とまどいのKISS
――最悪だ。
それは――中学時代から継続して四年間も、一途に思い続けた初恋の顛末としては、まさに最悪の結末。
何度、面と向かって告ったって、バレンタインにはチョコを渡したって、私の「好きです」って言葉には「どうも」という気のない返事しかしなかったあの人が、いともあっさりと彼女を作った!
それも、体育祭で同じ団になったのがきっかけで、すっかり意気投合したらしい私の部活の後輩と――。
「もうやだ……もういや……なんっもしたくない……!」
机に突っ伏したまま、朝からずっと同じ言葉をくり返している私の頭上で、椅子に逆向きに腰かけた前席の親友は、あまり親身とは思えない慰めの言葉をのらりくらりとくり返す。
「しょうがないじゃん。真奈がグズグズしてたんだから……」
「……してないわよ……」
「畑野が好きだ、好きだって、公言してまわってたわりには、本人に直接『つきあってほしい』っぽいことを言ったことはないんでしょ?」
「そんなの……当たり前じゃない!」
顔も上げないままに私は叫んだ。
――四年も粘った片思い。
返事を求めるようなことを言い出して、もし断られでもしたら、もうそこで失恋確定になってしまう。
ほぼ学年全員が知っているような状態だったからこそ、私の恋はみんなに応援してもらえていたのだ。
あまり恋愛事には関心がない畑野は、私のあからさまな好意を特に喜びはしなかったけれど、迷惑がりもしなかった。
だからこのまま外堀から固めていけば、いつかはふり向いてくれる予定だった。
あくまでも私の中では。
だから――
「……今はまだ、このままで良いと思ってたんだもん……!」
「じゃ、しょうがないじゃん」
一刀両断に斬って捨てられて、ちょっとムッとする。
失恋でおおいに傷ついている私に対して、その言い草はあんまりじゃないだろうか。
いくら畑野を思っていたのと同じくらいに長いつきあいの親友だからって、今日はことさら、歯に衣着せぬもの言いが過ぎる。
机の上で組んだ手の甲に額をくっつけたまま、私は口を尖らせた。
「……なんか……ハル……優しくない……」
日頃も、どちらかと言えばあまり私を甘やかしてくれるほうではない親友――ハルは、ふうっと疲れたような呆れたようなため息を吐く。
「まあね。自分は意気地なしのくせに、思い切って勇気を出して畑野をゲットした穂乃香ちゃんを、グズグズ泣いて羨ましがってばかりの真奈なんて、別に気の毒だとは思ってないからね」
「…………!」
あまりにも痛いところを突かれて、言葉に詰まった。
「ハルの意地悪……」
「今ごろ知ったの?」
「ううん。ずっと前から知ってた……」
クスリと小さく、ハルが頭上で笑った気配がする。
「あのさ、実は前から真奈に言いたいことがあったんだけど……この際だから言っちゃっていいかな?」
急に話題を変えられるから、いったい何の話だろうと興味を引かれた。
「別に……いいけど?」
本当はもう、とうの昔に乾きかけていた涙の跡を手の甲で拭って、ゆっくりと顔を上げる。
びっくりするぐらいすぐ目の前に、ハルの顔があった。
「な、何……?」
色素の薄い髪や瞳と相まって、ハルはもともとちょっと日本人離れした容姿をしている。
席が窓に近いから、今はもろに横から夕日を浴びていて、煌く髪は金色にも近い。
(うらやましいくらいに綺麗だな……まったく……)
長い睫毛に見惚れる私の視線を真正面から受け止め、ハルの大きな琥珀色の瞳が、ちょっと魅惑的に輝いた。
「これでもう畑野には失恋確定だろ……だから俺にしとけば?」
「は?」
ぼんやりとした私の頭が、投げかけられた言葉の意味を理解するよりも先に、ハルは私の顔に自分の顔を斜めに近づけて、かすめ取るみたいに素早くキスをした。
驚きに目を見開いた私の唇に残るのは、肉薄で少し冷たいハルの唇の感触。
「な!……なにすんのよっ!」
慌てて両手で口元を押さえた体勢のまま、椅子ごと後ろにひっくり返った私を心配するでもなく、ハルは笑いながらさっさと前に向き直る。
(ちょっとっ! ……今のは何? いったいなんなの? ……私のファーストキス、返せえっ!)
