられている。
だが本当はもう一人、隠された力の持ち主がいることを、王家と更夜部だけが知っている。
――皇太子であるが故に、更夜部の所属にはならなかった游皐瑛が、実は雪娜以上の力の持ち主であることを。
「……私には答えかねる問いかと」
「陛下の所ではなく、春宮へ来ている時点でお察しだと思うがな」
特に不敬を咎めだてることなく、皐瑛は不敵な笑みを口の端に乗せている。
「まあ良い。戯れの会話を楽しんでいる場合ではなかったな」
戯れているのは殿下だけ。
そう言いたいのを雪娜はグッと堪えていたが、皐瑛はとっくに察しているとばかりに微笑うと、飾り棚に乗せられた、一見すると彩り深い鉱石の塊を手に取って、書斎机の上にことりと置いた。
皐瑛がその鉱石の塊に手を乗せると、しばらくしてその石自身が淡い光を放ち始めた。
「!」
やがて濃くなった光は矢の如く窓の外へと突き抜けて行き、最後には一か所に集約されて照らし出される形に変貌した。
失せもの探し――皐瑛の、特殊能力の一つだ。
「……犯人か、龍泉様の御子たちかは分からぬが、郭山に手がかりがあることは間違いないだろう」
「ありがとうございます、殿下」
皐瑛が、思ったよりも早くその能力を貸してくれたことに雪娜は素直に頭を下げた。
北衙禁軍を探って貰うだけでも僥倖だと思っていたのだ。
「皐瑛」
そんな雪娜に、皐瑛は雪娜が想定していなかったことを口にした。
「今回の礼は、一度そう呼んでくれるだけで構わない」
「…………」
殿下、お戯れを――などと言いかけたものの、存外本気に見えるその表情に、雪娜も言葉に詰まる。
「ここで無礼を咎めだてる者は、今はいまいよ。――雪娜」
再度督促するかの様な呼び捨てに、雪娜はグッと唇を噛んだ。
「……感謝する、皐瑛」
敬語の外れた雪娜の言葉に、望んだ物を手にした、そんな笑みを皐瑛は浮かべた。
「禁軍兵の方は任せておけ。挙動不審な者がいれば、容赦なく締め上げておく」
「分かりました。ですが龍泉様が――」
雪娜は、龍泉が犯人が分かれば自分に引き渡すよう要求していたことを、そこで伝えた。
皐瑛は口元に手を当てながら、少しの間考える仕種を見せた。
「それは……犯人がどんな身分の輩だったとしても、忖度は許さぬと言うことだな」
「ご自分の手で裁きをせねば気が済まぬ、と。それが龍泉様のご意思とあらば、こちらは従うより他ないでしょう」
「承知した。確かに我ら如きが龍泉様の意向を無視出来よう筈もないからな」
「有難うございます。では、更夜部内の調査や禁軍兵を探った結果を待つ時間が惜しいですので、郭山へは私が向かいます。何か分かれば連絡を入れますので」
「――頼んだ」
こうして、朱雪娜は龍の子らを探して王宮を出立することになった。




