のび太の憂鬱
僕の名前は “のび太”。その名前を口にすれば、きっと誰もがあのキャラクターを思い浮かべるだろう。そう、マンガやアニメでお馴染み「ドラえもん」に登場する “野比のび太” を。
もちろん、僕は “野比のび太” ではない。苗字は皆瀬。付けられた名前以外は、ごく普通の小学生だ。
僕の父と母が “のび太” という名前を付けたのは、「ドラえもん」の “のび太” のように、たとえ勉強や運動がダメでも心の優しい人間になって欲しい、という願いからだった。それは子供に対する純粋な想いの表れであったのだろう。
けれども、そんな名前をつけられた子供からすれば堪ったものではない。
とにかく有名な名前だ。近所の人たちはもちろん、学校の同級生たちは、どうしてもそういった目で僕のことを見てくる。それは仕方のないことだと思うけれど、正直なところ、煩わしさを覚えるのも事実だ。
言うまでもなく、実際の僕にはドラえもんなんてネコ型ロボットはいない。どんなに困っていたって、いろいろな道具を出してくれる便利な存在はいないのだ。
それなのに心ない学校の同級生たちは、僕に「ドラえもん」の “のび太” を重ね合わせ、からかいの言葉をかけてくる。僕はそれが堪らなく嫌だった。
だから、僕はまだ小学生であるにもかかわらず、人一倍、努力を重ねた。
まずは勉強だ。みんなからバカにされないよう、常に成績は一番を目指した。みんなが楽しんでいるゲームやテレビなどには目もくれず、家にいる間のほとんどは勉強ばかり。それこそ朝早くから夜遅くまで、学習机に齧りついた。
両親は僕のことを、もっとのびのびと育てたかったらしく、あまり無理をしないようにと言ってくれたが、それでも僕はやめなかった。絶対に “のび太” と呼ばせるものか。ただ、その一心だけで。
そのお蔭で、僕は入学から今日に至るまで、成績は常に学年トップである。ただし、猛烈な勉強のせいで僕の視力は悪くなってしまい、それこそ「ドラえもん」の “のび太” のようなメガネをかける羽目になってしまったが……。
また、運動も苦手だと思われたくなかったので、何でも出来るまでチャレンジするようにした。
プール実習での泳ぎも、鉄棒の逆上がりも、同学年の子たちと比較して、必ず早い段階で修得するように頑張った。
もっとも、こちらは勉強と違って、どうしても体格の大きい子や運動神経に優れている子に負けることはあったが、それでも「運動音痴」とは決して呼ばせたくなかった。
こうして勉強も運動も頑張っていると、やはりちゃんと見ていてくれる人がいるものだ。
同じクラスの 安東 留実子 ちゃんである。彼女も僕と同じように勉強が出来て、しかも明るく活発な女の子だ。
だけれど、彼女は “のび太” というマンガのキャラクターとして僕を見るようなことはしなかった。ちゃんと僕という人間──同じクラスの “皆瀬のび太” として接してくれたのである。
僕は留実子ちゃんと一緒に図書館で勉強したり、二人で並んで下校する時間が好きになった。このときばかりは、クラスメイトからの「“のび太” のクセに」というやっかみの言葉も気にならなかったものだ。むしろ、得意げになっていたと言えるだろう。
ところが、周囲の奇異な目は僕ばかりでなく、いつしか留実子ちゃんにも向けられるようになった。“のび太” にも優しく接する、ただ一人の女の子なので、二人で一緒にいると “しずかちゃん” と彼女のことを呼び始めたのだ。それはクラスの男子ばかりでなく、女子の間でも囁かれた。
やがて、留実子ちゃんがそのことを知ってから、段々と僕から距離を置くようになっていった。
だから僕は思い切って、留実子ちゃんに尋ねてみたことがある。
「ねえ。留実子ちゃんは、“しずかちゃん”って呼ばれるのがイヤなの?」
そのときの僕は、留実子ちゃんが否定してくれるものと信じていた。