まさか大声で叫ぶわけにもいかず、心の中で絶叫する。
同性の友だちよりも話があって、ぜんぜん気を遣わなくてよくって、ずっと一番の親友だと思っていたハル――桜井晴斗――が、その日私の中で、『油断のならない男』に再分類された。
◆
「香織! ……香織っ! 今日、部活終わったら一緒に帰ろう! ……ねっ?」
目の前にあるハルの大きな背中から必死に目を逸らし続けた一日が終わると、私は急いで自分の席を立って、廊下側の一番後ろの席でのんびりと帰り支度をしている香織に駆け寄った。
「え? ……うん。まあ、いいけど……」
チラチラと私の背後を気にしている香織は、同じ吹奏楽部所属。
おっとりしていてマイペースだが、だからといって鈍いわけではない。
鞄の中に教科書を詰めこみながら、眼鏡のレンズ越しに私を見上げ、首を傾げる。
「桜井君はどうしたの? ……喧嘩でもしたの?」
「そっ……そんなことないわよ!」
よく聞き慣れた足音がだんだんと後ろから近づいてくることに焦りを感じながら、私は悲鳴のような声をあげた。
「ただ単に、今日は香織と帰りたいだけ! ……別にいいでしょ?」
何かを考えるような表情をしながらも、私の必死さを汲み取って、香織はひとまずこっくりと頷いてくれる。
そのくせ――
「うん……でも本当にいいの?」
私に強引に手を引かて教室を出る時には、わざわざ首だけふり返って、背後の人物に確認するのだ。
「まあ……本人がそう言ってるんだからいいんじゃないの?」
聞こえてきた飄々とした声を打ち消すように、私は大声で叫んだ。
「もちろんいいのよっ!」
クスクスクスと、うしろからよく聞き慣れた笑い声が私たちのあとをついてくる。
それでも私自身は絶対にうしろをふり返ることはせず、大股で音楽室へと急いだ。
「……急いだって、どうせ行き先は一緒だよ?」
廊下に響くほどに足音を鳴らしても、ハルのいかにも面白がっているふうの声だけは上手く拾ってしまう自分の耳が恨めしかった。
◆
「で? なんでそんなに離れてんの? いつも呆れるぐらいにベタベタしてるだろ?」
「ベ……ベタベタって……!」
ひやかすようにかけられた声に反論しようとしたのに、言葉が上手く出てこない。
全員で音楽室に集まっての合奏前。
パートごとの部分練習は、楽器ごとにそれぞれ別の場所でおこなうことになっている。
私とハルが所属するサックスパートは一、ニ、三年生がそれぞれ二人ずつの六人。
いつも隣に座って一つの楽譜を二人でのぞきこんでいる私たちが、部屋の端と端に離れているのだから、不思議に思われるのは当然だ。
でもパートリーダーの理枝先輩の言い方では、まるで私とハルが恋人同士か何かのように聞こえる。
「そんなことないです……」
失礼にならない程度に静かに否定すると、先輩方も一年生たちも、勝手にいろんなことを言い始めた。
「なんだ? ……夫婦喧嘩か? もう別れんのか?」
「ええっ! だったら本田先輩! 桜井先輩を私に下さい!」
「いや! 私! 私!」
ハルのあまりの人気ぶりにがっくりと肩が落ちる。
圧倒的に女子のほうが多い吹奏楽部。
いくら今年の新入部員の半数以上が部員勧誘の舞台でハルの笑顔に魅せられた女の子たちだとはいえ、私にとってはハルは、あくまでも親友なのに――。
全然そうは見てもらえないのだから悲しくなる。
「夫婦じゃないです……別れる以前に、つきあってもないです……」
いつもなら大声で反論するところを、力なく呟いたら、不審な目を向けられた。
「そんなことはもちろんわかってるけど……本田? どうした?」
「そんなんじゃないです! って……今日は怒鳴らないんですか?」
どうやらみんなは私をからかって、反応を見て楽しんでいるだけなんだとわかって、なおさら脱力した。
「いいです、もう……」
あきらめ気味に視線を足元に落としたら、同時に気持ちまで下向きになる。
朝からずっと、本当は私の心の大部分を占めていたはずの悲しい感情を思い出して、ため息が出た。
(そうだった……)
少しの間だけ、心から消えていた胸に痛い事実を再確認した瞬間、隣に座る一年生が廊下を通り過ぎる友人に声をかけた。
「穂乃香! おーい……フルートパートはどこで練習?」
間の悪いことに、こちらをふり返った彼女とバッチリ目があってしまう。
私を見て一瞬瞳を見開いた小柄で笑顔の可愛い一年生は、私が慌てて目を逸らすよりも先に、真顔でこちらに向かって深々と頭を下げた。
瞬間、また涙腺が緩みそうになって困る。
(わかってた……穂乃香ちゃんはいい子……思いやりがあって、気遣いのできる優しい子……だから畑野が彼女を好きになったのも無理はない……)
サックスを握る手にギュッと必要以上の力がこもってしまった瞬間、部屋の反対端から、ふいによく通る声が私に向かって飛んでくる。
「真奈。俺にしとけよ」
浮かびかけていた涙も吹き飛ぶ勢いで、私はそちらに顔を向けた。
「は?」
「うおっ! 桜井! なんだ? ついに愛の告白か?」
「唐突な奴だな……」
「いやああ! 晴斗先輩!」
先輩方の興味津々の声と、一年生たちの叫び声で、さながら阿鼻叫喚の様子を呈してきた教室の隅で、私は怒りに震えながら立ち上がった。
「何言ってんのよ、馬鹿ハル!」
「馬鹿ハルって……」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるみんなの声をものともせず、ハルの静かな――それでいて少しの笑いを含んだ呟きは、かなり離れた場所にいる私の耳までしっかりと届く。
「だって馬鹿じゃない! ……馬鹿あっ!」
首から下げたままのアルトサックスを両手で握りしめて、私は教室を飛び出した。
「おい……本田?」
「よし! 桜井、頑張れ!」
「いやぁぁぁ! 真奈せんぱーい! 晴斗せんぱーい!!」」
背後に遠くなるみんなの叫びを聞いている限り、ハルが私を追いかけてきていることはまちがいない。
「来るなっ! 馬鹿ハル!」
大声で叫びながら廊下を全力疾走する私の足は、自分でも意識しないままに自然とその場所に向かっていた。
――この高校に入学してから一年半もの間、テニス部の畑野の練習風景をこっそりと見るために、私が愛用していた非常階段の踊り場。
バアンと大きな音を立てて鉄製のドアを思いっきり閉めたのに、座りこんだ私が膝の上のサックスに顔を伏せた途端、ギイッと再び、背後で扉が開く音がする。
「ついてこないでよ! 私の秘密の場所なのに!」
涙混じりの叫びに、クスリと小さな笑みが返ってくる。
「個人練習だって嘘ついて、部活中に畑野の姿をのぞき見るのに、今までさんざんつきあわせたくせに? ……今さら?」
「だから、もうつきあわなくっていいわよ! 失恋したんだもん! 私のことは、もう放っといて!」
「それは無理だな」
あっさりと拒否される。
「泣いてる真奈を一人にはできないよ。慰めるのが『親友』である俺の役目だから」
ほんの数時間前までは確かに一番の親友だと思っていた人のちょっと傲慢な言葉に、実に腹が立ったけれど、心も震えた。
「なによ……半分はハルのせいでしょう! こんな時に変なこと言い出して!」
「別に変なことじゃないと思うんだけど……半分? ……そんなもんなの?」
問いかけられてドキリと胸が鳴った。
――なんだろう。
「もちろんそんなもんよ!」と強気な姿勢を崩したくないのに、言葉が上手く口から出てこない。
ずっと伏せていた視線を不安のあまりに上げてみたら、すぐ目の前にハルがしゃがみこんでいた。
正直焦った。
「真奈……俺が嫌い?」
目の高さを同じにした琥珀色の瞳に真摯に問いかけられて、思わず吸いこまれそうになる。
自分の心の奥深くから、決して嘘ではない言葉がすんなりと出てくる。
「き、嫌いなわけ……ないでしょ……!」
瞬間。
三階下のテニスコートから、大きな声が響いた。
「おーい! 畑野ー!」
誰かが畑野を呼ぶ声にビクッとして、首を竦めた私の両耳を、ハルの大きな手が塞ぐ。
ガヤガヤと賑やかだったいろんな声や音が、私の周りからどんどん消えていく。
「じゃあ真奈。ちゃんと俺を見て」
両手で耳を塞がれたたまま、軽く顔を上向けられて、ハルの綺麗な顔とあまりにも近くで向きあって、なんだか焦る。
ドキドキと壊れてしまいそうなくらいに胸が鳴る。
「俺にしとけば?」
妙な色香さえ感じさせる微笑に、魅せられるように目を閉じてしまいそうになった時、遠くからかすかな声が聞こえた。
「だから……何言ってんだよ、ハハッ」
(畑野!)