けれども、彼女は僕に申し訳なさそうな顔をして答えた。
「ごめんね……だって、『ドラえもん』では将来、“のび太くん” と “しずかちゃん” が結婚することになっているでしょ? ……私ね、皆瀬くんとはいい友達でいたいし、名前でからかうなんてひどいと思うけど、みんなにそういう目で見られるのはちょっと……」
それを聞いた僕はひどく落胆したけれど、一応、彼女には、「そっか」と理解を示すようにうなずいた。
「……そ、そうだよね。僕たち、まだ小学生なんだし」
たった一人の理解者すら失った僕は、何もかもが嫌になった。
どうして、“のび太” なんていう名前なんだろう。もっと普通の名前だったら、こんないじめのような仕打ちを受けずに済んだのに。
それからの僕は学校へ行く気力を失くし、登校拒否になった。いくら認めてもらおうと努力したって、この名前である限り、“のび太” のイメージはずっと消えやしないのだ。
僕は自分の部屋に引きこもった。両親はとても心配したが、僕の要求はただひとつだけ。
「お願いだから、違う名前を僕に付けてよ!」
食事も摂ろうとしない僕の悲痛な訴えに、さすがの両親も心を痛めた。やっと僕が “のび太” という名前で苦しんでいたことを理解したのだろう。それは同時に、良かれと思ってつけた名前がこんな事態を引き起こしてしまい、名付け親としての責任を感じたに違いない。
両親は早速、僕の名前を新しくしようと、家庭裁判所に名前の変更許可を申し立てた。後で知ったのだけれど、一度つけた名前を変えるのは簡単なことではない。それ相応の名前を変更する、しかるべき理由がないとダメなのだ。
そこで、僕が “のび太” という名前で、いかに精神的苦痛を受け続けてきたのかを精神科医の診断書まで手に入れて訴えた。付けられた名前により、社会生活上、著しく不便な場合は、その変更が許可されるのだ。また、父の知り合いという弁護士も、とても良く熱心に働きかけてくれた。
幸い、担当の裁判官は僕の心情を酌み取ってくれ、名前の変更を認めてくれた。その間、約半年を費やしたが、ようやく “のび太” という名前から解放された喜びに比べれば、何ほどのこともなかった。
こうして僕は改名した。新しく付けた名前は『唯男』。非常に平凡な名前だけれど、それが却って嬉しかった。
ようやく役場に届け出を提出し、自分の改名に決着がついた夜、僕は久しぶりに心地よい眠りに誘われた。
ああ、いつ以来だろう。こんなにも安らかに眠りにつけるのは。
布団に入った僕が睡魔に襲われ始めたとき、学習机の引き出しが開くような音がした。
だけど、僕はすでに夢うつつで、それを確認しようとする気も起きなかった。すっかり眠気が勝っていたからだ。
それでも、何となく枕元に立つ何者かの気配だけは感じていた。
「ねえ。君、のび太くん?」
そいつは僕に、そう尋ねてきた。何だか何処かで聞き覚えのあるドラ声で。
むにゃむにゃ、と僕は寝言のように答えた。
「……違うよ……僕は “唯男” だよ……もう、“のび太” じゃないんだ……」
それを聞いた相手は、何となくガッカリしたような感じで、枕元から学習机の方へ引き返して行った。
僕は気になったけれど、意に反して瞼は重く閉じたまま。
「なーんだ、“のび太くん” じゃないのか。ホントにもお、何処へ行っちゃったんだろう、“のび太くん”ったら」
声の主は独り言のように呟くと、引き出しの中へと気配を消した。
僕はハッとして起き上がった。慌てて学習机を確かめるべく振り向く。
でも、すでに引き出しは閉まったあとで、部屋の中には誰もいなかった。
もし、今のが夢でも幻でもなかったとすれば……。
ひょっとして名前が今も “のび太” のままだったら、僕には違う未来が待っていたのかも知れない。
そんなことを考えると、僕は生まれて初めて “のび太” でなかったことを残念に思った。