楽しそうな笑い声にドキリと胸が跳ねて、思わずハルの腕の中から身を引こうとした私の両耳を、大きな手がいよいよ強く塞いだ。
「俺だけを見て」
そのまますっと頬に寄せられる唇に大慌てする。
「ちょ……ちょっとハル! なにすんっ……の……!」
頬からこめかみ。
まぶた。
額。
次々と落とされていくたくさんのキスにパニックになりそうだ。
頭に血が上る。
バクバクと鳴り続ける心臓が今にも口から飛びだしてきそう。
「やめっ……やめてよ……」
私のささやかな抵抗になんてまるで耳も貸さないで、顔じゅうにキスの雨を降らせていたハルがふいにそれを止めた。
自分の声以外は何も聞こえないくらいに強く塞がれていた耳も解放されて、いろんな音が私の周りに甦ってくる。
どうやらテニス部の練習は終わったみたいで、畑野たちの声はもうテニスコートからは聞こえない。
あんなに胸に痛かった声がもう聞こえない。
ハルの大きな手から解放された途端、体中に入れていた力がいっきに抜けて、その場に崩れ落ちながら私は腹立ち紛れに叫んだ。
「馬鹿……ハルの馬鹿っ!」
ハルは私に背を向けながら立ち上がって、階段の手すりのほうへと歩いていく。
鉄製の柵に背中で寄りかかりながら、私をふり返って笑った。
「別にいいよ、馬鹿でも……」
深い愛情に満ちているように見えなくもない笑顔に、不覚にも涙が浮かんだ。
◆
「えっと……結局一緒に帰るんだったら、別に私がいなくても……?」
何も言わずに私たちのうしろからついてくるハルをチラチラと見ながら、香織が口を開く。
私はすかさずその先の言葉を妨害した。
「だめ! 私は香織と帰ってるの! ……関係ない奴は無視!」
「でも……」
香織のとまどいはよくわかる。
家が同じ方向な以上、私たち二人と微妙な距離をとったままのハルは、このままずっとうしろをついてくるのだ。
圧倒的に足の長さが違うのだから、さっさと先に帰ればいいのに、ピタリと私たちと歩く速度をあわせているところになんとも腹が立つ。
「ハル……あんたねえ……!」
とうとう腹に据えかねて、ふり向きざまに罵ってやろうとしたら、ちょっと意地悪そうな微笑と共に、人差し指を鼻先に突きつけられた。
「関係ない奴は無視じゃなかったの? ……真奈」
「…………!」
私は真っ赤になって香織の手をむんずと掴み、歩く速度を上げた。
「聞き耳立ててんじゃないわよ!」
「立ててないよ。真奈の声が大き過ぎるだけだろ……」
「うるさい! 馬鹿ハル!」
「だから、馬鹿ハルって……」
いくら早く歩いたって、クスクス笑いは全然遠くならない。
「結局普通に会話してるじゃない……真奈ちゃん、もう意地張るのやめなよ……」
「うるさい! うるさい! うるさーい!」
ハルの笑い声も香織の呟きも、全部自分の大声でかき消しながら、大股でずんずん歩いていた私の足がピタリと止まった。
一つ向こうの交差点、信号待ちをしている男の子と女の子。
楽しそうに会話しているあの二人は――。
握りしめていた香織の手を呆然と離してしまった私の腕を、その時、誰かが強引に引いた。
「行くよ、真奈。ごめんね高橋さん、じゃあまた明日」
勝手に私の手を引き、家とは違う方向に歩き出したハルが、さらに勝手に香織に別れを告げている。
「うん。また明日」
笑顔で手を振った香織は、どこかホッとしたような表情で、私たちが本来帰るべき方向へ向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっとハル……」
香織が行っちゃうじゃないのよと、叫んでふり払えるはずの手がふり解けない。
私の全身は笑っちゃうくらいに震えている。
全然そんなつもりはなかったのに、あっという間に目に涙が溜まりだして、私は自分がどんなに傷ついているのかをあらためて自覚した。
「真奈……やっぱり俺にしとけば?」
手を引きながら歩き続けるハルが、顔だけ私をふり返って、さすがにもう聞き飽きたセリフをくり返した時、ピンときた。
からかっているような表情の中に、さっき非常階段で見た優しい笑顔が混じっていると気づいて、ようやく納得した。
「ハル……ひょっとしてわざと私を怒らせてる? 少しの間だけでも、失恋したことを忘れていられるように……?」
「えっ……?」
ハルはほんの少し目を見開いただけで、柔和な笑顔を崩しはしなかったけれど、私にはそれだけでじゅうぶんだった。
長いこと『親友』をやっている私には、ハルの真意がよくわかった。
「そう……」
納得したはずなのに。
ハルの突然の告白にも、いきなりのキスにも全部説明がついて、ようやくあたふたと焦る必要もなくなったのに。
何故だろう。
さっき畑野と穂乃香ちゃんの仲良さそうな姿を見かけた時よりも胸が痛い。
涙がポロポロと零れ落ちる。
「……そんな慰めかた……いらないわよ! 馬鹿ハル!」
力任せにハルの手をふり解いて、隣から逃げ出そうとした。
でもそれはできなかった。
さほど抵抗することもなく私の腕から手を離したハルは、駆けだそうとした私をすかさず腕の中に閉じこめた。
息もできないくらいに抱きしめられて、ますます涙が零れる。
「放せ! 馬鹿っ!」
頬に押し当てられた広い胸を両腕で押しやって、なんとか脱出しようとするのにビクともしない。
ハルってば、痩せてるくせに無駄に上背があるからか、かなり力が強い。
「放して! ハル!」
じたばたと暴れる私をいよいよ強く抱きしめながら、ハルが呟く。
「慰めてるわけじゃない……」
いつもの声とはかなり違う、低くて頭の芯に響くような声に、ドキリとしながら顔を上げた私にハルが唇を寄せた。
頬を伝う涙に、濡れた睫毛に、くり返されるキスに息が止まりそうになる。
「ハル……やめっ……!」
耳元に唇を寄せたハルが、いつものため息よりもはるかに甘い吐息混じりに囁く。
「確かにこれは友だちのキスだけど……泣いてる真奈を慰めるキスだけど……じゃあ、そうじゃないキスしてもいい?」
「…………!」
それはどういうことだろう。
息が詰まるのと一緒に思考も停止する。
でもハルに対する負けん気だけは、こんな時でも私の中では決して失われなかった。
眦をあげてキリッとハルの顔を見上げ、挑むように口を開く。
「さんざん人にキスしまくったくせによく言うわ! 『友だちのキス』? ……そんな親友どこにもいないわよ!」
ハルがクスリとそれはそれは魅惑的に笑った。
「だろうね……でも俺は真奈にそうしたいから……」
不覚にも胸が高鳴る。
そんな誰でも蕩けてしまいそうな綺麗な顔で、有り得ないようなことを平然と言わないでほしい。
ハルは違うと言ったけれど、笑顔の裏にやっぱり彼の優しさが見え隠れしていて、度を過ぎた友情に激怒しているはずなのに、ついついそれすら許してしまいそうになる。
「馬鹿……」
「だから馬鹿でもいいって……」
ハルを相手に泣いたり怒ったりしている間は、もっと違う心の痛みが遠くなっていることは確かだった。
一世一代の大失恋をしたのに、今日の私はハルのせいで、ゆっくりとその痛手に浸っている暇もなかった。
だから――
「馬鹿でもいいから……キスしていい?」
悪戯っぽく問いかけられて、渋面を作りながらも頷いてしまう。
(こんなの絶対におかしいと思うんだけど……『友だちのキス』だってハルが言いはるんなら……それは別に……だってやっぱりハルが、一番私のことをよくわかってくれている親友だと思うし……)
心の中でせいいっぱいの言い訳をくり返す私をよそに、ハルは私の腰に腕を回して、これまでとは全然違う強引さで、私の体を自分のほうへ引き寄せた。
「じゃあこれは……友だちじゃないキス」
(しまった! そこを許したわけじゃないのに!)
私が心の中で失意の叫びを上げるよりも早く、ハルの唇が私の唇に重なってくる。
圧倒されるような激しさと強さで口づけられて、ヘナヘナと全身から力が抜けた。
(ちょ……ちょっと! ……ハル! ……ハルッ!!)
心の叫びとは裏腹に、ハルのキスにすっかり腰が砕けて、崩れ落ちそうになる私をしっかりと抱きしめたまま、ハルはなかなか唇を放してくれなかった。
「どう? ……やっぱり俺にすれば?」
長いキスに、体の自由も文句を言う元気もすっかり奪われて、顔を真っ赤にしたまま涙目で恨めしそうに自分を見上げる私に向かって、ハルは悪びれもせずにくり返す。
「しないわよ! 馬鹿ハルッ!」
怒って歩きだした私の手を、すぐに追いついたハルがすかさず掴む。
「馬鹿でもいいよ……」
何度もくり返される同じセリフに、呆れた私はもう返事をしなかった。
でも握られた手をふり払う気持ちだって、不思議ともう沸かなかった。
ひょっとして、失恋のタイミングにハルに上手くつけこまれた?
――なんてことだけは、絶対に認めたくないけど。